湖の子守唄

琵琶湖・湖北での生活、四季おりおりの
風景の移り変わり、旅先でのふれ逢いなど、
つれづれなるままに、語りたい。

石原詢子への「挑戦状」なり!

2016年08月29日 | 詩歌・歳時記
歌手・石原詢子へ「歌詞」を送ると思いながら、図書館へ資料と原稿用紙を持ち込んだのだが、最初の一文字を書いた瞬間、その文字の醜さに
全てを、投げ出した。

小学校の5年、6年の頃、書道の塾で学んだボクは、美しい文字を書くことが快楽であった。素敵な文字を書いていた❗ と今でも思うのだが? 携帯・スマホの時代になって
詩や短歌、俳句を文字で打つことに慣れてしまって、ペンを持つ手がふるえる始末ではある。

けれども死んだ弟に背を押されてさ、今夜「エイヤッと、石原詢子へ
詩歌5編を書きました」。
明日は詢子様の生まれ故郷の池田町の温泉への途中で、封筒を投函しませう。ふっふ、関ヶ原の郵便局ですね。詢子! 参るぞよ!

石原詢子さま、参る🍒

2016年08月25日 | 詩歌・歳時記
去年の冬に死んだ弟は、若いころ滋賀の中学を終えて、岐阜の工業専門学校へ進学した。つまりは兄妹四人のなかでは、ず抜けて学業優秀であっのだ。

その学校の所在地というものは、岐阜県本巣郡、岐阜市と大垣市の中間の北方に位置していた。かの天下分け目の大戦、関ヶ原の合戦の折り、
タヌキ家康の東軍がたどった道のりとトレースしているのである。

さて、その西側には私が頻繁に通い、至福のひとときを過ごす「池田温泉」があるのである。

ふたたびのさて、であるが・・・おそらく岐阜の町に青春の一時期を送り、やがてフォークソングや歌謡曲の世界に目覚めた弟は、石原詢子が岐阜の揖斐郡池田町の出身と知ったのだろう。

いつだったかの夏、東京から帰省の弟が「兄貴、まぁ、見てくれ!」と
石原詢子のリサイタルのビデオテープをさしだした。演歌にはたいして興味のなかった私だが、ヒット曲の合間にドレス姿で歌った彼女のポップスの歌唱にびっくらこいて、しまった。素晴らしい、の一言だ。
それが石原詢子という歌い手を意識した、始まりであった。

岐阜から滋賀へ、つまりは美濃から近江へ・・・それは、戦国の世に湖北の若武者、浅井長政に嫁いだ織田信長の妹・お市を偲ばせる。そんな訳で詢子を想定して「お市慕情」という歌詞を書いたのがはじまりであった。それらの詩が数編書き留めたゆえ、彼女へ送ろうとして、はたと、困った。
図書館で「芸能人住所録」を探そうか? なんのなんの、スマホで一発!
石原事務所がヒットした。新宿の上落合って、西武線の沿線かしら?

石原詢子と岐阜の池田町で、いみじくも交わり溶け合う弟と私。
レコードが1枚世に出せたなら、
「おとうとよ、瞑ずべし」と祈る。



梅花藻の町

2016年08月21日 | 詩歌・歳時記
🎵 ゆかた姿の 君のくろかみ
 水の音きく 真夏の水辺
 やまとたけるが 目を醒ます
 むかし語りが 残る町
 あぁ醒ヶ井 梅花藻の町

 砕けて散った 夢の数々
 癒してくれよ 故郷の清水
 西行法師が 子をなせし
 泡子塚なる 言い伝え
 あぁ醒ヶ井 梅花藻の町

 母が愛した 村の細道
 水に冷やした 麦茶やすいか
 忠太郎さんの 三度笠
 縞のかっぱで 行き過ぎる
 あぁ醒ヶ井 梅花藻の町

中仙道の岐阜から滋賀へ、もとえ、美濃から近江への2番目の宿場町が、醒ヶ井である。即ちわが母の故郷でありまする。
即興で書きなぐった詩ではござんすが、さてはて、いかがでござんしょうかね。



史上最悪の「痛風発作」🌿

2016年08月06日 | 詩歌・歳時記
先月の18日のこと。右膝になんやら違和感が・・・。やべー、痛風の兆しではごわはんか?
ところが、「海の日」の祝日であり、診療所はお休みである。
   空豆や母死してより口にせず

翌朝、起きたけれどベッドから立ち上がれないばかりか、右膝が倍に腫れていて歩くこともかなわない。
車まで行くことも無理である。午前6時、やむを得ず救急車を頼んだ。
この車がやたらに揺れては、膝に衝撃がはしる。長浜赤十字病院に運びこまれて、採血、検温のあと整形の医者がふたり、膝の「ミズ」をぬくべく、恐怖の針をブスッと刺したのだった。うっうぅ、あヘアへだった。それでなんとか杖をつきながら
も歩いて家に帰ったのだったが、それが「史上最悪の」痛風発作のプロローグにすぎなかったとは、露ほども気づかないお間抜けなぼくだった。

それまでは一年半ほどの間隔で、右膝、足首、左膝、足の甲とロウティションよろしく、1度に1ヶ所で治っていたのだが!
抜いたミズがはんぱだったみたいで、3日後に近くの診療所へ2本の杖を頼りにヘラヘラで行って、またもやぶちゅーぅと!「うーうっー」言うな❗と医者に威嚇されながら、今度は真っ赤な膝のミズであった。
   緑陰にむなしく憩う水の音
ようやく杖なしで歩けるようになった、のもつかのま、今度は左膝が腫れはじめ、今は足首がパンパンに腫れ上がっている。けれど20年らいの持病である。仲良く付き合っていく術は心得てはいる。
あーぁ、納豆肴にしこたまビールを浴びるように飲みたいものである。