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syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

赤坂見附から紀尾井坂

2014-11-01 | syu散歩
久し振りに都内を散策 

地下鉄丸の内線「赤坂見附」下車。「D」出口を出ると「赤坂見附交差点」ここは、港区である。迎賓館の先は新宿区、弁慶堀・弁慶橋を渡ると千代田区
青山通り・三宅坂・紀伊国坂・首都高4号線・地下鉄銀座線・丸ノ内線・千代田線・半蔵門線・赤坂東急ホテル・弁慶橋を渡ると・工事中のプリンスホテル・ニューオータニ・参議院議員宿舎と清水谷公園で住所は千代田区紀尾井町である。
江戸城の外堀に位置し、赤坂御門付近を赤坂見附とも呼んでいた。

           赤坂見附交差点             正面赤坂東急ホテル


江戸期は、尾張・紀伊の徳川家や諸大名武家屋敷地が広がっていた。尾張徳川家上屋敷跡が旧赤坂離宮・現迎賓館・東宮御所になる。
防衛庁は、山口3藩大名屋敷跡地で旧陸軍連隊があった所。
赤坂見附と云えば、江戸後期の歓楽街で料理屋が並んでいた。今はホテル街に。

     弁慶橋        弁慶堀            釣りボートが
    

千代田区は、皇居を中心に、城の外堀に囲まれた区。太田道灌江戸城築城時は、千代田・宝田・祝田の3村があったと云う。別称江戸城を千代田城と。
武蔵野台地東部(麹町台地)と駿河台地からなり、東部の沖積低地と崖端の神田山・紅葉山、日比谷地区には東京湾入江の浅海を山を削り埋め立てて現在に。丸の内・大手町・内幸町は、ビジネス街に、永田町は議事堂立法機関区、霞が関は中央官庁、有楽町は商業都市、駿河台は文教地、神保町は書籍
の形成に。

地下鉄赤坂見附駅D出口付近   ホテルオータニ横上り坂          向かい側プリンスホテル大工事中
    

「清水谷公園と江戸水道石枡木管」
石枡は、昭和45年の麹町通り拡幅工事の際に区麹町3-2先の道路で出土した玉川上水幹線(本管)の一部。
江戸は、慶長・寛永期と時を経て人口が増加すると、小石川上水や溜池上水といった旧来の上水だけでは水不足となり、新しく玉川上水が開発さた。
玉川上水は、1653年に着工され、翌年に、羽村出身の清右衛門・庄内衛門兄弟によって工事は完成したという。
工事、羽村で堰を設けて多摩川の水を取水し、武蔵野台地の勾配を利用しながら四谷大木戸(現在の新宿区四谷4丁目)に至る43kmに及ぶ水道を造り、
四谷大木戸で石樋や木樋もくひによる暗渠となり、江戸城内をはじめ、麹町・赤坂・虎ノ門などの武家地や京橋川以南の町地にも給水。

発見された水道は、四谷門をわたり江戸城内に給水された玉川上水幹線で、数段重ねた石枡に木樋を繋いで、当時は、所々に分水用や水質管理用、揚水用の枡などが設けられていた。この巨大な石枡は、江戸水道幹線の大きさを示すと云う。

                           清水谷公園
    

「清水谷公園」
公園のある紀尾井町は、江戸時代、紀伊(紀州徳川家)、尾張(尾張徳川家)、井伊(井伊家)のそれぞれの屋敷があった場所である。
隣接するグランドプリンスホテル赤坂は江戸時代まで紀州徳川家の上屋敷があり、清水谷公園付近で隣の井伊家の屋敷と接していたと云う。
井伊家との境目付近が谷だったことと、井伊家との境目付近の紀州徳川家の屋敷から清水が沸き出ていたことから、付近は「清水谷」と呼ばれた。
その後の明治11年、当地付近に自宅を構えていた大久保利通が暗殺されるという事件が起きた(紀尾井坂の変)。
後に暗殺の現場となった当地に大久保利通哀悼碑が建てられた。1890年に「清水谷公園」として開園。
6.27 m の高さの大久保利通哀悼碑を中心に、心字池や各種樹木があり、界隈を行きかう人々の憩いの場となっている。

        園内                    大久保利通哀悼の碑
    

大久保利通の趣味が囲碁は,有名。藩主の実父である島津久光に近づくために覚えたと云う。
1830-78 薩摩藩士、藩政に参与、西郷隆盛と征韓論争などで対立、不平士族を鎮圧し専制支配を進める。西南戦争の翌年不平士族に紀尾井坂で暗殺。 

                     大久保利通の住まいもこの辺り
  

各家の一文字をとってできた町名。
紀州徳川家の屋敷跡は現在のグランドプリンスホテル赤坂(旧赤坂プリンスホテル)の入口・弁慶橋付近に、
尾張徳川家の屋敷跡は現在の上智大学、井伊家の屋敷跡は現在のホテルニューオータニ付近にあり、今でも石垣などに当時の面影が見られる。

弁慶橋あたりは、低地でかつては清水が涌き出ていたと云う。
大久保利通暗殺事件は、「紀尾井坂の変」と呼ばれ人々に衝撃を与えと云う・
紀尾井町には、グランドプリンスホテル赤坂旧館 元は、朝鮮最後の王朝であった李王家の邸宅(1930年竣工)。
白い壁と濃褐色の木造2階建の洋館は、戦後売却、改装して1955年にホテルとなる。 ホテルニューオータニの庭園は、さかのぼること400年の歴史が、
豊臣秀吉の忠臣、加藤清正の下屋敷がこの地にあり、関ヶ原の戦いを境に勢力を失い、やがて井伊家に引き継がれている。
その後、この地は伏見宮邸宅となり美しい庭園となり、戦後、伏見宮家が手放すにあたり、外国人の手に渡ろうとしたところを、ホテルニューオータニ創業者の大谷米太郎が、この由緒ある土地を外国人に売り渡すのは惜しいと買い取り、荒れた庭園を改修、今でも、庭園には加藤清正の時代からの石灯籠や樹木がそのままに、400年の歴史を物語っていると云う。

「紀尾井坂の変」実際の現場は 清水谷,「哀悼の碑」は、公園内に、
    

「紀尾井坂の変」
斬奸状に記された「国を思う志士」とは恐らく西郷隆盛・前原一誠・江藤新平らの事、大久保が彼らを排斥したという指摘から、保守層に嫌われていると思われがちだが、実際は立憲制や国会開設に積極的だった事で、右派でも左派でもない、ほぼ中庸をいく政治家だったという。
大久保の行ってきたことは、これまで外国を見回ってきた立場として外国の兵力や文化経済力が桁違いであるという事実を知っており、今の状況では
日本が最終的に外国の植民地や奴隷になってしまうと危機感を覚えていたことの表れであると云う。
その対策として、兵力も経済力も文化の強化を国民に要求し、たとえ反感を買う事を分かっていながらも、それでも国民を外国の奴隷にしたくないという思いで耐えていると車夫に語っていたというエピソードがある。

オータニ・清水公園前通りと暗殺された紀尾井坂の交差点が「清水谷」
    
                  この坂の途中で暗殺された。
    

紀州藩は、江戸時代に紀伊国一国と伊勢国の南部(現在の和歌山県と三重県南部)を治めた藩。紀伊藩とも呼ぶ。
版籍奉還後に定められた正式名称は和歌山藩。藩庁は和歌山城。
藩主は紀州徳川家。紀州家は徳川御三家の一つで、石高は55万5千石。紀伊一国37万石のほか、伊勢南部3郡18万石、大和に約1千石の所領があった。

尾張家は、尾州家とも言う。御三家の筆頭格。徳川家康の九男徳川義直(五郎太、義俊、義利)を家祖。
義直は、1603年に家康から甲斐国に封じられるが、甲斐統治は甲府城代平岩親吉によって担われており、五郎太自身は在国せず駿府城に在城。
尾張徳川家は江戸時代を通じて尾張藩を治め、徳川将軍家に後継ぎがないときは他の御三家とともに後嗣を出す資格を有したが、7代将軍の徳川家継没後、紀州徳川家出身の徳川吉宗が尾張家の徳川継友を制して8代将軍に就任した。その後には御三卿が創設された影響もあって、結局尾張家からは将軍を出せなかった。

紀尾井坂を登り切ると「喰違見付跡」ホテルオータニ新館と紀尾井ホール前に、高速道渡ると紀伊国坂・迎賓館
    

「彦根藩上屋敷跡(井伊家)」上屋敷坪数は、19,815坪と云う。
川四天王の一人、井伊直政が関ヶ原の戦いの戦功により、石田光成の居城であった佐和山城に入封して佐和山藩を立藩するが戦傷がもとで亡くなる。
嫡男の直継が相続し、彦根に城を築くが、病弱の為、弟の直孝が2代藩主と継ぐ。
幕末には井伊直弼が大老となり、日米修好通商条約を天皇の勅許得ず調印、それが安政の大獄へと繋がり、万延元年(1860)桜田門外の変で暗殺をされた。

オータニ新館喰違見附跡と高速道の間が「井伊家屋敷跡」
    

「喰違見附跡」
江戸時代初期、1612年に甲州流兵学者の「小幡景憲」によって縄張りされたと伝わる、
江戸城外郭門のひとつ、通常江戸城に城門は桝形門とよばれ石垣を巡らしたものとなりますが、ここは土塁を前後に延ばして直進を阻むという、戦国期以来の古い形態の虎口(城の出入口)構造と云う。
地域は、二つの谷に挟まれた、江戸城外堀のなかでは最も高い地形に立地するため、1636年 構造の江戸城外郭門に先駆けて、江戸城防御の要として構築されたと考えられている。
                昔の古松並木と赤坂見附付近


坂の東側にある堀は、「弁慶堀」と呼ばれる江戸城外堀の一つ。掘割工事を請負った弁慶小左衛門の名に由来する。
坂下には、1989年完成の、堀を渡る弁慶橋がある。堀の対岸は、彦根藩井伊家の屋敷跡地で、現在ホテルニューオータニが建っている。
坂の西側は、かつて紀州藩上屋敷が存在したが、現在は赤坂御用地、迎賓館。

坂の途中にある紀之国坂交差点を東に行くと、食違見附、紀尾井坂と続く。
坂の東側を首都高速4号新宿線の高架が走る。同線は、紀之国坂交差点の手前で地下に潜り、「赤坂トンネル」になる。

                    現在の景色
  

「迎賓館」は、紀州徳川家の江戸中屋敷、広大な敷地の一部に、1909年に東宮御所、後に赤坂離宮に。
日本の一流建築家や美術工芸家が総力を挙げて建設した日本における唯一のネオ・バロック様式の洋風建築物です。
戦後、わが国が国際社会へ復帰し、国際関係が緊密化してゆくなかで外国の賓客を迎えることが多くなったため、「旧赤坂離宮」を改修して「迎賓館」。

迎賓館正面は、ユリノキ並木の地下鉄「四谷」で、ここは、高い塀に囲まれた側面、門は、江戸時代末期の紀州徳川家の門と思われる。
    

次回は、四谷方面へ。