syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

秋田 久保田城と千秋公園

2013-12-08 | 気まま旅

冬長く、夏短い典型的北国、冬場の日照時間、東京と比較すると一カ月160時間の開きがあると云う。農業が盛んで酒蔵も数多く全国的に人気がある。史跡と自然豊かな水と祭りの町秋田市内を散策する。
見所は、千秋公園、市制100周年を記念して復元された久保田城御隅櫓が人気を呼んでいるという。
「御隅櫓」城内に八つの御隅櫓があったっという、復元は本丸の北西隅に造られている。
江戸時代の櫓は、「矢を射る座(くら)」見張り場ー矢倉で武器庫の役割を果たし、土塁や石垣等の城の囲いに沿って建てられて多門櫓と
城のコーナー部に立てた隅櫓があったという。

「彌高神社」は、祭神ー、平田篤胤、佐藤信淵、県社、創建ー明治14年。

明治14年 1881年、秋田出身の国学者・神道家「平田篤胤」を顕彰し崇敬するため平田門人「小谷部甚左衛門」らの有志が、
秋田市の日吉八幡神社境内に平田篤胤を祀り創建。
平田神社を母体。明治42年、秋田県教育会が中心となり久保田城内の正八幡社(旧県社八幡神社)を購入のうえ修繕し、
「佐藤信淵」を合祀、「彌高神社」と改称した。
大正5年、現在地に移築され、大正8年県社に列せられたと云う。
明治時代創建の神社であるが社殿が江戸時代の建築であるため、権現造の形式。
公園北の丸城下町に位置する。

千秋公園にある「彌高神社」                  境内
    

                        拝殿


「千秋公園」面積ー162900m2、1890年(明治23年)に 陸軍省から旧藩主の佐竹氏へ城跡が返還され、うち本丸・二の丸を秋田市が佐竹氏から借り受けて中央公園となる。 1892年「 羽生氏熟」ら旧藩士による「有終会」が、秋田市に桜の苗木1170株を寄付。 保戸野金砂町にあった与次郎稲荷神社が本丸に移転。

久保田城跡               大手門の堀跡          佐竹義堯公像
    

鬼義重と云われた勇将「佐竹義重」1547-1612 大田城主 義昭の長男、常陸一国平定、下野国南部にせいりょくを伸長させ、上杉謙信
武田信玄、と同盟を結んでいる。小田原北条氏・陸奥の伊達氏とは、敵対、秀吉に通じ小田原征伐後には、常陸・下野二国の支配権をえている。54万石を領した。敵陣に騎馬で突入は、「鬼・義重」と呼ばれて恐れられたが、平素は慎重で床の位置を変え、寝室にカギをかけていた
暗殺を恐れたと云う。関ケ原の戦いは中立を保った。国替えで許されている。

「佐竹義宣」1570-1633 秋田久保田城主。義重の長男、関ヶ原の戦いで中立で、出羽国秋田・仙北転封、石高半減となる。
秋田では、藩政改革を断行し、才覚者を奉行に登用、秋田杉の育成に力を入れ、銀山開発など天然資源を活用していく。
指紙は、開墾した土地は自己の知行地に加えてよいと開拓許可状を与え、見事危機を乗り越えている。他藩をさきがけたもので名君。

久保田城隅櫓                 (展望台)                    土塁
    

「秋田藩主佐竹氏」は、源氏の流れをくむ名門、古い歴史を持つ大名。
関ヶ原の合戦のあと、秋田に転封され、「佐竹義宣」久保田の地、神明山(現在の千秋公園)に新たに城を築き、城下町を建設した。
以来、秋田市は久保田城下町を中心として近世・近代都市として発展。

「佐竹史料館」は、公園久保田城二の丸にある。施設と連携して佐竹氏関連の資料を展示し、秋田の藩政時代を紹介している。

秋田市内                        中央通りが
  

二の丸広場の、奥の庭園にある池、胡月池。
城跡には無かった池、明治29年に県に移管された際に、県立公園の庭としてつくられたもの。
藤棚とハスが見事で、市民に親しまれている。
この池のハスは、ハスの研究で有名な大賀一郎博士が昭和27年、千葉県検見川の遺跡から発掘した約2千年前の種子を発芽させて、育てることに成功した大賀ハスと云う。

公園内には、              鐘楼・茶室・表門・八幡神社など
  

藩政時代に入ると本格的な新田開発が行われ、1602年、移封により秋田入りした佐竹義宣は領内の総検地を実施するとともに新田開発を行う。河川の氾濫、洪水被害防止対策を目的に皆瀬川と成瀬川の合流工事にも着手、藩直轄による水利事業はあまり例を見ないと云う。
豪雨で川が氾濫すると水路や水田にも被害がおよぶ不安要素の多い稲づくりであったため収穫安定のために佐竹公が苦慮していたことがこの出来事で伝わるとも云う。

平鹿堰(731年頃)をはじめ、亀田堰(1608年頃)、岩崎堰(1612年)、十三合堰(1713年頃)下堰(1789年)など次々と堰の開削が進められかんがい期には河川の水量が少なく、度々干ばつに見舞われている。また洪水が一度起これば被災した井堰、水田などの復旧には莫大な労力が必要となり苦難の連続であったと思う。
そして、現在、秋田県は、苦労の歴史を越えて全国有数の穀倉地帯に躍進。

所々に土塁・石垣・堀が残っていた
    

酒造業に適した米産地に、秋田県は気候的にも米作に適した地域で、良質な穀倉庫として全国的に知られ、 清酒出荷量は全国4位、酒米生産量は全国5位。
要因としては、雄物川、米代川、子吉川といった一級河川が豊かな水利としてほぼ全域の耕地を潤している。米の新品種開発等研究の取り組みがさかんなことなどがあげられる。

「あきたこまち」は飯米として有名ですが、酒造りに適した米、酒造好適米(酒米)も「美山錦」「吟の精」が県内で広く栽培されてきた。
各地域の研究会では栽培適地を厳選、さらに品質の安定をめざして契約栽培を実施するなど、栽培から出荷まで一貫した体制で良質の酒米を生産し、豊富で良質な「秋田米」を贅沢に使用し、丁寧に磨き上げ、秋田の酒ならではの豊かできめ細かい味わいの酒を生み出せると云う。

櫓展望館内には近世の史料が
  

公園の明神山は、3つの高地からなる標高40mの起伏のある台地で三森山とも呼ばれていた。
本丸は最も高いところを削平や土盛をして造られ、義宣は、秋田転封後の石高は20万石と常陸時代の半分以下になりましたが、佐竹氏は明治まで秋田を治め続けた名門。
そして明治時代になり、廃藩置県により、久保田城跡は千秋公園として整備された。

遺跡が
    

佐竹氏の歴史が解る。
  

「御物頭御番所」二の門・長坂門の開閉の管理と城下の警備、火災の消火などを受け持った物頭(足軽組頭)の詰所になっていた所。
久保田城内に藩政時代の建物として残っていた貴重な建物。

規模間口10m強、奥行9m強、総床面積125㎡ある。

表門と番所
    

「八幡秋田神社」は、千秋公園内に鎮座している。
祭神は、「品陀別命、息長帯姫命、比賣神、佐竹義宣朝臣、佐竹義和朝臣、佐竹義尭朝臣、相殿に倉稲魂命、猿田彦命、大宮賣命、武甕槌命、倉稲魂神」

茨城の太田城に創建した佐竹家の氏神を久保田城内三の丸八幡山に遷座し、江戸時代は佐竹家の氏神様。これを明治32年本丸へ遷し、
明治40年には初代藩主・佐竹義宣公、九代藩主義和公、十二代藩主義堯公を祀る秋田神社を合併、八幡秋田神社と改称し、内町(武士の町)の総鎮守となる。

武士の総鎮座、八幡神社
    

「東海林太郎記念碑」
直立不動で歌う姿と数々のヒット曲で知られる流行歌手・東海林太郎(1898~1972)は秋田市出身。前に人が立つと「国境の歌」などが流れる。

作詞、大木惇夫・作曲、阿部武雄の「国境の歌」

      橇の鈴さえ 寂しく響く   雪の曠野よ 町の灯よ   一つ山越しゃ 他国の星が   凍りつくよな国境。

  

明徳館跡は、市内中央、1789年、久保田藩の家老「疋田斎(柳塘)」の申し渡しによって藩校建設が公式に決定し、翌年1790年に校舎完成、
1792年開講された。
校名を明道館から明徳館とし、武芸所、医学館、和学方等を徐々に整備し、明治初期まで存続した。
寛政元年 1789年 藩校創設の旨を布達。1790年 東根小屋町(現在の秋田市中通二丁目)に校舎落成、当初は、校名はなく、単に学館と称し
1792年 学館開講している。1793年 幕儒山本北山を招き、学則を制定。校名を「明道館」と定め、1793年 督学開始、1795年 医学館開設。
1811年 第2代祭酒の金宇平治(岳陽)が校名を「明徳館」と改めた。1825年 和学方開設。1868年 戊辰戦争の際、明徳館は、奥羽鎮撫総督の本陣・政庁・政務所とされている。

砲術所跡は、駅南児童公園に。
    

市内、寺町などへ。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿