湖の子守唄

琵琶湖・湖北での生活、四季おりおりの
風景の移り変わり、旅先でのふれ逢いなど、
つれづれなるままに、語りたい。

北多摩郡田無町

2010年11月28日 | 詩歌・歳時記
市町村合併も峠をこえたようだ。今は西東京市と言うのかな?その前が田無市。
保谷あたりと一緒になったのかな?そして、はるか以前は北多摩郡田無町だった。
50年も昔のことである。

武蔵境から真っ直ぐ北へ、一本の街道が通っていて田無へ至る。バス停があり、
すなわち下向台である。西へ少し入った所に住宅地があって、10棟程だったか?
一棟が二軒に分けられてあって、小学生の頃のわが住まいである。

まだまだ自然が豊富に残っていて、きつね山と称する雑木林や田畑があり、
玉虫やクワガタも捕りまくったものだ。裏がだだっ広い芝生の畑で、東京という気がしない。
お隣の住宅地は「しらかば村」何て言う小粋な名前がついていたっけ。
一番奥に屋根のついた洗濯場があって、母親ちは毎日金たらいに洗濯板で汗をながしていた。
今、「せんたく」を入力したら、洗濯機や洗濯物は候補にあっても「洗濯板」はないんです。
ひし、と時代を感じるね。

あの頃は塾が流行っていた。そろばん塾は敬遠して習字の塾へ。
当時の自分の書いた字を見ると、信じられない程上手い字だ。今は下手になる一方である。
時間前に先生のお宅の庭で走り廻っていたら、先生の奥様から「書道をするんですから、
気を静めてお待ちなさい」とたしなめられた。人間形成の始まりだったような気がする。

南海ホークスと読売が日本シリーズで激突。
エースの杉浦忠の四連投の大活躍を、わくわくしてラジオで聞いていた。
「なんと申しましょうか」の小西徳郎節が耳の奥にこびりついている。
以来、投球フォームは、アンダースローである。

お隣の家庭がテレビを買った。夕方になると見せてもらいに行った。「月光仮面」。
週に一回聞いただけの主題歌を、今に忘れないのはどうした事か、人の名前は出て来ないのに。

映画「三丁目の夕日」のファースト・シーンで、子供が模型飛行機のゴムを巻いていたが、
すごい違和感を覚えた。機体を上から持って巻いていたんだ。我らは逆さまにして、
つまり、脚を空に向けて巻いたものだ。その方が速くスムーズに巻けるのだ。
この映画は嘘だ、と即座に判断した。

北多摩郡田無町、忘れられぬ少年の日々と町である。

北淡海・丸子船の館

2010年11月23日 | 詩歌・歳時記
琵琶湖は広く大きい、とあらためて実感したのは、
この夏に観光船に乗り、竹生島へ渡った折りのことだ。
今は、バスボートやウインドサーフィンのちっちゃな舟がひしめき合っているが
昔は、二つ割りにした丸太を胴の両側に付けた、「丸子舟」という琵琶湖独特の舟が活躍していた。
古く万葉の時代より、北陸と都を結ぶ交通・物流の要衝としてさかえたため、
最盛期の江戸時代には、約1400隻が湖上を往来していた。

琵琶湖の最北端に「北淡湖・丸子船の館」がある。
舟への郷愁に駆り立てられた地元民達が、現存するたった二隻のうちの一隻の丸子舟を、
復活させて展示している。二階から見る舟の全容は圧巻だ。
全長17メートル、米俵250俵を積載可能なこの舟の帆柱の高さ!!
船首周りに補強のため、太い鉄製のカスガイが斜めに打ち込めてある。
名付けて「伊達かすがい」と言う。さすが、京に近い土地柄だ。
舟大工の遊び心とその意匠の粋な感覚と美意識に、胸の内で拍手したものだ。
舟の両横腹に、太い丸太を二つ割にしたものが取り付けてある。
より多くの荷物を積み込むために、浮力をましている訳だ。これが「丸子舟」と呼ばれる所以である。

ITだ、PCだという世の中になっちゃって、昔の佳いものが次々になくなって行くなかで、
新しい機器、技術をより有意義に生かすためには、アナログ的な精神が必要なのだと思う。
そのきっかけとなりえる物や史跡が近江、とくに湖北地方にはすこぶる多く残されている。

小谷山と虎御前山

2010年11月18日 | 詩歌・歳時記

今年の夏の暑さは異常に長く、果てしがないように思われたが、
一転秋になると、日毎に山は色づき、急速に深まってゆくようだ。
日々仰ぐ小谷山も、湖北特有のうすもやにけぶり、秋を急ぐ風情だ。

戦国の時代。信長の軍勢が小谷城を取り囲んだ時、織田勢は虎御前山に陣を敷いた訳だが、
地図上ではそこそこの距離が見て取れるのだが、小谷を間近に見上げる時、
ふと、左手にうずくまる形で、異常な近さで、虎御前山が迫る。
その山よりはるかに高い、天守閣から見下ろす長政や浅井勢の心情は、いかばかりであったことであろうか?
背後には秀吉がゲリラ戦を仕掛ける横山があり、戦慄の極みであったことだろう。
来年のNHKの大河の舞台になる訳で、もうすでに小谷山周辺は賑わいを見せている。
虎御前山には、教育キャンプ場があり、平和なものだ。
                                     
近年発掘調査が進み、意外と整備された城郭であったらしい。この山全体が古墳で、
その遺構を巧みに城構えに利用した由。いかにも合理主義者、信長らしい。

この辺りは「虎姫」と言う地名だが、こんな伝説が残されている。
戦国時代の初期の頃、水利権を求めて奔走した「せせらぎ長者」という村の豪族に、
美しい娘が嫁いだ。

虎御前と呼ばれて、幸せに暮らしていたのだが、身籠り、やがて出産したところ、
生まれたのは蛇の子であった。わが身を恥じて虎御前は、深い渕に身を投げたと言うことだ。

明治になって、町名制度のおり、このお話しにちなみ、「虎姫」となったそうな。
小谷山も虎御前山も雑木の山だ。日ごとに赤や黄色の色を深めてゆく。
やがて、雪がすっぽりと包み、静かな眠りのひとときが訪れるだろう。