湖の子守唄

琵琶湖・湖北での生活、四季おりおりの
風景の移り変わり、旅先でのふれ逢いなど、
つれづれなるままに、語りたい。

映画の子守唄 「少年編」

2010年09月30日 | 詩歌・歳時記
町に初めての映画館ができて、勇躍、毎週のように出撃した。
昭和30年代。いわゆる佳き時代。茨城県日立市水木町。週代わり3本立て。
東映、日活、松竹・東宝、大映のローテーションだったかな。遠い日のおぼろ気な記憶だが。
東映の週は父のお供で、橋蔵や錦之助のチャンバラに小さな胸を踊らせた。

千恵蔵、歌右衛門の両御大はともかく、当時の東映にはスターが、きら星の如く揃っていた。
舞を踊るような橋蔵の立ち回りの美しさ。足の運びの優美さ。
「新吾十番勝負」。恋か剣かと迷う横顔の切なさ。水もしたたるいい男の典型だった。
正反対にリアリズムの豪快な気っぷの良さが、爽やかな錦之助。
「宮本武蔵」の一乗寺下り松の決闘の、息のむ迫力。
森や田畑の俯瞰図からアップへ、泥が飛び汗が散り、臨場感たっぶりのカメラも見事だった。
「一心太助」では、江戸っ子太助と将軍を見事に演じ分けていた。
口をしっかりと開けた、独特の台詞回しが懐かしい「怪傑黒頭巾」大友柳太郎。新国劇の辰巳柳太郎の弟子だったとは、後年、池波さんのエッセイで知った。
生真面目な正統派。彼の存在自体が東映を影で支えていたような気がする。
                            
後年のテレビドラマ「素浪人月影兵庫」のおから野郎をとても想像もできない、
「柳生武芸帳」近衛十四郎、重厚で豪快な太刀さばき。
今では大御所然としている里見浩太郎なんて、
ひょろひょろの、がきから見ても若造だったものだよ。
忘れてはいけない、極めつけ「水戸黄門」月形竜之介。伏見扇太郎なんてのもいたな。

まぁ、きりがない。ビデオやDVDで昔の映画がお手軽に再見できる、
便利な世の中になったものだ。
だからこそ、あの頃には確かにあった日本人の美意識を、
今一度取り戻さなくては、と、映画を観ては思うのである。

中仙道・柏原宿

2010年09月22日 | 詩歌・歳時記
関ヶ原から西へ、即ち近江路である。
長久寺という村に、川と言うより細い溝と謂うべき流れがあり、それが県境だ。
秋風になぶられながらまたいでみる。
右足が岐阜県、左足が滋賀県である。妙な気分だ。
           
昔むかし、川をはさんで旅籠が二軒あったそうな。
夜更け、布団に入って、隣の宿の旅人と語り合ったそうな。
以来、この土地を「寝物語の里」と呼ぶ。
                                 
桜並木の道があり、紅葉のうちかさなる道があり、街道の風情を今に残す、貴重な一帯である。
やがて柏原の宿場町。お江戸の時代、「伊吹もぐさ」で名を売った処である。
当時は何十軒とあったそうだが、今は、亀屋左京、たった一軒残るのみ。
      
その江戸時代、あるお店の若旦那が江戸は深川の遊廓で、
遊女たちに「伊吹もぐさ」の唄を教えて、お客の前で踊り、歌ってもらったそうな。
わが国のCMソング第一号である。
その甲斐あって「伊吹もぐさ」の名声は、全国津津うらうらへ広まったと言うことだ。

柏原の次が醒ヶ井宿、そして番場、鳥居本と続いてゆく。
国道とあるいは混じり、あるいは平行して
中仙道は 昔の面影を垣間見せながら、伸びてゆく。
                           

山門の若武者

2010年09月18日 | 詩歌・歳時記

湖北の最北、福井との県境近くに山門の集落がある。
茅葺きの家も幾つかは混じり、軒先の深い民家が建ち並び、由緒正しき田園風景がひろがる。

その一郭に善隆寺があり、境内に建っている収蔵庫を「和倉堂」と呼ぶ。
大きな仏頭が置かれ、右側に毅然と佇つのが「和倉の」十一面観世音菩薩である。
ややこぶりながらも、全体的にキリッと引き締まった佇まいは、
やや浅い時代の頃の若武者をおもわせる。

こころなしか眉をあげ、気品にあふれた、引き締まった面差しは、
若き公達と言った方が適切であろうか。何処やらに、黄金造りの太刀を秘め持つ風情である。
それでいて、高貴な光に柔らかく包まれ、ほの暗いみ堂に、毅然と立ち続けておられる。

立地的な関係から、あまり人の口の端にのぼらないおひとではあるが、
知るひとぞ知る、端麗な観音である。

いったいに湖北地方には、浄土真宗のお寺が多いのだが、
本尊の阿弥陀如来と並び、観音菩薩を祀っている寺が、少なからずある。
これは本来、おかしな事になる訳であるが、まぁ、何ともおおらかなことだ。

もともと密教系の寺院だったのが、
京から越後へ流された親鸞聖人が、湖北を歩かれ布教されたのであろう。
その後、多くの寺が真宗に改宗したさい、観音はそのまま留め置かれたのだろう。
他宗では考えられない事だ。

そもそも親鸞さんは仏像なんぞ眼中にはないおひとである。
ただ一心に、南無阿弥陀仏の六字称号を唱えられるのみだ。
その広大なみ心が湖北に観音像が多く残った所以であろう。
この、素朴なおおらかさが湖北地方の山河、人心の特徴なのかも知れない。


三成と薬草風呂

2010年09月14日 | 詩歌・歳時記

湖北のさらに北に聳え立つのが、己高山(こだかみやま)だ。
琵琶湖の反対側にある、比叡山の鬼門にあたるため、
古来、山岳仏教の聖地として、伽藍ひしめく一大修行道場があったのである。
        
今は、樹木の間の草原に礎石が点在しているのみだが、その規模の大きさが偲ばれる。
幾度かの災害で、その都度、麓へ降ろされた仏像が、
この地方の寺院、あるいはお堂に祀られ散在している訳だ。

山の麓の古びた社の広い境内の奥に、二棟の収蔵庫が並び建つ。「己高閣」「世代閣」だ。
おびただしい仏像のなかで、ひときわ背の高い十一面観音が、
井上靖が小説のなかで「村のおかみさんのような」と書かれた、その観音である。
いかにも地方仏らしく、素朴さのなかにも、凜とした気品がある。
ほかにも、魚籃観音、地蔵、不動明王と仏像の博覧会だ。
                                 
同じ敷地に、宿泊施設を備えた「己高庵」があり、日帰りの薬草風呂がある。
己高山一帯で採取された薬草がブレンドされ、大きな袋に入れられ、浴槽に浸かっている。
露天風呂に入って、古橋の集落と山野を見る。視界に入る山の奥に、洞窟がある。

関ヶ原の合戦に敗れた、石田三成が霧雨けぶる伊吹山中を逃れ、たどり着いたのが、
ご母堂の生まれ在所の、ここ古橋の地だ。
村人の世話を受けて、匿われたのがその洞窟である。
ところが、他所から養子に入った男が密告し、
あえなく三成は捕らえられ、京の三条川原にて斬首された。

それ以来この古橋の村では、他所から養子を迎えない、というしきたりが
少し前まで続いていたとか。律儀な湖北人らしい逸話である。