幕府の馬場、区の北部、神田川で西と北・上・下高田村で下高田村は「豊島区」、神田川沿岸低地は工業地で、JR・営団地下鉄・西武新宿線の駅周辺は
再開発され商店街を形成している。駅前の大通りが「早稲田通り」。
高田馬場駅周辺には、早稲田大学・学習院・保善高校・海城学園・予備校等多くの学生で賑わう駅。
講談で知られた「高田馬場仇討・堀部安兵衛」」は西早稲田の水稲荷神社境内に碑が建っている。
今日は、保善高校・海城からJR新大久保、新宿歌舞伎町方面へ歩く。
新宿の北部に位置する地域は、「戸山ヶ原」と呼ばれ、 敗戦までは大規模な陸軍の施設があった地域です。
陸軍軍医学校・公園には、かまぼこ形の射撃場・兵舎があった。
また、731部隊が、生体人体実験を行ったとされる、「防疫研究室を含む軍医学校」も 現在は、戸山公園の運動場や、 国立感染研究所、障害福祉センターなどになっている。その一角に、陸軍第一病院から軍医学校へ通じる、 地下道の出入口の跡が残っていると云う。
「戸山公園」
新宿区にある都立公園、敷地は明治通りを挟んで、大久保地区(西側)と箱根山地区(東側)に完全に分かれ、地名としては、戸山二丁目・三丁目と大久保三丁目にまたがる。
当地一帯は、江戸時代には尾張藩徳川家の下屋敷、2代藩主「徳川光友」により、回遊式庭園「戸山山荘」として整備され、敷地内には箱根山に見立てた築山の玉円峰(現在の箱根山)、東海道の小田原宿を模した建物など二十五景が、11代将軍「徳川家斉」の訪問を受けるなど、水戸藩徳川家の小石川上屋敷と並ぶ有数の大名庭園であったと云う。
この頃の戸山山荘を描いた谷文晁による絵巻が現存している。その後は数度の火災や水害により荒廃したが、尾張藩の財政難などもあり復興されず、明治維新後、戸山山荘は明治政府に明け渡され、跡地には1873年、陸軍戸山学校が開かれ、太平洋戦争終結まで、陸軍軍医学校、陸軍の練兵場などに利用。
戦後、軍事施設はすべて廃止され、1949年の昭和24年、跡地に戸山ハイツの建設が開始、一部を公園として整備され、「戸山公園」として開園。
「保善高校」
1916年 - 安田財閥の「安田善次郎」翁の寄付に基づき、東京市神田錦町に前身の東京植民貿易語学校が開校、
まもなく安田財閥の持株会社である安田保善社に経営が移管となる。校長は「新渡戸稲造」。
1920年 - 東京植民貿易語学校夜間部を併設。1923年 - 東京保善商業学校(昼間部)を新設、同時に東京植民貿易語学校夜間部を改組し新たに現在の保善高校の前身である東京保善商業学校(本科夜学課)を設置。 関東大震災で創立当初神田にあった校舎が焼失。
1924年 - 東京植民貿易語学校(昼間部)・東京保善商業学校(昼・夜)が東京市本所区(現・墨田区)横網に新校舎を建設。
安田保善社が新たに設立した保善商工教育財団の経営に引き継がれ、、、、、。
陸の保善・海の海城、陸(軍)の保善は、戸山公園入り口前
「海城中・高等学校」
1885年の明治18年、 漢学者の新楽金橘が余力学舎を芝区三田(現、港区三田)に創立。翌年、 余力学舎を東京英華学校と改称。
1888年、 麻布区桜田町、麻布区仲ノ町(現、港区西麻布・六本木)に移転。東京英華学校を海軍兵医学校予備校と改称。
1890年、 麹町区元園町(現、千代田区麹町)に移転。 海軍兵医学校予備校を一旦廃校し、古賀喜三郎が私財を投じて海軍予備校を創立。
1899年、 麹町区霞関町(現、千代田区霞が関)に移転。海軍予備校に併設して日比谷中学校を設置。1900年、 海軍省の要請により、海軍予備校を
海城学校と改称。 海城学校・旧日比谷中学校校友会を合併し学友会が発足。 日比谷中学校閉鎖、海城中学校発足。財団法人海城学校認可。
1921年、 海軍予備校・日比谷中学校・海城学校・海城中学校の卒業生を糾合して、同窓会組織である海原会が発足。 豊多摩郡大久保町字百人町
(現在地)移転。1931年、 財団法人海城学校を財団法人海城中学校と改称。1944年の昭和19年、 太平洋戦争激化により、生徒が勤労動員に出動、、、。
海城中・高等学校
「全龍寺」
鐵雙和尚が寛永年間の1624-1643年に創建したと伝えられる。
鐵雙和尚は、成願寺六世で寛永初年の1624年、「清見寺」を創建したと伝えられる。
清見寺創建の後、創建したものと推定。 禅宗曹洞派、多摩郡中野村の「成願寺」末寺、
徳川家康は,今川氏に人質としてあったが、清見寺の住職太原雪斎に師事し、当寺で勉強していた寺。
海亀山と号す。 閻魔堂・ 鐘楼、貞享年中鋳造の鐘
「皆中稲荷神社」
新宿区百人町にある稲荷神社・市街地に鎮座している。賭け事に利益があるとして知られている神社。
祭神ー宇迦之御魂神
天文2年の1533年ある夜、稲荷大明神が鉄砲組与力の夢枕に立ち射撃を伝授し、その霊験が評判となり、「皆中稲荷(みななかのいなり)」
と呼ばれるようになった。
その後「当たる」ものに利益があると人気をあつめ、「賭けごとの神」として親しまれていると云う。
歴史ー天文2年(1533年)、創建ー明治32年、明治天皇によって大久保つつじの和歌が詠まれる。昭和16年、大久保つつじの和歌の記念碑が建立し、
平成14年2月、「例祭」に、「鉄砲組百人隊行列」が、(区の無形民俗文化財)
「新宿・百人町」の地名。
内藤清成が率いていた伊賀組百人鉄砲隊の屋敷があったことに由来。
百人組と呼ばれた江戸の街の警護を担当する鉄砲隊は、その鉄砲術が江戸でも1、2を争うほどの腕前であったという。
江戸時代、鉄砲隊が居住し副業としてつつじの栽培が盛んであったと云う。
由来を持つ青山百人町(青山)、根来百人町(市ヶ谷)も存在したが町名の統廃合で姿を消している。
大久保百人町が残るのみ。
次回は、新宿歌舞伎町方面へ。
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