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syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

栗橋 静御前ー江戸川を下る2

2016-05-10 | 気まま旅
JR宇都宮線で、大宮駅から8駅が「栗橋駅」-大宮ー土呂ー蓮田ー久喜ー栗橋で次が「古河駅」ー宇都宮へ。

まず、土呂駅を出ると見沼代用水西縁を越え芝川を渡り、東大宮駅、上尾市に入り国道16号の高架橋をくぐり見沼代用水東縁および綾瀬川を渡って蓮田市、両水路の河岸に連なる田畑を越えて再び市街地に入ると蓮田駅である。
元荒川の橋梁を渡る。江戸時代以前は元荒川が荒川の本流であったが、利根川東遷事業と呼ばれる河川工事の結果、荒川は、入間川に合流して隅田川へ、(現在の流れに瀬替えされ、この川は、元荒川)
元荒川沿いの低地から台上に上がり、新興住宅街の中を走って化学工場、マンション群が見えて来ると白岡駅に着く。
隼人堀川を越え東北自動車道の高架をくぐり姫宮落川を越すと新白岡駅・新白岡駅を過ぎ、田畑や果樹園を見ながら備前堀川、備前前堀川を越えると久喜市、市街地に入り、西から東北新幹線の高架、東から東武伊勢崎線の線路が近づくと久喜駅に着く。
久喜付近からは車窓東側に筑波山が見えてくる。
青毛堀川を越したところで東武伊勢崎線は宇都宮線を跨ぎ、西へ向かう。
田園地帯に入り間もなく古利根川の源流部にあたる葛西用水を渡って旧鷲宮町の東鷲宮駅に着く。この駅は、昭和56年、に貨物駅として開業、その後旅客駅となったが間もなく貨物扱いは廃止され旅客扱いのみとなった。
東鷲宮駅を出ると田園地帯を走り、中川を渡って旧栗橋町に入る。築堤上に敷かれた東武日光線の線路が宇都宮線を跨ぐと住宅地となり、目的駅の「栗橋駅」に着く。

栗橋は、江戸時代には日光街道栗橋宿。
渡良瀬川(利根川)渡しがある交通の要衝として賑わった所。
加須市(旧大利根町)は、利便性が高まったと云う。
栗橋駅を出ると宅地の間の築堤を登りながら東側にカーブし加須市域をかすめ、日本国内最大級の河川で「坂東太郎の異名でも知られる利根川」を渡ると、茨城県古河市に入る。

    JR宇都宮線の車中からー1885年大宮~宇都宮間開通した。
  

埼玉県の三偉人は、「畠山重忠」1164-1205 剛勇鎌倉武士
         「塙保己一」1746-1821 7歳で失明、農民の子国学者・大阪商人鴻池から数千両の借金をし、質素生活を
                     晩年、「群書類従」の編纂が認められた超人的な記憶力を誇ったと云う。
         「渋沢栄一」1840-1931 明治・大正の実業家、教育に力を注いだ。

             源義経を慕って舞った白拍子「静御前」
    

義経は1尺の布・兄頼朝は100尺の布、お願いですから弟を助けてください。義経は、何にも・・・・。

「吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし 跡ぞ恋しき 回波回さず 阿歌の心 南山の雪 終古に深し」

「白拍子・静御前」、生没年不詳 源義経の妾・母は磯禅師。
義経は、兄頼朝と闘う決意を固め、西国へ、が、船が難破し、手勢チリジリ、数人の家来と共に吉野山へ逃れた。その時静御前も同行、険しい山中で無理と、別かれている。その後、母と共に捕われ鎌倉に送られた。(尋問には答えなかったと云う)
頼朝の妻、政子の所望により、静は、「鶴岡八幡宮の回廊」で舞う。
鼓ー工藤祐経・銅拍子ー畠山重忠。

「源義経」1159-89 悲運の武将 義朝の九男、鞍馬寺預けられ、脱出し奥州平泉「藤原秀衝」の庇護を受ける。兄頼朝の挙兵を知り参加平家討滅に大功をたてた。頼朝の許可なく任官し怒りをかって対立する。

    。 静は、奈良吉野山、初冬の山の中でさまよい、頼朝の僧兵に捕えられ、鎌倉へ。
  

武士たちは、静の勇気と愛に感動したが、頼朝は怒った。政子は、それをとりなしたと云う。
間もなく静は、男児を出産するが殺されている。その後の行方は不明である。

「栗橋町」は、埼玉県北葛飾郡で県の北東部「利根川」を境に茨城県と接し、江戸時代初期、茨城県五霞村が移住開発された。
日光道の本陣・宿場・関所があった。それは、利根川の渡船場があり、中心地であった。
今は、宅地化が進んでいる町。

      

「伝説」
古河・栗橋の地には、伝説が残されている。
吉野の山で義経一行と別れた静は,頼朝方の追手に捕らえられて鎌倉に送られた後,一旦は京都に帰ります。
しかし、義経を慕う思い絶ち難く、1189年、奥州平泉へと向かう旅に出ます。
同年5月に,下河辺荘高野(埼玉県杉戸町)に着いた彼女は,栗橋関所(当時は五霞町元栗橋に)が厳重に警備されていることを知り,八甫(同鷲宮町)を経て,義経の叔父が住職を勤める「高柳寺(同栗橋町)」に
一泊し、北を目指して下総国下辺見(古河市)にたどり着くのですが,ここで旅人から義経が既に殺されたことを聞かされ,静は、奥州に行って義経を弔うか,それとも諦めて京都に戻るか,迷った末に京都に戻ろうと決めますが(一度は栃木県宇都宮市まで行ったという説)
愛する人の死に既に生きる望みを失っていた彼女は,慣れぬ旅の疲れから病に伏してしまい、「高柳寺」で剃髪して尼となり、その数ヵ月後
「九郎ぬし(義経様)」という言葉を最期に,22歳の若さでこの世を去る。・・・伝説。

    

吾妻鏡より
政子は静御前の舞に対して、頼朝に「不本意に別れる事になった人を慕う気持ち、私にはよく判ります。私達だって、昔は、似たようなもの
でしたではありませんか」その年に、男の子を出産したが、頼朝の令で鎌倉の海へ。
義経は、三人の女性が、「静御前」と、「郷御前」(正室、関東豪族の娘でー二代将軍頼家の乳母の娘・スパイ説もある)と「蕨姫」(平時忠の娘
壇ノ浦の戦い捕えられ都に戻っている。頼朝から怒りをかい、時忠は能登半島に流刑。
平家物語は、時忠は、義経に押収されたが、機密文書をどうしても取り戻す為、義経に娘を差し出したとある。その娘が蕨姫先妻の子で婚期を逃し
23歳とある。機密文書は、時忠に返却し、焼却処分されている。義経は、蕨姫に会うため能登半島にも、

           義経の三人の女性、静御前・郷御前・蕨姫
      

 2008年・平成20年ー権現堂調節池(行幸湖)と合わせ、「埼玉県営権現堂公園」として整備された。



「権現堂堤とアブラナ」
中川の堤防上約1kmにわたって、約1000本の桜並木が続く。
桜は、ソメイヨシノで、4月上旬が見ごろ。

近年は開花時期が早まって、桜の開花と同時期に堤下に広がるアブラナも咲くため、ピンクと黄色のコントラストが美しいと云う。
堤下には他にも全国から集められた様々な種類の桜が植樹され、桜祭りの期間中は、中川に架かる外野橋は夜間ライトアップされ、
夜桜見物の人の目を惹く。また、100種約15,000株のアジサイや、約100万本の曼珠沙華が堤に植えられている。
社団法人日本観光協会が主催する平成19年度の「花の観光地づくり大賞」において「フラワーツーリズム賞」を受賞。
現在の日光街道(現国道4号)の栗橋交差点(国道125号との交差点)付近から中川に架かる「行幸橋」の築堤は、

                  かつての行幸堤。
    

大正元年・権現堂堤と権現堂川
明治9年、明治天皇が東北巡幸の際に立寄ったことから、行幸堤とも呼ばれるようになったと云う。
    

江戸時代の天正年間・利根川の支流(現在は分流)である「権現堂川」

堤防として築かれ、かつては6kmにわたり約3000本の桜があり、大正時代から桜の名所として賑わっていた。
    

大正9年、に桜を植え替える運動が、利根川や江戸川の流路変更に伴い、権現堂川は明治時代の終わりに締め切られ、昭和8年、廃川に、堤防は、荒れ果て、堤防の桜は終戦前後の混乱や燃料にするために、その多くが伐採さた。
    

昭和24年、旧権現堂川堤防のうち中川の堤防として残った部分へ改めてソメイヨシノを植樹したものが現在の権現堂堤である。

昭和63年,アブラナが、平成8年,一部にアジサイが植えられ、平成12年、曼珠沙華、平成15年、スイセンが。