syuの日記・気まま旅

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かみのやま温泉と茂吉

2014-01-10 | 気まま旅

「上山市」県南東部の山形盆地南、上の山形。1697年「松平信通」の入部し幕末まで松平氏の城下町、羽州街道の宿場町、温泉場であった。
大正に新湯が発掘され高松・葉山・河崎が加わり「上山温泉」郷を形成さtれた。上山と云えば、蔵王の基地でもある。
春雨庵は、この地に配流された「沢庵禅師」の住まい「庵」を復元している。
金瓶は、歌人「斉藤茂吉」の生誕地。
農産物では、葡萄・サクランボ・干し柿等の栽培が盛んである。

JR奥羽本線・山形新幹線は、山形駅を出ると、蔵王を左に「茂吉記念館前駅」-「かみのやま温泉駅」となる。

茂吉が愛した上山の山々、幼いころ金瓶学校で学んだ。


1992年、新在直通方式のミニ新幹線として開業した。
名称の通り、福島駅 - 新庄駅間のほとんどが山形県内。「新幹線」と案内されているものの、この区間は正式には在来線である
奥羽本線の一部、この区間で運転される特別急行列車「つばさ」も在来線列車の扱いである。
山形新幹線の在来線区間は設備的制約(踏切の存在、130km/hを超える速度での安全設備が未整備、
福島・山形県境の急勾配区間の存在)のため、最高速度は130km/hである。

新幹線も止るモダンな「かみのやま温泉駅」


山形市、上山市と宮城柴田・刈田郡にまたがる南北約30kmの火山群の蔵王連峰。その連邦を中世、「不忘山」と呼ばれ、
844年「続日本後紀」に刈田嶺神の名が出てくると云う。江戸時代末期までは、女人禁制の信仰の山であった。
「お釜」太陽の移動で日に何度か湖水の色を変える事から五色沼とも呼ばれる。季節風が「アオモリトドマツ」の葉に吹きつかれて出来る
モンスター・樹氷が知られている。

上山から見る蔵王      「みちのくの蔵王山なみにゐる雲のひねもす動き春たつらしも」蔵王観松平歌碑より


「朝ゆふはやうやく寒し 上山の旅のやどりに 山の夢みつ」茂吉の歌碑

朝夕ようやく寒さを感じるようになってきた旅の上山で、(故郷の)山々の夢をみたことであるよ、
茂吉が昭和6年兄の病気見舞いの為帰郷し、10日間滞在した折詠まれた。

奥羽本線開場百周年記念にライオンクラブが建立、駅前の歌碑


「斉藤茂吉」 1882-1953 歌人医師 医師斉藤紀一の養子、東京帝大卒業 作歌の励み1906年伊藤左千夫の指導を受ける。
アララギ同人編集に尽力、歌集「赤光」を刊行など、アララギ派中心的存在に、作歌・歌論・西洋研究・隋筆文学でも新境地を開いた。
文化勲章受章している。「陸奥をふたわけざまに 聳えたまふ蔵王の山の 雲の中に立つ」蔵王山山頂歌碑 茂吉昭和14年

「正八幡神社」 上山市宮脇鎮座の神社 、御祭神 応神天皇(誉田別命)、例祭日 四月、神輿渡御日 九月第三日曜日
    

前川は、最上川水系須川の左支川。
南陽市新田の丘陵地を源流とし、国道13号・奥羽本線沿いを北上し、上山市街を流れ須川に合流する。
流路延長16km、南陽市小岩には分水口を設けており、導水管によりダムに貯留するという洪水調節を行っていると云う。
前川の流れる場所はダムを建設するのに適地でなく、分水口から貯水池までの区間は2891.1m。ダム完成同時期の1982年に完成している。

前川は最上川へ


「武家屋敷」
温泉街を一歩入ると、松平氏藩政時代の武家屋敷が並んでいる。

17世紀末頃の武家屋敷、釘無工法の建物が今でも堂々と、


曲屋茅葺造りと庭と、当時を偲ばせている。
上山藩武家屋敷は「森本家、三輪家、山田家、旧曽我部家」4軒が連なって現存している。
現在も子孫が住んでいる、または最近まで住んでいた生活感のある武家屋敷は、あまり無い。

国・市の重要文化財に。
    

「月待坂」の上に、月岡神社境内から上山城に入る。

「月岡神社」、鳥居をくぐると正面に立派な御神木が。
大笠松木と命名した石碑が立ていた。明治10年に移設されてたとある。境内の中央で根を下ろし荘厳さを感じさせている。

「足乳根の母につれられ 川越えし田こえしことも ありにけむもの」月岡神社歌碑 茂吉実母他界1年後
    

上山城趾、月岡公園内の「月岡神社」
月岡神社は本丸跡になり、現在の模擬天守のある場所が二の丸跡になりと云う。
月岡神社の祭神は藤井松平家の祖、松平利長公と、松平信一公。

「松平利長」1560年没、藤井松平家の初代 当主。松平宗家第五代当主松平長親の五男。
子に松平信一。松平広忠の大叔父で広 忠の家臣。通称は彦四郎。 三河国碧海藤井を領し、藤井城を築城している。

沢庵禅師は上山に配流された          月岡神社拝殿            月岡公園入口足湯もある
    

「出羽国・上山城」

高楯城主であった「上山氏」は、隣の米沢城の伊達氏との攻防が続き、1520年には、伊達稙宗の侵攻により一旦落城するものの、
1535年には、「上山(武衛)義忠」が伊達氏から城を奪還し、新たにこの上山城を築く。

義忠の子、「上山満兼」は、山形城の最上義光と対立。
最上義光は、策略により 1580年に上山家臣の里見民部を寝返らせて上山城を攻め落とし、城主上山満兼は討死。
代わって里見民部が上山城主になる。

江戸期になり、1622年、最上氏が改易された後は、松平氏や土岐氏、金森氏など城主がたびたび交代し、最後は松平信通が3万石で入封する
10代続き、明治を迎える。

曲輪跡、現在は道路と、堀切が、道路沿いにわずかに、石垣が現存していた。高楯城と近世の上山城跡。

天守閣のある堂々の「上山城」
    

1747年には、五巴徒党一揆、1771年には逃散一揆、1834年には徳政一揆が起こって、合計8名が処刑されている。
1809年には藩校・天輔館(後に明新館)が設立。
幕末になると幕府に重用され、大坂警備や江戸市中警備に出兵し、慶応2年には洋式兵学を取り入れ、慶応3年、江戸市中で浪人による放火が相次ぎ、その主犯が薩摩藩であることを突き止め、時の藩主「松平信庸」は、自ら兵を率いて薩摩藩邸を攻撃している。
これに出羽庄内藩と越前鯖江藩が同行(薩摩藩邸焼討事件)。

1868年、戊辰戦争が始まる奥羽越列藩同盟に参加、同盟方針に従って総督・山村求馬率いる洋式軍隊を出羽久保田藩に派兵する。
山村求馬は、出羽新庄藩の裏切りにより戦死、その後は庄内藩と行動を共にして久保田城を包囲した。(佐竹藩秋田城)
また、飛び地であった七日市が長岡の近所であったため北越戦争に巻き込まれ、別働隊を長岡に派遣。
米沢藩が新政府に恭順すると、背後からの攻撃を恐れて軍を引き上げ降伏恭順して、版籍奉還を迎えている。

戊辰戦争は、庄内藩と共にしている
  

「沢庵禅師」 1573-1645 幕府の宗教政策にたてついた禅僧、臨済宗の僧、但馬国出石、10歳で出家し37歳で大徳寺住持に。
紫衣事件、朝廷が決めた僧の地位を幕府が無効にした。寛永6年上山配流、三代将軍家光には許され手厚く遇されている。
たくあん漬けは沢庵が創案者、濃艶軸物を見て、色即是空・空即是色、柳はみどり花はくれない。としたためたと云う。

江戸では、品川東海寺を創建し開山し住職に
    

「春雨庵」
沢庵和光が児湯無く愛し、3年間を過ごした庵。
建物・庭とひっそりと趣深い、建物中央に鎮座する沢庵禅師像から、人物の面影を偲ばれる。

配流されたが                                           沢庵禅師像
    

後水尾天皇から、僧侶として最高の誉れである紫の衣を許されていた沢庵禅師が、1629年、紫衣事件(紫の法衣について幕府に抗弁書を提出した事件)であるが、幕府の怒りを買い、配流。
時の上山藩主、土岐頼行は、この沢庵のために草庵を寄進し、禅師は、これを「春雨庵」と名付け、3年間を何不自由なく過ごしたという。

現在の建物は、原型をその遺跡に再建、茶室が併設されている。(市資料)

母家玄関口                              石塔が
  

「栗川稲荷神社」
稲荷神社の赤い鳥居がトンネルの様に拝殿まで続く、全て信者からの奉納。
商売繁盛・金運にご利益があると云う。

栗川稲荷神社                    鳥居のトンネル
    

「蟹仙洞」は、矢来にある私設博物館。
1951年開設され、中国の明・清時代の堆朱漆器・日本刀剣・小道具・人形などを展示している。
重要文化財などもある。入館有料。

早朝で開館されていなかった
    

上山で製糸業を営んでいた故長谷川謙三氏のコレクションを展示している私設博物館。
美術品収集を横ばい人生と称し蟹の性格にたとえて命名されたと云う。

建物・庭は、創立者の大正時代の住宅も公開されている。
  

以上で東北、秋田・山形の旅は終了します。

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