五葉城は北側の本丸と南側の高城砦や堀切部を含めて一体の城郭とみる場合が多いようですが、資料によってその役割や成り立ちに異なる解釈があるようです。今回は五葉城 その3として高城砦の見学をしたいと思います。参考資料は (1)「城」第149号 東海古城研究会1993 (2)「愛知県中世城館跡調査報告3」愛知県教育委員会1997 と現地案内板と 絵図「諸国古城之図 三河八名 五葉」です。
高城は(1)によって高城(たかつき)砦と命名されましたが (2)では高城(たかしろ)(こうじょう)となっています。諸国古城之図「三河八名 五葉」では 高城 とされ五葉より三十一間高いとなっています。
※絵図「諸国古城之図 三河八名 五葉」は→こちら
五葉城 高城砦は中山峠方面からの侵入を防ぐ位置にある
中山集落に存在した五本松城(館城か?)は、今川の勢力に東から中山峠を越えて攻め込まれていますので、五葉城も中山峠方面の備えを厳重にしていたと思われ、高城砦がその役割を担っていたのではないかと思います。絵図には中山峠方面の尾根に「天狗岩カ峯」の書き込みと岩が描かれていますが、現在もこの尾根筋には中山峠との間に天狗岩が存在します。
高城砦 北側は角度40度の急斜面
堀切部から尾根道を通り高城砦の北側斜面から、這うようにして急斜面をのぼりました。植林された森は間伐・整備がされて健全な森になっていました。こうした整備のために林道が敷設され五葉城や堀切部で遺構の一部が失われたと思われます。
高城砦 一の曲輪に立つ案内板 五葉城を整備する会によって立てられた
案内板には野田城を退いた菅沼定盈が高城砦を築いたと有りましたが、高城(高城砦)と五葉城は同一のものとする見方もあり、判然としない部分があるようです。ハイカー用の看板の平尾山と高城砦の中間に天狗岩があります。
高城砦 北方向に五葉城 尾根方向に中山峠
図からも、五葉城の方向には防御施設がなく中山峠方向への備えがあったことがわかりましたが、現地を見学すると中山峠方向に対しての、まことに厳重な備えを実感できました。
高城砦 一の曲輪② 南東から 奥に土塁①
一の曲輪はシンプルで中央部に削り残しと思われる土塁(土壇)が有りました。菅沼定盈が高城を築いて、ここに入ったという伝承もあり、小規模な建物なら可能性は有りそうな平場でしたが、どうでしょう。
高城砦 一の曲輪の土塁① 南東から
一の曲輪の土塁(土壇)はL字型に地山を削り残したように見えました。 土塁の役割は資料に明示されていませんが、この上に建物があったとすれば見張台でしょうか?
高城砦 虎口③ 五葉城からの城道は西側に回り込んで虎口③から一の曲輪に入る
絵図にも描かれている高城砦の虎口への道は、堀切部方面から急な斜面を登り、一の曲輪の西側に回り込み平場④付近を通り虎口③から一の曲輪へ入るようになっていたようです。
高城砦 平場④ 南から 右上に一の曲輪
道が通る平場④は高城砦の南西尾根にありますが、風化のためか曖昧な地形となっていました。
高城砦 二の曲輪⑤ 南から
二の曲輪は一部に竪土塁が設けられた平場となっていました。ハイク道によって少し改変があるようで曖昧な部分が有りましたが、図2では二条の竪堀に囲まれた地形とが描かれていました。絵図ではデフォルメされた凸型の地形となっていました。
高城砦 堀切⑥と土塁⑦ 北東から 見どころです!
高城砦の見どころは、この堀切と土塁の組み合わせです。資料(2)では、堀切の両端にも土塁が続いていて、凹地形の武者隠し状の遺構と記されていました。現地で見ると、風化でわかりにくくなっているものの、確かにそのような地形であったと思えました。
この堀切と土塁は、中山峠方向の先端部にあたりますので、このように厳重な作りになっている可能性が高そうでした。
高城砦 土塁⑦ と表示板 西から
土塁’は中山峠方向の尾根を掘り下げた土を盛り上げたように見えました。風化で往時の土塁の天端の形状は不明でしたが分厚い土塁であったと確認できました。
高城砦 土塁⑦ 尾根側から
今は土塁⑦の上をハイク道が通っていますが往時はここに道はなかったと思われます。絵図では高城砦の東側を巻くように道が描かれ、土塁の東端部を通って中山峠方面に道が抜けていたように描かれていました。
高城砦は中山郷の五本松城で中山峠を越えた今川勢に手痛い敗北をした西郷氏が築いたものとすれば、五葉城を守るための高城砦の厳重な守りが理解できるのではないでしょうか。菅沼定盈が高城を築いて入ったという伝承もありますので、菅沼定盈が五葉城に入った際に高城の補強・改修を行ったのかもしれないと想像しましたが、どうでしょう。
五葉城 その3 までは絵図や資料を参照しながら、主として城郭遺構を見学しましたが、その4では絵図に描かれた「七曲り坂大手口」とその道を探ってみたいと思います。