しなの高原鉄道の日々

安楽マニアのおじさんが一念発起して 開業した「しなの高原鉄道の日々」をご紹介します。

懐かしい車両の日々-番外編2(父の大きなレイアウト)

2010-09-22 | レイアウト

前回、実家にあった大きなレイアウトのご紹介させていただきましたが

今回も続きになります。

父の大きなレイアウト、

確か夏風が小学校4年生のときに実家の一部を改築いたしました。

古い古い台所とお風呂場、トイレなどを直したのですが

父はなんとその2階の部分に専用のレイアウトルームを作ってしまったのです。

母との間でどんなやり取りがあったかはなんとなく想像できますが。

12畳分位の広さのその板の間(当時家族は「いたのま」と呼んでいました。)は

夏風が中学生になる頃まで放置され物置と化していました。

突然、父が片付けをはじめ、材木を買い込んできて

ごそごそ始めたことを覚えています。

今回の写真の頃、夏風は高校生、昭和50年頃です。

製作開始から2~3年が経って、本線関係の線路敷設が終り、

仮の電気配線でがんがん走らせていたことを覚えています。

T1587026

ダブルキャブコントロールで

パワーパックは宮沢の物が2台

後ろに見えているスイッチ盤、

父が16番時代にお座敷運転用として自作したもので

レイアウトの仮配線用に活躍いたしました。

左側には天賞堂製のポイントマシン専用のスイッチが組み込まれています。

このスイッチ、優れものでスイッチのキーを倒した瞬間だけその側が通電し

倒れきった後は接点が離れているよう接点が板バネのようになっていました。

当時のPECOのポイントマシンは今のように金属の枠ではなく

プラスティックのボディーにコイルがおさまっていました。

ちょっと過電流が流れたり、通電時間が長いと

ボディー自体が溶けて曲がってしまい

使えなくなってしまうという恐ろしいものでした。

右側はキャブ選択用のスイッチこちらも大きなサイズのしっかりしたスイッチでした。

このスイッチボードいまだに現役です。

「しなの高原鉄道」開業時に仮コントロールボードとして

三度目の活躍をいたしました。

横に写っている配線図。こちらの写真もあります。

T1587027

判りにくいですが 

メインとなる、複線の本線が上段を周回、

そして2面4線の上部駅、有効帳は20m車16両

当時のブルートレイン15両+機関車、もしくは東海道本線の

15両+荷物車の編成が収まるようになっています。

前回書いた通り内回り本線から外回り本線に渡るリバースを持っています。

前にご紹介した関水の古い20系15両をEF65が牽引して快走していました。

右手のごちゃごちゃした部分が下段の主要駅

こちらは2面3線の停車場に貨物ヤードが併設されていました。

停車場の内、1線はリバースとなっていて

上段の本線に機回しをしないで戻れるようになっていました。

このあたりの基本的な配線は「しなの高原鉄道」に引き継がれています。

T1587013

上段の駅の部分です。

EF65が貨物列車を牽引して止まっています。

キハ20系が止まっている後ろには、先程の配線図には描いてありませんが

ローカル線の駅が併設されています。

T1587011

1面2線の停車場と3本の留置線があります。

この路線は前回写っていた山岳路線となるエンドレスの中央駅となっているほか

写真左側の部分から分岐して下段に降りてくる支線で構成される予定でした。

線路が全通するところまでいかなかったように思います。

T1587014_2

この写真は上部駅の左側

山岳路線はベニヤの路盤が仮に置いてある状態です。

ここまでが夏風が高校時代の写真でした。

他にこんな写真もありました。

それから数年後、父が勤務していた会社の社内誌に

「私の趣味」みたいな欄があって

わざわざ広報の方が取材にみえた時の写真です。

台枠だけだったレイアウトにあわてて、地形らしきものをでっち上げ

主要駅にもホームと跨線橋が出現しています。

写真ですわっているのが父で

たぶん今の夏風くらいの年の頃です。

Tt004

立っているほうが夏風です。(顔ぼかしでごめんなさい)

この長髪、時代を感じます。

父の頭は・・・・・・・

掲載用の写真とは別に広報の方が撮ってくださった写真のプリントが残っていました。

この頃には山岳線の線路も繋がり、トミックスのトラス橋が架けられています。

本当はこの部分に池を作って発電所を立てる予定で台枠を仕込んでいたのですが

急速施工の張りぼて山に隠れています。

Tt008

主要駅の部分のアップです。

機関庫や、詰め所、貨物ホームなども

GMのキットを駆使して作っています。

当時レイアウトの基本部分は父が作っていましたので

夏風は車両集めに専念、一部ストラクチャ作りを行っただけと覚えています。

父と同じ趣味にはまり(洗脳されたのか)、お小遣いはみな、

このレイアウトを走る車両になってしまいました。

母に言わせれば

「お父さんはうまい、いくらお小遣いをあげてもちゃんと自分のところに帰って来る」

などと、笑っていましたが。

このレイアウトがこの世に存在したのが10年くらい

名前を付けられることもなく消えていきました。

このレイアウトあまりに大きくて 父も持て余してしまったのかもしれません。

夏風が社会人になり実家を出た後、実家の建て直しのときに

解体、撤去されています。

残っていたら創りでがあっただろうなと思います。

実は実家の屋根裏が屋根裏部屋のような造りになっていて、そのまま

レイアウトルームに出来るようにしてあるのです。

さすがに、父もその元気を失ったのか安楽マニアを決め込んでいるようですが

「しなの高原鉄道」には絶大なご支援ご鞭撻を賜っております。

たぶん、自分が完成することが出来なかったレイアウトへの思いが

当鉄道へ振り向けられているのだと思います。

そういうことで開業の日のテープカットに主賓としておいでいただくこととなりました。

長々と書いてしまいましたが、

夏風が10年近く共に過ごしたレイアウト

日常の生活まで思い出せる程、この部屋で過ごしていたんだなと

懐かしさのあまり筆が止まらなくなってしまいました。

この辺にしておきましょう。

コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする