湖の子守唄

琵琶湖・湖北での生活、四季おりおりの
風景の移り変わり、旅先でのふれ逢いなど、
つれづれなるままに、語りたい。

母のお手製

2011年01月30日 | 詩歌・歳時記
毎朝、新聞を読むとき、テレビの欄に探す名前がふたつある。ひとりは西郷輝彦。
そしてもうひとりは都はるみである。夜、仕事から帰ってから、母に見せるためだ。
都はるみの歌は勿論だが、何よりも彼女の着物姿を見るのが、母ともども大好きなのだ。
ほかの演歌歌手とは、まったく違うその着物と、柄と帯との調和、着こなしのセンス。
紬だ、ちりめんだと母に教えを乞う。母は和裁のプロなのだ。

大正生まれのわが母は、娘時代に長浜の和裁のお師匠さんのところに通っていた。
駅まで歩いて30分、米原で北陸線に乗り換えて長浜へ。当時のことだ。2時間近くかかったであろう。
東京時代には、専門的にしていたイメージはないのだが、
滋賀へ移ってから、隣近所から頼まれたりして、縫い物しているうちに、
町の呉服屋の仕事をするようになり、本格的に和裁を始めた訳だ。

子供たちの学費になり、家を買うための資金にもなったのだろう。
やがて京都の呉服屋からも注文が来るようになった。縫い賃がまったく違うのだ。
日本の産業の最盛期。かたわらに、次の次までの反物が積まれてあった。

一時期、遠縁の娘さんが弟子入りして、自分の一生分の着物を縫うため、通ってきたこともあった。
北陸のホテルでの展示会などがあれば、一泊の旅行の招待がくる。
お土産付きのいたれり尽くせりのおもてなし。呉服屋の景気も絶好調の頃だ。
しかし、まず京都の店が下火になる。地元の呉服屋は、得意先を小まめに回り、
幾らかの命運は保ったのだが、やはり注文が次第に減っていった。
                  
その頃から手の空いた時を見計らい、ポーチや紙入れなどの小物を縫い始めた。
土曜日、買い物へ出かける途中、近くの道の駅に納品に寄るのだ。一週間のあいだに結構売れるものだ。
ふたつの道の駅に寄って、補充してゆく。刺し子、刺繍は、地元の名物・梅花藻をデザインしたもの。
                     
少し値上げしたら!?と言っても首を縦には振らない。まったく欲のないひとなのだ。
それでも忘れた頃に呉服屋が縫い物を持ってくる。2日で仕上げたものが、
6日も7日もかかるようになり、厚手の生地に針を指すことが困難になり、
去年90歳の誕生日を前に引退を宣言した。それからは、小物に専念である。

この3月で91歳になる我が母の名前は、何故か、秋の花の名前である。


写植

2011年01月24日 | 詩歌・歳時記

写真植字機をご存知か?略して、写植と言う。
平版印刷(オフセット印刷)の工程のなかでの花形だった昔もあった。
少し大きめの鉄の机を想像されたい。一番下に光源ランプがあり、真っ直ぐ上に光が伸びている。
その上に文字盤がレールに載せてあり、自由自在に軽く動くようになっている。
4ミリ四方の文字がびっしり並んだフィルムを、2枚のガラス板で挟んだものだ。

その上に7級から100級までの、縮小、拡大のレンズが夫々筒に仕込まれ、円形に並んでいる。
任意の文字をレンズ筒の真下にもってくる。レバーで固定し、押し下げればシャッターが切れて、
一番上に置かれてある、暗箱(マガジン・ボックス)のなかの印画紙に印字される仕組みだ。
割り付け通りに組み上げた後、暗箱を外し暗室で現像するのである。現像液にそっと浸す。
やがて、たった今打ち上げた文字たちが、赤い電球に照らされた現像液に浮かび上がってくる。
何年経験しても、胸がときめく一瞬だ。停止液につけ、定着液に入れ、やがて流水にさらし、乾燥。

                         
写植の単位は、1歯といい4分の1ミリである。文字の大きさとも連動しており、
16級の文字といえば4ミリ四方である。今でも例えば20ミリの巾を頭に思い浮かべる時、
80級と思うとすぐ長さが想像できる。何ミリよりも、何歯で考える方が心身に染み付いているのだ。

写植を覚えたのは、長浜の印刷会社で、20の頃だった。写植の初期で、全てが手動式である。
鉄骨むき出しの武骨な相棒であった。20歯分移動する時は、歯車を20山刻んでゆく。
カチカチカチという音が、懐かしくも切なく耳の奥から消えない。

文字と密着した最適の仕事の訳だが、それで将来生活していく訳には参らぬ。
作詞家への夢に邁進せねばならぬ。2年ほどで上京した。

新聞の求人欄に、写植オペレーター募集が載らぬ日はなかった。まったくの売り手市場だった。
ほとんどが3行の、狭いスペースに簡略化した言葉が詰め込んである。委細面談である。
半年ほど勤め、金が貯まれば会社を辞めた。次の日から、街を彷徨い詩のネタを探し歩いた。
或いは朝、出勤地獄のサラリーマンを横目に、がら空きの下りに乗って、奥多摩や相模湖へ。
野山を歩き、とにかく詩を創る日々であったのだ。

金がなくなれば、やおら新聞を広げる。小さな写植屋を何軒渡り歩いただろうか。

そのうち2人目の子供が生まれて、作詞家どころではなくなった。

夢をあきらめ、独立。写植の事務所を開いたのだった。
その頃には写植機も格段の進歩をとげていて、コンピュータを組み込んだ、自動式である。
アナログからディジタルへの転換には、相当悩んだ。それまでの知識をすべて捨て、勉強した。
昼も夜もなく、土日さえ考える暇なく、写植に没頭したのだった。


摺針峠その2

2011年01月18日 | 詩歌・歳時記
摺針峠のつづら折りを降りてゆく。やがて、中仙道は国道8号線と合流し、再びふたてに別れる。
右側に大正建造物でもある近江鉄道の「鳥居本駅」の、童話にでもでてきそうな可愛い駅舎がみえ、
前方にすぐ目に入るのが、江戸の当時から道中胃腸薬「赤玉神教丸」を製造・販売している有川製薬と
その豪壮な有川家の旧家である。たまたま通りかかった徳川家康の腹痛を快癒させたとか。
微妙に曲がりくねった細い道をさらに西へ歩を進める。ここら辺り街道の雰囲気が実に濃厚である。
                                                               
鳥居本宿は本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠35軒を数えた宿場で、
多賀大社の鳥居がここにあったことから、その名がついた由。

やがて右側に木製の古い合羽の形をした看板を吊った商家が現れる。何気ない民家ではあるが、
ここも中仙道ではお決まりのたくさんあったなかで、今ではたった1軒残る「木綿屋」である。
                   
江戸の昔は、鳥居本の合羽は全国有数の製造占有率を誇っていたと言う。

万延元年(1860)3月3日、雪降りしきる桜田門外に、時の大老・伊井直弼を襲った、
水戸の浪士18名(うち、一人は薩摩藩士)が着こんでいた合羽が、彦根の鳥居本の産であったとか。
なんたる皮肉であろう。直弼公さえ存命ならば、あれほど愚かな明治政府とはならなかったであろう。
歴史に、たら・ればは禁句ではあるが、西郷さんの運命もしかり、その後の戦争至上主義への傾倒も、
違った展開になったのではなかろうか。日本の歴史を根本的に覆した、桃の節句である。

閑話休題。
街道はやがて、石田三成の佐和山を南へ巻いて、彦根城を北に仰ぎながら、次の宿場、高宮へと続く。
鳥居本にはもう一ヵ所、歌舞伎でも有名な「上品寺」じょうぼんじ、がある。

法界坊は、亡父の菩提を弔らうために出家し、諸国を巡り修行に励んだのだが、寺は荒れ果てていた。
江戸にでてたく鉢し法を説く法界坊に帰依した、吉原の花里という花魁が、
釣り鐘のための浄財を得るため、奔走した。志半ばに倒れた花里の姉、花扇はその偉業を継いで、                                  
釣り鐘鋳造の運びにこぎつけた。その鐘に法界坊自らが寄進者600数名の名を刻み、
大八車に乗せて彦根に運んだ。今、寺は国道、JR、新幹線、名神高速、中仙道と大動脈に東西に寸断されて、肩身も狭く惨めな状況ではあるが、法界坊が運んできた鐘は、健在である。近江の国土は狭い。その狭い所に、名所・旧跡がいくつも点在している。たいがいが、この東西に延びる大動脈に寸断され、かろうじて妙脈を保っている。

摺針峠その1

2011年01月12日 | 詩歌・歳時記

長谷川伸の名作、番場の忠太郎で名高い「瞼の母」の江州での舞台が中仙道・番場の村である。
国道21号線沿いに、トラック野郎御用達の「忠太郎食堂」と言うのがあり、
等身大の番場の忠太郎の銅像が三度笠傾けて、番場の空を見上げている。
     
醒ヶ井から西へ三里、村の入り口に、江戸時代を模して造られた「一里塚」が設けられている。
夏の暑い日には旅人に緑陰の恵みを与えたであろう、枝を伸ばした榎が一本立ち、
その根本の道標に中仙道、番場と刻まれてある

車一台分の細い道には、昔ながらの松の並木が続き、
茅葺きの家なども点在しており、旅人さんの行き交う姿を彷彿とさせるいい風情である。
番場を過ぎると間もなく、山路にさしかかる。摺針峠(すりはり)への難所の始まりである。

むかし、若き日の弘法大師が、修行に挫折して、生まれ故郷に帰る途上、この峠にさしかかると、
土地の老婆が一心不乱に斧を摺っていた。話を聞いたところ、それで針を作るのだと言う。
ハッと気付いた大師は、たゆまぬ努力の大切さにおのれを恥じ、さらに修行を続けたと言うことだ。
その後、再び訪れた折り、杉の苗を植えて

  道はなほ 学ぶることの 難からむ
  斧を針とせし 人もこそあれ

と詠んだ。「摺針峠」の名前の謂れである。今も歩いて登るには、そうとうキツイ坂道ではある。
    
峠の頂上に、平成3年の火災で消失してしまったが「望湖亭」と言う入母屋造りの建物があった。
旅人や参勤交代の諸大名の行列が必ず休んでいった由緒ある茶屋であった。
皇女和の宮が徳川家へ降嫁の旅の途中に、一泊したと言う。
貴重な調度品や山岡鉄舟の「望湖亭」の扁額、芭蕉の軸なども失われてしまった。

ここからの眺望は抜群である。眼下に琵琶湖が広がり、遠く竹生島が夢のように浮かんでいる。
山の麓から吹きあがってくる、心地よい風に汗がスィ~とひく。ひと息ついてから、
つづら折りの坂道をおりてゆく。国道と合流し、やがてまたふたつに別れる辺り、
江戸から数えて中仙道69次の63番目にあたり、今も往時の旧跡が残る鳥居本宿である。


月刊雑誌「少年」新年特大号

2011年01月07日 | 詩歌・歳時記
子供の頃、少年仲間は2派に分かれていた。
栃錦と若乃花、零戦と隼、長嶋と王、鉄人28号と鉄腕アトム、メンコとベーゴマ、矢車剣之助と赤胴鈴之助。
私のお好みは前者だった。それゆえ、月刊誌は「少年」を取っていた。
他には「冒険王」「ぼくら」「少年倶楽部」なんてのがあったっけ。

毎月の付録が一番の楽しみだった。ほとんどが厚紙を組み立てる模型なのだが、
真っ先に組み立て、4、5日遊んで、♪あとはおぼろ……だったな。
エンパイヤ・ステートビル、戦艦大和、野球盤、カタパルト拳銃なんて、今でも覚えている。
そして、ピンホール写真機、幻燈機なんてのもあった。
                    
連載マンガはほかの雑誌とごっちゃになって、はっきりとは思い出せない。
ストップ兄ちゃん、サイコロころの助、海底人8823、誓いの魔球、まぼろし探偵。
絵物語の少年ケニアなんてのもあった。山川惣治だったかな。
読み終わると、女の子の「りぼん」とか「なかよし」なんかと交換したっけ。

10月末にでる「新年号」が特に楽しみだった。豪華36大付録なんて、子供心を巧みに撞いてくる。
いや何、シールだの少年探偵団手帳だの、手を変え、品を変えてのすごろくだの、
細々したものの寄せ集めだったが、少年には確かに豪華絢爛だった。

やがて、月刊誌から週刊誌の時代へと移ってゆく。即ち、「サンデー」「マガジン」である。
世相はまだゆるやかではあったが、その後のせわしない時代の幕開けの、序奏だったのかも知れない。