@「転職に次ぐ転職」七人もの主人を変えた戦国武将藤堂高虎の生涯だ。最初は禄高を求めて転々とするが、途中からは仕える主の人柄・思考・戦略等(侍大将)に傾き、城・仏閣建築に興味(建築家)を持ち、終盤には守り固め(相談役)に終始する人物に変わっていく。 現代、転職して誰もが恵まれた上司には出会えない、ましてや昨今の志望する就職難からか給与の大幅なアップが見込めないこともあり「社内での生き残り策」でもがいている社員もいるかのように見える。国内の景気にもよるが今後国内転職において良い条件での採用は困難な時代を迎えると予測できる。 それは日本経済の滞り(消費が増えない構造)、新規産業開発・発展の衰え、中高齢者の退職時期の延長、少子・高齢化による経済構造の変化、世界経済の低迷(新型肺炎など)である。必要なことは中間目標、最終目標を立て、目標に向かって日々勉強し、経験(質問し、聞く)していくことかもしれない。東南アジア諸国を旅(商用)すると多くの起業・就職の機会があると感じる。 成熟した諸国が次に歩む予測とこれから成長する諸国の動向を知ることは大切。
『主を七人変え候』小松哲史
高虎は、歴史の日陰者となった。だが素朴な疑問がわいてくる。「ゴマスリ」だけで三十二万石の大名になれるのか?なぜ七度も主人を替えたのか?なぜ家康の信用を勝ち取ることができたのか?大名取りつぶし攻勢のなかで、なぜ生き残ることができたのか?これらの“謎”を、波乱に満ちた高虎の生涯で追いかけてみよう。人を誰も信じない家康の肝をつかみ、外様にして徳川の先鋒にまで昇りつめた男。乱世にも治世にも生き残る知恵と覚悟を活写。
- 藤堂高虎 15歳の初陣から七人の主を変えた武将
- 1、浅井長政 小谷城1570年 父の縁で出仕 禄高なし 姉川の戦い ただ働きが嫌になる
- 2、阿閉貞征 山本山城1572年 無録 生計が成り立たない
- 3、磯野員昌 小川城1573年 80石(自分を入れて三人と馬の餌など)
- 4、織田信澄 城主交代1574年 80石のまま
- 5、羽柴秀長 長浜城1575年 300石 1581年中国遠征などで3千石加増
- 賤が岳合戦で4.6万石、1587年紀伊粉河で2万石の領主となる
- 6、豊臣秀吉 伊代飯島7万石
- 7、徳川家康 1600年関ヶ原の戦い、伊予今治20万石
- 1608年伊賀・伊勢22万石 冬夏の陣1614年32万石
- 近江屋主人与左衛門との出会いで得た知識、それは人柄・質素・低姿勢・商売の秘訣
- 礼儀正しく、信用を重んじ利益は後に考える
- 安易に金を借りて、商売を広げぬこと
- 財は天下一の宝物なれど、悪く用いれば身と家を滅ぼす
- 仕事を楽しみ、不平を抱かず、困難に出会っても屈してはならない
- 職業に価値が高いも低いもない、ただ心の持ちようである
- 小さな商いも疎かにせず、客を分け隔てしない
- 勉強と節約とは福を招く門である
- 一つの小さなことにも手ぬかりないようにせよ。何事も堪忍の2字を弁えるべし、さすれば万事において大成する
- 高虎は「ゴマスリ」「風見鶏」「裏切り者」「世渡り上手」など悪評が多いが、徳川幕府では忠誠を誓う「外様」の見本として活躍、勇将な武士でありながら城・仏閣の建築で家康などから信頼を受ける。高虎と宮大工宗黄による日光東照宮・5千体に及ぶ彫刻がある。 明治まで幕府からの簡易がなく生き延びた外様は多くない。正室、久芳には子がなく養子を育てるが発狂して自殺する。途中妻帯(松寿)し長男を授かる。遺産は後継ぎの長男、松寿に多く、残りを家臣に分配した。 老後70を超えると家光、家老たちに昔話をすることが多く逸話として
- 博打の男と遊女に走る男に「どちらに重きを置いた罰を与えるか」 高虎は博打男を軽い罰
- 天下太平で一番大切なことは「文武両道が必要だ」(どちらもほどほどが一番良い)
- 高虎の城建築(テクノクラート・技術官僚) 歴戦で城を攻め抜いた経験者であり、武略・知略・計略の3つを備えた武士だった。 伊賀上野城(30mの石垣)南北長さ240m、西の250mと大阪城並み敷地5双の天守閣、40箇所の蔵(8万俵を備蓄可能)、その他江戸城、(天下普請)、伏見城、増上寺、伊勢津城、丹波亀山城(再構築)丹波篠山城などを建築した
- 高虎の目標は手柄を求め戦場に出向く、侍大将になることだったが、「平和」「幸せ」の徳川時代になり「大切な何かを失ったような・・・」があった。
- 「人は少しくらい切られても死なない、だが、致命傷を与えるには刺すしかない」
- 高虎の遺言「選択があるとしたら迷わず「領土」「領民」を選べ」
- 高虎の中国出征の間違い「敵を知り己をしらば百戦危うからずが、敵を全く知らずガムシャラに猛進したことでが敗北の要因であった」
- 徳川家康の誰一人信じない武将 「外様であろうと譜代であろうと、信用できるものは信用できるし、裏切るものは裏切る。人を図るには、まずその力量と技量で図れ。次にその姿勢と人柄で図れ。そして最後にはその人間が勝つことだけでなく負けることを知っているかどうか図れ」
- 石田三成を筆頭の政務派vs家康らの武闘派の戦い:関ヶ原の戦い
- 東西に分かれた関ヶ原の戦いを他所に黒田官兵衛は九州において「3分の計」を計画していたのか
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