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syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

石神井城跡と照姫

2012-12-21 | syu散歩
「所沢道」は、中野―保谷ー清瀬ー所沢間、石神井三宝寺池は、その途中。
大和陸橋付近からは早稲田通り、これを西へ進み、本天沼二丁目交差点からは北上する旧早稲田通りとなる。
妙正寺川を松下橋で渡り、西武新宿線下井草駅西側の踏切を過ぎ、杉並区立八成、小学校の前で新青梅街道と交差。その先の千川通りとの交差点名「八成橋」は、
千川上水(現在は暗渠)に架かっていた所沢道の橋の名である。環八通りを越え、石神井川を豊島橋で渡り、豊島橋交差点から西へ。
練馬区立石神井小学校の北側を過ぎ、「三宝寺」の前から坂道を進み、西武バス上石神井営業所付近で富士街道と交差。
練馬区立大泉第二小学校の西側を通り、西武池袋線保谷駅の南側に突き当たる・・・・。

「都立石神井公園」池の端を散策する。

三宝寺池、石神井池の二つの池を中心とした公園で、園内は起伏に富み、武蔵野の自然がよく残されている。
木々に囲まれ静寂な「三宝寺池」と、「石神井池」のほかに、「石神井城跡」とこれに関する幾つかの遺跡がある。
開園年は、昭和34年。面積 223,785.57㎡ある大きい公園。


都立石神井公園                    池の端に柳の木が
    

「照姫まつり」は、父の後を追って三宝寺池に入水した照姫の悲劇をしのんで、1988年以来、毎年4月から5月に「照姫まつり」を開催。
照姫、泰経、奥方、武者、侍女に扮した時代行列が石神井公園をパレードし、10万人が集まる盛大な春のお祭である。
照姫役は、区民の13歳から20歳の女性を対象に公開オーディションで選ばれている。

「北条高時」1303-33 執権貞時の嫡男、新田義貞軍勢に攻略され自害、政務より遊興に、月二回闘犬興行を(一度に百犬も)。
「北条氏康」1515-71 小田原北条三代目、氏網の長男、扇谷上杉、山内上杉の武蔵国破る、連合軍8万に囲まれ8千の氏康軍は、和を乞う、敵が安心した隙に夜襲し撃破した。
(日本三大夜襲の河越夜襲)。古河光方と関東支配、武田、上杉と抗争、地検推進する。

古木が風雪に耐えて                     中之島
  

「豊島輝時」1375年 南北朝時代武将、北条時行の子、豊島景村の養子に。石神井池の「道場寺」建立、豊島氏の菩提寺。

「豊島泰経」と照姫は、石神井城主と姫。父径祐。
      1477年 太田道灌(扇谷上杉)攻撃で落城、泰経と照姫は、ここ三宝寺池で愛馬と共に水死したと云う伝説が残って居る。
      夜陰に逃げたとも言われている。

園内の落ち葉と紅葉                   照姫も歩いたであろう池之端
  

「太田道灌」1432-86 上杉扇谷定正の執事、江戸城を拠点に上杉氏勢力拡大したが上杉氏主君に謀殺、人間同士の妬みによると云う。
道灌は、武蔵国の拠点にした江戸城は、道灌の舟に一匹の魚が飛び込み、道灌はこれを瑞祥とみなし土地の名を千代田村とし、ここに城を築いたと云われている。
道灌は、死を目前に「当方滅亡」と叫んだという。その通りに。

その続きは、次回に。

紅葉樹
  

「三宝寺池」の一部は、国指定の天然記念物である「三宝寺池沼沢植物群落」がある。1935年に指定。
中ノ島を中心に、カキツバタをはじめ、シャクジイタヌキモやジュンサイなどが生い茂っていた。しかし、1950年代後半から、周辺は都市化が進んだこと、
ヨシなどの植物を周辺の人が利用しなくなったため、植生が大きく変わった。その後、貴重な水生植物を保護するために、保護活動が行なわれている。
一時期、日本初の100mプールとして使われ、その後に釣り堀となっていた部分は、1989年に水辺観察園として整備されている。
三宝寺池は石神井川の水源とされる。流域の豪族であった豊島氏も、この水の支配の為、この池の南の台地に石神井城を築城した、とされている。
1996年に、「三宝寺池の鳥と水と樹々の音」が、環境庁選定の「残したい日本の音風景100選」に選ばれた。
1993年8月、三宝池で巨大ワニの目撃証言があいついだため、マスコミが連日報道し、罠をしかけるなどの大騒動になったが、結局発見されなかった。

石神井城図            三宝池               小山に鳥居が
    

練馬区の大根の起源は、五代将軍綱吉が病気療養の為練馬に転地し、その時、尾張より種子を取り寄せ栽培され広まったという。
元禄時代は、「練馬大根」が高く評価されている。
以外に知られてないのが、神奈川大山道と江戸の通じ野菜類を運んだ清戸道と所沢道があり賑わった街であったと思われる。

湖面に水鳥が           老松                  厳島神社
    

「石神井城」の築城年代は定かではない、
石神井川流域の開発領主として勢力を伸ばした豊島氏が、鎌倉時代後期に居城の一つとして築城したとされる。
室町時代後期、上杉禅秀の乱で足利持氏側に立った豊島氏は最盛期を迎えるが、やがて新興勢力の扇谷上杉氏側の太田道灌と対立を深め、長尾景春の乱において
太田道灌に攻められ没落した。
この戦いにおいて、豊島氏は当主の泰経とその弟泰明はそれぞれ石神井城と平塚城に拠り太田道灌と対峙したが、攻められた平塚城の後詰戦(江古田・沼袋原の戦い)
で惨敗を喫し、泰明は戦死、泰経は石神井城に落ちた。
その後道灌は石神井城に兵を進め、和平交渉の決裂を経て、泰経は平塚城、更に小机城へと落ち延びた。1477年、扇谷上杉氏方太田道灌に攻められ落城、廃城となった。
翌文明10年 1478年小机城も落とされ、遂に豊島氏は没落した。





「姫塚」
道灌は愛宕山に陣を置き石神井城を包囲した。4月、道灌は、総攻撃をしかけ、落城の刻が迫った。
泰経は豊島氏重代の家宝「金の乗鞍」を雪のごとき白馬に置き、これにまたがって城の背後の崖に登り、道灌の兵たちが見守る中で白馬とともに崖から飛び降りて
三宝寺池に身を沈める。
泰経には照姫という美しい二女がいた。照姫は父の死を悲しみ、父を追って三宝寺池に身を投げた。
文武の名将道灌はこれを憐れみ、照姫の亡骸を弔って塚を築いた。この塚はいつしか姫塚と呼ばれ、そのそばに立つ老松に登ると池の底に泰経とともに沈んだ
金の鞍が燦然と輝いているのが見えると云う。この松の木は「照日の松」と呼ばれる。

照姫塚               老木                    武蔵野雑木林           
    

「古城」現在では城跡として残るのは小さなものも多い。石垣が残っているのはまだ良い方であり、土塁と堀しか残っていないことも多い。
しかも、中世末期より前の城にはもともと石垣がほとんどなかった。
発掘の対象となる以外には、普通の人が見ても城跡とは分からないことが多い。城跡は往々にして丘や山の上にあり、周囲の石垣が面影を留める、といった姿として認められる。

「石神井城跡」も、中には入れないが、わずか土塁、堀が見える程度であった。
城跡は栄枯盛衰を感じさせ無常観を感じる対象として、歌や詩の題材としても使われ、幻想的な雰囲気を感じさせることもある。都心では貴重なものと思う。

都指定史跡           土塁           主郭跡案内板
  

三橋美智也の「古城」
                    松風さわぐ丘の上
                    古城よ独り何偲ぶ
                    栄華の夢を胸に追い
                    ああ 仰げば侘(わ)びし天守閣

中に入れず            城郭・堀           三宝寺池と城跡
    


城跡の区画は不明            時代から平城であろう(天守閣などない)
  


「厳島神社」の創建年代は不詳。江戸時代には、弁天社、水天宮として既に史料に残されている。
明治41年、大正4年に近隣の稲荷神社、愛宕神社、御嶽神社を合祀、昭和58年に現在の社殿が竣工した。祭神は、狭依姫命、相殿香具槌命、倉稲魂命、国常立命。
三宝池寺公園中央にあった。

池から見た城跡
  

次回は、大田道灌軍の荒川区日暮里へ。