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湖の子守唄

琵琶湖・湖北での生活、四季おりおりの
風景の移り変わり、旅先でのふれ逢いなど、
つれづれなるままに、語りたい。

湖北の義経 ①

2010年06月28日 | 詩歌・歳時記
湖北路を北上して行くと、沖にぽっかりと浮かぶ、
お椀をふたつかぶせたような竹生島が、もっともま近に見えるあたりに
尾上の漁港がある。

この漁村を抱きかかえるように、平地にひとつだけ、取って据え置いたようにそびえ立つ山が、
その昔、源義経が城を築き、打倒・平家の本拠地とした、山本山である。

          梅雨空へ
          掲げる白のはや錆びて
          愁いぞながし朴の木の花

この地でかの義経は、越前から京の都へ運ばれる、新鮮な魚介類などの運上物を略奪し、
また湖上を駆けては、反平家のゲリラ戦を展開、比叡山の僧兵と応呼して、
遠く鎌倉の頼朝の再起を、今や遅しと待ったという。

「えっ、ちょっと待って、おかしい?」というあなた。 
あなたは歴史にお詳しい、でござるよ。この義経は牛若丸、のちの九郎判官ではもちろんない。
だが、始祖を同じくする近江源氏、山本兵衛尉義経である。

同じ時期に、源義経という名の武将が二人いたことも面白いが、
当時の歴史年表を見てみると、実に妙なことがあるのだ。 

          水運の名残りを語る
          丸子船
          湖のひろさの帆柱の丈

牛若丸が平泉に行った、ということには証するものか゜不在とか。黄瀬川の兄弟対面の
時期から、初めてその名が登場する。
それ以前に、山本義経の方は「吾妻鏡」に、佐渡へ流罪になったとか、名がある、という。

そして、御曹司義経が活躍する時期には、山本義経は空白。
二人の名が登場する時期が、見事なまでに区分されている。

          幾重ねみどりの岬
          いろを変へ
          びわ湖最北波の静けさ
                                                    「つづく」