湖の子守唄

琵琶湖・湖北での生活、四季おりおりの
風景の移り変わり、旅先でのふれ逢いなど、
つれづれなるままに、語りたい。

千里浜キャンプ場

2011年08月28日 | 詩歌・歳時記

真夏、日本海を左に見てひたすら北上する。国道8号線である。
何処で高速道路にあがるか? と思いながら金沢に突入してしまった。
オー・ミステークだった。突然の渋滞。まぁ、いいか、車の流れのままに進む。
                    
やがて、富山と能登有料道路との分岐点。懇切丁寧な道標だ。
日本海が見えてきて、さすらいの旅の始まりだ。
海岸から幅30メートルほどあるかな、砂浜がギュッと固められ、南北に8キロに伸びる
「千里浜なぎさドライブウェイ」をゆっくりと走る。砂の粒が恐ろしく小さいのだ。
海水浴する家族連れ、浜焼きの店が並び、キラキラと光る波。
日本の正しい夏の風景が、東北の人たちには申し訳けない事ながら、車窓に続く。
        
「能登千里浜・休暇村」併設のキャンプ場に到着。松林のなか、とにかくも広い。
日陰の良い場所を選んで、テントを張る。「mont-bell ムーン・ライト」30年来の相棒である。
こっちの身体は、あちこち傷んできたが、テントには何のほころびもない。頼もしい奴である。
                                       
若者のグループを避け、テント回りにアウトドアの遊び道具の多い、ファミリーを選んで
テント・サイトを決める。昼間のお遊びに疲れて、早く寝てくれるのだ。
年期を積んだ家族ならなお良しである。

本館の温泉でのびのびする。風呂上がりのビールの旨さ!!
今回は極力、カメラを封印。短歌・俳句に専念する積もりだ。
レンズを通して見るか? 自分の眸と心で見るか? しかし、カメラと詩歌は両立しないものだ。
          
思惑通り、両隣りのテントはすぐに灯を消し、静かになった。
ウィスキーの水割りを遣る。短歌が湧き、俳句が訪れる。
潮騒をのせて夜風が吹き抜ける。至福のひとときが、静かに流れ、能登の夜は更けていく。


和賀英良と石田三成

2011年08月22日 | 詩歌・歳時記

俳優・加藤 剛の清潔感が好きだ。代表作として映画「砂の器」、テレビドラマ「関ヶ原」を挙げたい。

                                         
「砂の器」は、松本清張の原作を読んで、まぁ並みの推理小説と思った。
それが映画化されるという。あんな複雑な話を、どう料理するのか? 興味津々見に出かけた。


圧倒されました。二人の犯罪者、二人のヒロインを、一人づつに置き換えて、物語がすっきりした。
また、父と子の苦難の巡礼のシーンに映像を絞った点、脚本の大勝利と言えよう。
ラスト・シーンのリサイタルで、加藤剛の演奏とかぶさる、親子の旅の場面に涙がとまらなかった。
「彼は今、音楽のなかで父と逢っている」と言った丹波哲郎の刑事に、理不尽な物を感じた。

                
和賀英良の恩人、緒方拳への殺人行為だけは、許されてしかるべきではないだろうか?
加藤剛の清潔感と、潔癖な凛々しさが、そう思わせるのだろうか。この世の不条理が哀しい。
          
「関ヶ原」は、司馬遼太郎の原作を元にした大作ドラマだ。三成の家老、嶋 左近 の三船敏郎が良かった。        
当時、こんな戯れ歌が流行ったそうだ。「三成に過ぎたるものが二つある。嶋の左近と佐和山の城」。
愚痴になるが、左近の武将としての提案、作戦を総て採用していれば、関ヶ原合戦は勝利していたろう。
それが出来なかったのは、三成の正義感、潔癖さ。戦国の世に、通用しない清潔感であった。
加藤剛とイメージがピタリと重なる石田三成であることだ。
                                           
雨降る松尾山へ、小早川秀秋への説得に向かう苦渋の横顔の加藤剛、いやさ三成の不安感。
戦さ半ば、西軍の優勢に「勝った…」とつぶやく三成の、加藤剛の恍惚とした上気した表情。
見所多い、テレビドラマの傑作である。 


涼風の醒ヶ井養鱒場

2011年08月16日 | 詩歌・歳時記

伊吹山麓に棲む、もともとの日本人を、朝鮮半島から渡来して、侵略した天皇側からは「蛮族」と呼ぶ。         
その一族を制圧に向かった、日本武尊が傷つき、おそらく目潰しにやられて、
高熱のまま辿り着いた、湧水に体を浸したところ、目が醒めた。
それ故、この湧水を「居醒めの泉」と言い、土地の名を「醒ヶ井」と言う。
しかるにパンフレット等にはこうある。「日本武尊が伊吹山の大蛇の毒気に当たった時、
その高熱をこの清水で癒したところ、熱が引いたというゆかりの湧水…」
      
可憐な梅花藻の花が、水中に揺れる醒ヶ井から南へ一里、渓谷の奥に「醒ヶ井養鱒場」がある。
明治の初期に、ビワ鱒の研究育成の機関として、開設されたのだが、紆余曲折、
今は虹鱒の養殖と並んで、観光地として春の桜、夏の避暑、秋は紅葉の名所として賑わいをみせている。

高校生の頃は土日ともなると、観光バスが何台も連なり、丹生川沿いの狭い道にひしめいたものだが、
今は昔日の面影はない。が、木陰を選んでのんびり歩いていると、
渓流や池面から吹きあがる涼風に、たちまち汗はひき、結構な避暑気分である。
                            
広い場内の最奥に、湧水の源流へと行ける山道があるのだが、今は通行禁止になっている。
生き物である虹鱒の健康のため、細菌の侵入防止をはかっている訳けだが、
一番詩歌が湧いてくる、原始の魅力に富んだ場所だけに、まっこと残念なことではある。


伊吹野そばは、日本最古?

2011年08月04日 | 詩歌・歳時記

日々仰ぐ、伊吹山には、さまざまな伝承、伝説が伝えられている。
近江、美濃を分ける、標高1377メートル、それほど高い山ではないが、一山だけすくっと聳えている。
関東へ行った時、武甲山を見て、あぁ、伊吹山だと、懐かしく望郷の想いに駆られたものだ。

奈良時代、僧の修行の場であった伊吹の地に、唐の国から修行僧がそばを持ち帰り、
栽培したことから日本の蕎麦の歴史が始まったとか。にわかには、信じがたい話ではあるが…。
              
関ケ原から伊吹山の麓を抜けて、余呉湖から山越えで、越前へ至る道を「北国街道」と言うのだが、
さまざまな歴史や、庶民の哀感に充ちたエピソードに満ち満ちた一本道である。

さて、何年か前、伊吹山の麓に「伊吹野そば」と申す店ができた。
山麓の農家と委託契約し、休耕田で蕎麦を栽培しはじめた訳けである。
いつかの年、新そばを食べたが、口の中にそばの香りがいつまでも消えなかった。
白に近い、洗練された味わいである。遠来の客がひきもきらず、大変な繁盛振りである。

やがて大きな施設に立て替えて、売店も併設。あまつさえ、お隣には道の駅もでき、
一大観光拠点として育つに至った。時分時をはずして行っても、店の前の椅子には客が座ってるほどだ。

伊吹の特産物のひとつである「峠大根」とも呼ばれる、やや小振りな、独特な辛味の伊吹大根の
おろしそばは、この店の名物である。そば打ちを体験できる「そば道場」も併設されている。
秋、山麓の随所にある蕎麦畠に、白い花が揺れるだろう。そして長い雪の季節が訪れる湖北ではある。