デジブック 『いざや、小谷城址』
かの豊臣秀吉が初めて持った城、長浜城を中心にして開けていったのが、長浜の町だ。
それまでは今浜と言っていたのだが、信長の「長」を頂戴して改名した訳けだ。
小憎らしい秀吉の人心掌握術のなせる所以である。
そもそも羽柴秀吉という名前自体が、織田家の二人の重臣、丹羽長秀、柴田勝家から一字ずつ
拝借したものだ。その頃、佐吉と言っていた石田三成が、
稀代のひとたらしの術を、幾らかでも学んでいたなら、関ヶ原合戦は勝利したであろう。
けれども、そうであるなら、これ程三成を好きにはなるまい。人とは歴史とは面白いものである。
さて、この長浜で秀吉を「さる」呼ばわりすれば、張り倒されるのがおちだ。
4月12日から始まる「曳き山祭り」は、秋の大円遊会と並ぶ長浜の一大イベントなのだが、
猿の、もとい秀吉の長男誕生を祝って、町衆に砂金が与えられた。その金で曳き山を創り、
その上の舞台で子供が歌舞伎を演じ、跡継ぎ誕生を祝ったのが、祭りの始まりだ。
ゴブラン織りのタぺストリー、柱には精巧な彫金の飾り、それは見事な山車である。
また、橋の欄干、マンホールの意匠など、秀吉の旗印である千なり瓢箪が随所に使われている。
今も秀吉への親しみがどことやらに漂う町なのである。
去年の市町村合併で、長浜市はとてつもなく大きな町になった。最北の余呉町までもが加わり、
ややこしい事態になってしまった。「長浜市、積雪120センチ」などとニュースで言う。
市内は晴れていて、あまつさえ日も照っているのにである。遠来の客足が減り、
盆梅展の入場者数が減少したとか。
余呉町は名うての豪雪地帯であり、2、3メートルはらくに積もる。
余呉湖畔を歩いていて、そこが長浜市とは到底思えない。お役人とは妙な発想をするものだ。
今、長浜市は第三セクターの尽力で町起しが大成功し、黒壁ガラス館を中心に大変な賑わいを見せている。
若い頃の想い出を探り、見果てぬ面影を抱きつつ歩く者にとってはいさいさか迷惑な話ではある。
「赤い影法師」という映画がある。東映時代劇、いわゆるチャンバラ映画だ。
柴田錬三郎の原作を撮ったもの。年に一度は観たくなる映画だ。
三代将軍・家光の時代、御前試合の勝者に与えられる褒美の太刀を、
橋蔵扮する影と名乗る忍者が、切っ先三寸を切り取ってゆく。
徳川軍が炎上する大阪城から奪取した名刀なのである。
試合は一日一番。この勝者の武芸者が懐かしい。若き日の山城新吾、品川隆二が演じている。
隠れ住むお堂に待っているのは、木暮実千代演ずる母影である。
若影が切り取ってきた太刀の切っ先をじっと見つめ、「違う」と一言。
果たして、探し求める切っ先が秘めるその秘密とは?……という訳だが、
大河内伝次郎演ずる塚原卜伝に勝ちを譲られた、女武芸者、
薙刀の大川恵子が賜った太刀の切っ先にその謎があったのだ。
卜伝に負けてくれと頼んだのは、花柳小菊の春日の局である。三代将軍家光は、稀代の女嫌いである。
凛々しい女武者の姿を見せて、その気にさせ、何としても世継ぎをもうけなければならぬ訳だ。
閑話休題。
行灯の光りに浮き上がる、山とうみ、そして島影。
「この山の形に、見覚えがある。まさしく、比叡山」と母影。とすれば、うみは琵琶湖、島は竹生島である。
なんと石田三成が隠して埋めた、軍資金の在りかを示す絵図であったのである。
そしてなんと、母影は三成の忘れ形見という訳だ。
徳川幕府はまだ磐石ではない。幕府転覆のため軍用金を掌に入れ、反撃の狼煙を上げねばならぬのだ。
柴錬の原作である。当然のように、官能場面が随所にでてくるが、映画では当然のようにはしょってある。
それにしても、斬られた血が飛び散らない画面の美しさ。
橋蔵の舞いをまうごとき立ち回りの爽やかさ。
リアリズムに徹した映画では、観るこちらの想像力、空想力が湧かないのだ。
お話しは多彩だ。旗本奴の白柄組の水野十郎左衛門に平幹二郎、柳生十兵衛に大友柳太郎、
その父、宗矩は黒川弥太郎という具合に、登場人物も多彩なら、役者の顔ぶれも豪華だ。
そして、極めつけ。忍者服部半蔵に近衛十四郎が扮している。
その昔、母影を捕らえた半蔵との、一度きりの契りで、生まれたのが若影であったのだ。
苦悩する橋蔵の美しさ。言い訳する、忍者ゆえの女らしい木暮さんの演技力。いつ観ても面白い、
そして、湖北に住まう身にとって、堪えられない映画である。
余呉湖の周辺では、かって養蚕が盛んで、その良質な絹糸は京、大阪の琴糸として重宝がられたとか。水上勉の名作「湖の琴」に詳しいが、余呉湖から余呉川沿いを歩くと、哀しい物語が彷彿とされるほど、ひなびた風景が続く。
さて、この余呉川なのだが、少し西側に小高い山が、綿々と続き、
その麓に幾つかの集落が散らばり、田畑が犇めきあっている。
はるか南の山が途切れた辺りで琵琶湖へ注いでいた訳だ。そのため、大雨に見舞われると、たちまち、川が氾濫し田畑を水浸しにしてしまうのだ。
江戸時代後半の天保3年(1832)大洪水による大飢饉で、この西野地区は壊滅的打撃を受けた。この惨状を救うため、西野・充満寺住職、恵荘は、西山を掘り抜いて水道をつくり、
余呉川の水を琵琶湖に流すしかないと考えた。工事は天保11年より着工され、能登の3人の石工により、湖水側から掘り始めた訳だが、岩盤が堅く1日に6センチしか掘れず作業は難行した。
掘り進むにつれ、洞中や両山肌の落盤もしきりに起こり、山の神を勧請して工事の無事を祈ったそうな。幾多の苦難の末、6年の歳月をかけて、長さ220メートル、幅1.2メートル、高さ2メートルの
放水路は完成した。昭和25年に二代目が55年には三代目ができ、今の余呉川はこの直径10メートルのトンネルを抜けて、湖に注ぐ。二代目は4メートル四方の随道で、歩いて湖岸に行くことが出来る。
何年か前に東京の俳句仲間が、こぞって湖北に吟行にきた時、この洞門に案内した折りのことだ。みんなでトンネルを歩き、湖岸に出た時、突然一尾の巨鯉が湖面を割ってでた。拍手喝采である。俳句仲間へのご挨拶であろうか、見事にも阿吽の呼吸を備えた、琵琶湖の鯉ではあった。