syuの日記・気まま旅

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宮島 厳島合戦跡 要害山

2014-06-22 | 気まま旅

「以八寺 光明院」
浄土宗の寺。京都の知恩院の末寺で、1583年、年頃、「以八上人」の開基。
宮島の産業として杓文字の製作技術を島民に広め、水飢餓に苦しんでいた島民のために各所に井戸を掘り、道路を改修するなど、島民に物心ともに大きな影響を与えた「誓真」、この寺で修行し、後に南隣にあった神泉寺(現在は廃寺)の番僧になる。
「誓真」の功績を称えた誓真大徳頌徳碑は、この寺にある。
                       
    
                        
「山辺の古径」
緑豊かで静かな山沿いの道、宮島張り子の工房や寿山亭の土壁に安置された女人像、乳地蔵のある女人坂。
南側に下りる小路は「鬼隠」。坂の下には、角を曲がった一帯は魚之棚町で、昔は魚の荷の揚げ下ろしが行われた浜辺で魚市場も立っていと云う。
山沿いの道のため勾配がきついところもある、坂の上の高台からみる眼下の景色は、素晴らしい。
古い石垣や桜の老木、猿瓦と呼ばれる瓦や小さなお堂などがある。浄土宗の古刹・光明院もこの一角に。

    

                       宮島町・宮尾城跡「要害山」

宮尾城跡・要害山は、1555年、毛利元就は陶晴賢を討つ為に、厳島に戦場を求めここに城を築き拠点とした。
「陶軍」の広島湾進出を阻止しようと軍備を整え、城は、数個の郭に分かれた山城、海上に突き出し、毛利水軍と連絡できる水軍城の特色を持つ。
1555年9月、陶 晴賢は、2万余の大軍率い厳島に上陸し、五重塔がある塔の岡付近に本陣を置いてこの城を攻撃したが、
毛利300余の城兵はよく守り持ちこたえ、元就は主力の軍を率い、包ヶ浦から上陸して、山を越え背後から陶軍の本陣を急襲し、この城兵も主力軍に呼応して陶軍を壊滅させた。 「毛利元就ゆかりの地・厳島合戦跡」である。

宮尾城跡


「武田元繁と毛利軍の有田合戦」1517年
武田元繁 は、毛利方の 小田信忠 が城主の有田城を落とし、その後、毛利本家の都山城(高田市吉田町)を攻める策に出る。
局地的な戦いにおいては一進一退であったが、武田の大軍に攻められた有田城は命運尽きたかにみえたが、援軍の元就の奇襲を受け 有田中井田 で
元直 が戦死。 これを知った武田元繁 は、「 元就 を討ち取って 元直 の弔いに」と総攻撃をかけた。 
さすがに毛利方も敗走をし、武田方の勝利は間違いない戦況となった。
ところが、武田元繁は、血気にはやり、自ら敗走する毛利兵を深追いし 「又打川」 を飛び越えようとしたその時、近くに潜んだ毛利方兵士の弓矢を胸に受け落馬し憤死。この戦で宗端 も戦死。

総大将を失った武田軍は戦意をなくすもの、決死の弔い合戦を挑もうとするものでまとまらず結局敗走、安芸武田氏はこの戦いの敗北を機に、1221年、
武田信光 が初めて安芸の守護に任ぜられてから約300年にして、大きく衰退の道を歩むきっかけとなってしまう。



毛利氏の飛躍のきっかけとなった合戦が1540年の「郡山合戦」。
山陰に勢力をもつ月山富田城(島根県)の尼子氏が大軍勢を率いて郡山城の北4kmの「風越山」に本陣を置き、合戦が始まった。

毛利元就は、「宮崎・長尾で戦い」、大内軍が尼子の本陣を攻め、尼子久幸は討死、当主の尼子詮久は、富田城に敗走した。
1553年には、三次の旗返山城など備後地方の諸城を攻め、1555年10月、厳島合戦で陶氏、続いて山口で大内義長を滅ぼす。
1562年、ついに尼子義久らは降伏、元就は西日本最大の戦国大名となる。

中国地方平定の5年後、1571年6月、毛利元就は郡山城において病のため75年の波乱の生涯を終える。
信長37歳、秀吉35歳、家康29歳。
毛利家は孫の輝元が継ぎ、1591年、広島に築城、本拠を広島に移したのである。



「戦の勝ち負けを決めるのは数ではない」「黒田官兵衛」は、英賀合戦で自信を。

毛利軍5000で襲来する。浦宗勝は姫路城から約7キロ程度離れた英賀村に海から上陸します。5000の毛利軍が攻めてきたと聞いた小寺政職は、完全に逃げ腰、が、官兵衛は自らの手勢をかき集め、1000の軍勢で出陣する。
毛利軍は、長時間船に揺られていたので疲れが溜まっていると読んだ官兵衛は、上陸直後の毛利軍に奇襲攻撃を仕掛け、上陸直後で陣形も整っていないことに加え、大軍相手に戦を仕掛けてくるとは思ってもいない毛利軍は一気に攻め込まれる。



晴賢自身が軍を率いて厳島に上陸したのは、1555年9月のこと、岩国付近を出発した時の船団の規模は500艘、兵の数は2万とも3万とも伝えられ、
陶軍は、厳島の大元浦に上陸し、厳島神社近くの塔の岡に本陣を置き宮尾城を包囲し攻撃を開始。
この時、晴賢は城を包囲したもののすぐには攻撃せず数日間を置いている。
これは陰徳太平記によると易でいう悪日を避けたためとされているが、桂元澄が寝返るのを待っていたからだとも言われる。
この攻撃の遅延が陶軍の敗因の一つという指摘もある。

宮尾城跡(要害山)
一方の毛利軍も、主力が厳島の対岸に位置する草津城(現在の広島県広島市西区)に集結していたが、兵数は4千から5千程度であったとされている。
この兵力差を埋めるために元就は狭い厳島に実際に陶軍を誘い込み、身動きの取りにくい状況を作り出すことに成功したが、海上での戦いでより確実に勝利を収めるため、厳島の接近と、晴賢が厳島から脱出するのを阻止するために傘下の毛利水軍ばかりでなく伊予の村上武吉・村上通康ら伊予水軍にも援軍を求めた。
この水軍はなかなか現れず元就も援軍を諦めたほどだったが、厳島に渡る直前になって約300艘が到着し毛利軍に加わった。

    

「尼子経久」1458-1541 出雲の守護代から大大名に、月山富田城主、中国地方11ヵ国制圧、朝鮮貿易を行う、天性無欲と云われた。
「大内義興」1477-1528 10代将軍足利義植復職させた管領代、新興勢力「尼子氏」と交戦する、周防国、山口帰国し京都から人々が流入した。
「陶 晴賢」 1521-55 大内義隆の重臣、尼子氏と戦う、主君自害させ実権を、厳島で、毛利に敗れ自刃した。
「大内義隆」 1507-51 出雲の尼子氏と攻防、大陸貿易を行い、キリスト教布教許す文化人、陶晴賢に追い詰められ「大寧寺」で切腹。

    

「伊屋山 在光寺」は、 曹洞宗の寺。本尊ー 阿弥陀如来。広島・四国新88ヶ所ー72番霊場
要害山の麓にある寺。開基は不明、約300年前に出雲の「一畑薬師」から十二支人を持ち帰って開いたと伝えられる。
薬師堂があり、目の不自由な人に対してご利益があると信仰。

    

帰りは、街中を走る「広電」路面電車で「広島駅」まで、約1時間強。

  

次回は、呉へ。

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