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尾張・亀崎城 水野氏の本拠地、緒川城への海上からの侵入を警戒。今の地形との比較が面白い

2020-08-01 | 歴史

亀崎城は愛知県半田市亀崎町にあります。
 亀崎城の北約6kmの、境川と逢妻川の合流点付近に所在する緒川城の城主・水野信元が三河湾から緒川へ海上から侵入する敵を監視・警戒するために築いたと伝わり、衣浦湾に台地が尾根状に突き出した先端部に位置します。
 近年、愛知県内の海岸線の埋め立ては活発で、ここ亀崎や対岸の高浜地区でも埋め立てが進み、かつての海岸線を想像するのも難しくなってきました。

 今回は旧地図や空中写真なども参考に、亀崎城の置かれた位置と役割を確認してみたいと思います。「今昔マップ on the web」、国土地理院Web、(1)史跡散策「史跡散策 愛知の城」山田柾之著1993、(2)「愛知県中世城館跡調査報告4」などを参考資料として出掛けました。


亀崎城 明治の頃までは、往時の景観が保たれていたようだが、現在は激変した
 「旧」と言っても地図は明治の中頃ですが、「今」の変わりようはすごいですね。現地に立っても往時を想像することは難しくなってしまいました。今は橋や海底トンネルが出来て交通の便が良くなりましたが、それまでは舟運しかありませんでした。尾張(知多半島)と三河を結ぶ海の街道の航路は亀崎港と高浜港を結ぶ上図のA がメインだったと思われます。


亀崎城 戦後も旧状をかなり留めていた。アは街道沿いの町屋。東端の港からは海の街道で高浜港へ
 円内が亀崎城です。アの街道沿いには町屋が整然と並んでいるのがわかります。戦後も港を中心にした街の風景が見られたようですね。埋め立てもまだあまり進んでいないようで、明治の地図に近い地形が残っていたようです。


亀崎城 西から伸びる台地の先端部に築城された
 神前神社から公園となった城址に登る道が整備されています。南、東、北は急な崖地形で自然の要害になっていたことがわかります。主郭の西側は堀切で尾根を断ち切っていたのではないかと考えられますが、現状からは想像の域を出ませんでした。
  

亀崎城 見学は神前神社からの道を登る。亀崎の地名の由来は神嵜=神前から来ているとされる。
 亀崎の地名は、古く神武天皇ゆかりの地名「神嵜」が後の世には同じ読みの神前になり、その後亀崎に転訛したとされます(神前神社HP)。同HPによると慶長十七年(1612)に風波の被害を受けにくい現在の地に遷宮されたとありますので、往時は今よりも海岸に近い位置にあったとおもわれ、神社造営時に城域が一部削られたかもしれないと思いました。

  
亀崎城 後世の公園化工事でかなりの改変を受けている。城址碑が建てられている
 主郭は後世の公園化に伴って、改変を受けているため原状を把握することが難しい状態でした。主郭があったとされる平坦面は公園の広場となっていましたが、一角に城址碑が建てられていました。


亀崎城 南東隅には高まりが有る。櫓台状の地形に見える
 主郭のあった平面の東、南、西側には低い土塁に見える地形が残っていますが資料(2)によれば、公園化によって出来た削り残しの地形の様でした。南東隅の櫓台状の地形はわずかに残された往時の遺構かもしれないと思いましたが、どうでしょう。
 北側は台地に登る自動車の道の造成等で削られているようです(概略図参照)。


亀崎城 主郭西側の建物横の残欠土塁?
 資料(2)の縄張図にはこの付近にL字型の土塁地形が描かれています。現在はほぼ失われ、僅かに残されたのがこの土壇状の地形のようでした。遺構が殆ど残っていない亀崎城ですので、これだけでも貴重ですね。


亀崎城 大坂 古い地図にも載っている台地から港へ降りる坂道
  亀崎城の西側には大坂とよばれる古くからの坂道がありました。旧地図にも載っていますので、伊勢湾の大野から知多半島の台地を横切り亀崎港へ降りる道があったのではないかと思いました。ちなみに往時は亀崎城の北側を巻いて東側へ降りる道はなかったようです。

 緒川・水野氏の拠点防衛だけでなく、東西方向を結ぶ海と陸の街道の重要な拠点としての機能も有った可能性を感じる見学になりました。現在の地形だけを見ていてもわからないことが多いなと改めて認識しました。