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書籍、映画、旅、最新技術から選んだ心に残るもの。速読者向けは、青文字表示。内容は小学生でも理解できる表現使用

「偽」ならぬ「義」が必須『名将の品格』

2024-05-11 07:41:18 | 歴史から学ぶ
名将の品格:上杉家の「義(仁愛)」、「天地人」=私利私欲ではなく「義」を重んじた(裏切らず、謀略を使わず、非道をせず)上杉謙信・直江兼続の「義と経済の両立」は現代に必須の心構え現代、政治家の公約は嘘ばかりで政策も裏を返せば「偽」が蔓延る。正に自己主義的で世の中において最も必要な道徳心「義」が欠けている。また、人を思う心「仁愛」の欠片もない「罪ある」政治家が知らぬ顔して大手を振っている姿は異様だ。日本人の心である「思いやり」など品格が削がれた社会は末恐ろしく見える。
『名将の品格』火坂雅志
「概要」戦国乱世は、人々が利によって動いた時代である。そんななか義という思想を唱えた上杉謙信、その一番弟子が直江兼続である。謙信から受け継いだ義の心を、しなやかに発展させた兼続は、やがて仁愛の境地に達する。NHK大河ドラマ「天地人」の原作者が上杉家にみる義と愛の精神を語る。
時代の名将とは越後の上杉謙信、名丞相の直江兼続「品格=義」を重んじた武将
    「天地人」=私利私欲ではなく「義」を重んじた(裏切らず、謀略を使わず、非道をせず)
    上杉謙信の「義と経済の両立」で日本一、裕福な国だった越後(米、青苧、金山)
    「身の丈の幸せ」を領民と分かち合い「領土的野心」を主としなかった
    上杉家の家風(正義を重んじる)を受け継ぎ兼続が采配、会津での戦いに挑む
    「直江状」にて反抗、家康12万に対し会津征伐となるが石田三成の挙兵で中断
    関ヶ原以降も上杉家は小国ながら「義」を通し家康に抵抗していた
        家康の言葉「上杉のような家を潰してはならぬ」(義の家として上杉家は存続)
    困難から逃げないことが「上杉家の義」の道であり侍の道と貫く
    米沢藩の兼続は「義と経済の両立」を実現30万石を50万石にまで努力した
    幕府に対しても「抑止力」として武器製造等を米沢城下で果敢に進めた「武技恭順」
    米沢藩はその上杉鷹山などを輩出、藩校には兼続の5万冊に蔵書「興譲館」も設立
    「武士道」の先駆けとなる(新渡戸稲造)
ー織田信長・参謀沢彦宗恩(京都の禅僧)「岐阜」「天下布武」を命名・平出政秀
「七徳の武」暴力を禁ず、兵を収め、大を保つ、功を定め、民を安じ、民衆を和らげ、財を豊かに
    徳川家康・太原雪斎・金地院崇伝  、武田信玄・恵林寺快川紹喜 、織田信長の3度の大泣き:尾張の木村城で多くの部下を死なせた時・平出政秀死去・最愛の側室吉乃死去
「政治家の公約は嘘ばかり、企業の無責任体質、年金も医療も金融も福祉も破綻寸前」
世の中「偽」がはびこる時代に「義」が必要となる
 

生き残る為の選択『歌われなかった海賊へ』

2024-05-07 12:45:46 | 歴史から学ぶ
生き残る為の嘘と真実。人間は死に追い込まれた時の選択が、嘘をついて生き残る選択を取るか、真実を押し通し死を覚悟する選択を取るか。時は連合軍により侵攻でナチス体制が崩壊始めた時期、強制収容所近くに住むナチ、青少年ヒトラー・ユーゲントに忠実な住民における選択が迫られ、実際に連合軍はそんな住民に対してどんな判断をしたのだろうか。強制収容所への輸送を阻止しようとした勇敢な少年少女軍団「エーデルワイス海賊団」は現在でも碑のプレートは存続している、という。この小説はその一部事実を遺す為の「生き残る為の嘘と真実」人間の尊厳を問う小説だ。
現代でも命令に従い悪をも実行するのか、あくまでも反抗し乱暴されても悪には手を出さないのかの選択など「命令統制」に絡む事件に疑問が残る。命令した者への報復と実行した者への報復をどのように判断したら良いのか。
『歌われなかった海賊へ』逢坂冬馬
「概要」1944年、ナチス体制下のドイツ。父を処刑されて居場所をなくした少年ヴェルナーは、体制に抵抗しヒトラー・ユーゲントに戦いを挑むエーデルヴァイス海賊団の少年少女に出会う。やがて市内に建設された線路の先に強制収容所を目撃した、彼らのとった行動とは
ーエーデルワイス海賊団、10代の四人でのナチスが構築し始めた鉄道の沿線にある工場に興味を持ち探検することを決定。前途多難を覚悟でひたすら沿線を歩く旅が始まる。
ー終点であるポイントは強制収容所であることがわかり驚愕する。
ー貨物車で運ばれるのは「犯罪者」だという認識の下強制収容所に運ばれ、気力がないものは即座に射殺され、他の者は強制労働を強いられる。
ーこれ以上残酷な仕打ちは人間として許せないエーデルワイス海賊団は米国が落下させた不発弾を列車の通るトンネルと橋を爆破させようと動き始める。


情に絡んだチョットエロチックな物語『枕草子の楽しみ方』

2024-05-03 07:40:01 | 歴史から学ぶ
学校で学んだ平安時代の宮廷暮らしを綴ったという「枕草子」、さらには「源氏物語」等は当時さっぱり面白味に欠けていた単なる古書だと思っていたが、現代訳された本書のような男女関係が多い物語(恋愛、恋文、女心・男心)少々エロチックな場面等は学生に教えようとすること自体がやはり難しかったのかと言う気がする。この清少納言ほど口の悪さはないとあるが、実のところいい男に巡り会えなかったのか、とさえ思う。男に対しては「油断ならぬ不条理だ」と記しながらも、30歳近くになり大切なことは「男にしても女にしても思いやる心が大切だ」と力説している所は宮廷での情をうまく読み取っていたと思う。第152段でのイタズラ付きの子どもに対する躾など現代でも変わらないと思わず笑ってしまう。
『枕草子の楽しみ方』林望
「概要」『枕草子』全三百十九段から読みどころを精選。清少納言の鮮やかな筆が、『源氏物語』全五十四帖の現代語訳『謹訳 源氏物語』の著者林望の解説と現代語訳で甦る。「今どきの親は……」と嘆く場面もあれば、男女の恋心の機微や、宮廷サロンの雅な情景、はたまた男の不条理さを責め立てたり、男に騙される若い女房たちに苦言を呈したり、抱腹絶倒の笑い話もあり。学校では教わらない古典随筆の名著の本質に触れられる絶好の入門書。著者の古典の知識と人間への深い洞察による解説は必読。本書一冊で、『枕草子』の世界が語れるようになる。
30歳を超えた清少納言は意外に口の悪い人、非常に潔癖な性格で
    猥褻なネタなどを嫌い、情愛深い人
    言うべきことははっきり言える人で心も強く、弁も立つ人
・男に対して
    あまり真面目な人は、異性にモテない、ちょいワルの魅力を感じていた
    男ってものは、つくづく油断ならないと言いながら
    お坊さんは美男が良い方を選ぶ、それは説く言葉が尊く思えるから
    「きぬぎぬの文」とは一夜を共にした男が認める文を女に贈る慣わし


戊辰戦争の敗北から学ぶこと『桑名藩戊辰戦記』

2024-04-13 07:53:02 | 歴史から学ぶ
@戊辰戦争から学ぶ「敗北」の教訓 戊辰戦争は、明治維新期における重要な出来事の一つで、この戦争から、私たちは「敗北」の教訓を学ぶことができる。
最新式武器の調達と指揮官のリーダーシップ
戊辰戦争において、薩摩藩と長州藩は最新式の武器を積極的に調達し、経験豊富な指揮官を配置していた。一方、会津藩や米沢藩の指揮官は年老いており、戦争経験も乏しかったため、兵士の士気も低かった。
豪商たちの活躍
薩摩藩と長州藩の勝利には、豪商たちの活躍も大きな役割を果たした。彼らは最新式武器の調達に尽力し、財政的な支援も行っていた。
・アラン・ブルーク元帥の名言
英国参謀長アラン・ブルーク元帥は「ウスノロは何度戦ってもウスノロである」と述べています。この言葉は、経験と能力の欠如が敗北につながることを示唆しています。
戊辰戦争の敗北には、最新式武器の不足、指揮官の力量不足、そして兵士の士気の低さなどが大きな要因となっていたと考えられる。この教訓は、現代においても重要な意味を持っていると言えるでしょう。
『桑名藩戊辰戦記』郡義武
「概要」戊辰戦争を最後まで戦った会津・松平容保の弟・松平定敬を藩主にいただく桑名藩兵は、宇都宮、北越、庄内、寒河江と戦いつづけた…。東北の山野を血に染めて戦った桑名藩士の姿を生き生きと描く。
ー1868年1月6日大阪城から密かに15代将軍慶喜、京都守護職松平容保(会津藩主)、京都所司代松平定敬(伊勢桑名藩主)、老中首座板倉勝静(備中松山藩主)、老中酒井忠惇(姫路藩主)、大目付戸川安愛、外国奉行山口直毅、目付榎本道章がらが逃亡
ー幕府の要人大久保一翁の言葉「恭順なさるなら江戸を離れ、いずれかの遠地で謹慎なさるがよかろう」で越後柏崎へと船で出発する松平定敬(兄は会津・松平容保)を藩主と桑名藩兵約80名、その中の神風隊隊長町田老之丞の手記によるもの(江戸から新潟、と陸路の家老吉村を中心とした120名となる(江戸から下妻、宇都宮、日光、若松、福島、白石、清川、鶴岡へ)。
ーその後どの藩でも恭順派と主戦派の席を同じくした互いの詮議も多く、双方に分かれての戦いが行われる「戊辰戦争」へと広がる
「戊辰戦争」は従来の刀槍から銃砲への過渡期となるが、戦国時代の古式軍法も残った。それは味方戦死者の首級は敵に渡さない、捉えた敵は斬首する。重症者は味方が介錯した。
ー宇都宮城での戦いで東軍の伝習隊の兵がおじけずいたことで土方歳三が「退却するものは誰でもこうである」と兵士を切り捨てる事件が起こる(西軍でも同じようなことが山形有朋軍でも長岡再落城時に起こった)戦死した兵士は皆お寺に合葬墓として残した。
ー宇都宮城では桑名藩は城内の米を市民に分配、衣類布団なども提供したとある。今市に向かう桑名藩に逆に百姓たちが山盛りの握り飯などを振舞ったともある。(徳川家への恩に報いる為)
ー備中松山藩主板倉勝静の提言で日光での争いは回避された「この日光徳川家の神域を血で汚してはならん」の一言
恭順派の勝海舟「人の手柄を横取りする大ボラもので少しも謙虚さや誠意がない」と評価、さらにかつは妻妾など一つの矢野の下で10数人を同居させていた、と悪評価
ー幕臣では小栗上野介忠順(のちに斬首)、五稜郭で戦った榎本武揚は高評価された
ー家老の吉村権左衛門(恭順派に寝返り)は抗戦派の軍事奉行山脇に誅殺される
ー柏崎での桑名藩は総勢360名(町民兵士30名で実質中精兵200名程度)で戦死者33人の碑が柏崎大久保にある勝願寺にある。
柏崎の星野藤兵衛(豪商)が東軍への軍需物資などを調達していた。(食料92万食など)
ー長岡藩軍事総督河井継之助(42歳)は兵割に高所するが西軍の軍監岩村(土佐藩23歳、その後解任)との物別れで北越戦争となる(継之助の交渉相手が若すぎて建設的な事にはならなかった)
ー長岡藩の家老山下帯刀(戊辰戦争で戦死)と山本五十六・山本勘助の家系の繋がりがある
ー山県の敗戦・越後平野における旭山から北越戦争に東4千人vs西2万5千人(昼間の銃撃戦は強いが兵士は民兵であり桑名兵の武士の刀戦いは弱い)
北越戦争での3傑とは
長岡藩の河井継之助(42歳)、会津藩の佐川官兵衛(36歳)、桑名藩の山脇十左衛門(48歳)
ー奥州越列藩同盟により米沢藩6百人、会津藩等東で合計3千人が加わったが軍事組織人材に禄高が高い年寄りばかりで戦力に乏しかったvs西の薩摩藩3百人、で会津3百人が戦死。戦力のあったのは東では庄内藩と桑名藩で強かったとある。(桑名藩はすでに2ヶ月で150人となった)
ー7月22日乙茂の小競り合いで神風隊玉井五郎兵衛と馬場三九郎が戦死(常禅寺に墓)
ー新堀田藩の西側への加担の裏切りで長岡城を奪回した河井は敗戦
8月4日東側防衛は数か5百vs西側は5千人と北越戦争・加茂防衛戦が最後の戦いとなる
    5ヶ月戦い北越戦での結果 戦死者数は東1180名、西1048名
    結果的に東軍が苦戦したが検討した戦いでその戦史は有名ではない(東側の苦杯戦争には史上に残したくない)
    土方歳三の「必ず尽力すべし、心を安ぜよ。速やかに我が隊に来れ」と桑名藩兵士を入隊
    桑名藩兵士17名は新撰組に入隊し大江丸にて蝦夷地へ向かう
    庄内藩と桑名藩の残り兵士260名は最後の寒河江の血戦、凄惨悲壮へと向かった
ー降伏
    米沢藩使者「義をもってこれに至る。死すとも謝る可けんや」
    9月23日会津鶴ヶ島城開城、容保含め5千人が降伏、
戦歴史の誤解
    「蛤御門の変」は実は薩摩勢は全く戦っておらず長州を負かしたのは会津藩の戦果だった
    「お由良騒動」(久光派は黒、斉彬派は白)も全く事実は逆だった事実
    「ええじゃないか」騒動も西郷の高森の陰謀説に疑問
    「坂本龍馬・伊東甲子太郎暗殺」にも薩摩藩が暗躍していた
    「長州の桂小五郎」狡猾な男、尊王を唱えながら政権獲得を狙った
    「錦旗」は大久保利通の偽物作
ー超名人の名訓
    大鳥圭介総督「自分はこれまで戦場に出た事なければ、身体の事未熟でありその大任を荷ふ事能わず」
    長州藩品川弥二郎「黒田清隆や山県有朋が河井に会わないで、岩村のような小僧を出したのが、大きな誤算であった」
    ナポレオン「敵の大群を打ち破るには、敵兵力を分散し、素早い攻撃で撃破すれば良い」
    英国参謀長アラン・ブルーク元帥「ウスノロは何度戦ってもウスノロである」


「推絵本」で一気に広がる江戸時代『和本への招待』

2024-04-05 07:39:07 | 歴史から学ぶ
江戸時代の江戸には、意外に多くの読書人がいたことが分かる。当時の貸本屋の読者数は約10万人にも上っていた、と言う。また、尾張藩主や豊後・佐伯藩主など、高額で多くの書籍を読まれていた有力者もいた。
特に印象的なのは、平安時代の絵巻物を題材にした黄表紙「堪忍袋緒〆善玉」や、吉原のガイドブック「吉原細見」、洒落本「大磯風俗 仕掛文庫」など、挿絵本が流行したことです。当時の文字認識率が低かった人々でも、挿絵本を購入して楽しむことができたため、これらの本の流通量が大きく増加したと考えられます。
『和本への招待』橋口侯之介
「概要」平安時代の『源氏物語』から、蔦屋重三郎が手がけた黄表紙をはじめとする草双紙、山東京伝の洒落本、歌麿や北斎の挿絵入り絵本。1300年以上の歴史を持つ和本は、日本人の知恵と美意識の結晶である。結び綴とも呼ばれる、組紐を使った大和綴。高度な製本技術を必要とし、数葉ずつ重ねて糸で縫う列帖装など、手にとって愉しめる伝統文化を、神田神保町の老舗・誠心堂書店の店主が丁寧に解説。豊饒な書物の歴史を解き明かす。
ー「和本」奈良時代から明治初期
    巻子(巻物)・折本(折り畳んだ)・粘葉装(糊付け冊子)・列帖装(重ね糸で括る)・大和綴(組紐と括る)・袋綴(表紙を付けて糸で括る)・写本(手書きに書物)・版本(活字か木板に印刷)・板木(文字や絵を彫った板)・古活字版
ー「物の怪」怨念・悪霊などの物語(平安時代からの物語)
    漢字は真名と言い男文字、仮名は女文字とされた(源氏物語・紫式部日記など)一話完結の構成で、現代の54巻長編ではなかった
    平安時代は写本が重傷櫃に入れられ神社などで保存された
江戸時代の嫁入り本が「源氏物語」で嫁入り道具に黒棚とお厨子とともに入れた
ー朝鮮では高麗時代から印刷が行われ「大蔵経」、14世紀には銅活字印刷が導入された
ー日本は中世より木版印刷で1593年以降から活字印刷へと変わる、明治から活版印刷
    ヨーロッパの26文字は数千を超える文字では活字印刷は向かなかった
書籍目録が1658年~あり刊行物は約6千点で「仏書」が多かったとある、本屋は京都が多く1716年には2百軒あったとされ大阪、東京へと増える。その後本屋巻での株仲間が増えた。株仲間の目的は重板、類板を摘発。(処罰:家財欠所、十里四方追放、課料鳥目20貫文など)
ー書籍の売り方は店に並べるほかに新本を持ち歩き貸し出す気に入ってもらえば購入して貰う、さらに目録を見せて外売り、貸本屋(江戸で656軒=10万人の顧客数)での販売など
ー大口顧客は尾張藩(8代藩主徳川宗勝と宗睦)と豊後・佐伯藩(藩主毛利高標)60~260両
ー奉行所が本の製本申請をもとに許可した(草稿と手数料を払う)年間目録465点、江戸時代の草紙屋は演劇と本の連携から始まった、その後歌舞伎の人気となる。蔦屋重三郎(本屋から様々な黄表紙、洒落本、吉原細見などを出版、演劇などにも結びつけた)


戦争は大国の意図とマスメディアの誘導が発端

2024-03-31 12:51:01 | 歴史から学ぶ
戦争に対する日本の歴史的姿勢は、経済にまつわる自主防衛と経済政策的介入であり、大国の領土侵略による奴隷的、独断的かつ独裁的な観点はあまり受けない。所謂、大国の意図により誘導され、さらにマスメディアに煽られ戦争に突入したと言う事実だ。現代、日本は米国駐留軍に対する負担費用もさることながら防衛軍事兵器および備品等の負担は莫大であり、決してそれはいざという時に米国軍隊が日本を守るためではなく自国米国本土を守るための防衛ライン(塀)であることを意識しておかなければならない。ウクライナ戦争、ガザーイスラエル戦争を見ても戦争は武力で打ち勝つ「軍力」に頼よわざるを得ないのかと、寂しい気持ちになる。但し史実からも言えることは大国は自国有利なシナリオしか考えなていないことを肝に銘じておくことだ。
『日本人と戦争』武光誠
「概要」歴史に刻まれた対外戦争の「なぜ?」を見つめ直す本。日本史上の対外戦争がなぜ起こり、その時日本人はどう行動したかを検証する。
ー日本の対外的戦争は歴史上主なものは7つ
    白村江の戦い(7世紀・BC 663年))
    文禄・慶長の役(16世紀・1592~1598年)
    日清戦争(1894~1895年)
    日露戦争(1904~1905年)
    第一次世界大戦(1914~1918年)
    シベリア出兵(1918~1922年)
    日中戦争(1937~1941年)
    太平洋戦争(1941~1945年)
ー日本人が思う戦争・回避
    民族戦争への介入(白村江の戦い)
    日本人以外を敵と見なす(外敵・元寇との戦い)
    先進文化を求める戦い(平清盛の入宋貿易
    平和を求め「鎖国」へ(諸外国人の入国を拒否)
ー外交接近
    中国人の王直による鉄砲を売り込み(1543年種子島への偽装来航)
    織田信長によるポルトガル・スペインとの南蛮貿易(鉄砲の導入・キリシタンへの黙示)
    豊臣秀吉による朝鮮出兵(「倭寇」出現・海賊密貿易)異国での恩賞への欲)
    徳川家康によるキリシタン脅威と海禁策(日本人街をルソン、ベトナム等に構築・貿易)
        「鎖国」の目的は国内の平和(外国人との紛争となる貿易を一手に握る)
    攘夷論から帝国主義へ(近代化への転換・新政府の欧米諸国の軍事力整備)
    ・吉田松陰の言葉
    「列強との交易で失った損害を、朝鮮や満州で補うべきである」
    ・福澤諭吉の言葉(脱亜論)
    「日本はアジアにあるが、その国民の精神はすでに西洋文明に移っている。だから、日本人は古い体制の中国や朝鮮王国を自分の朋友として扱わずに、西洋人と同じような形で彼らに接するべきだ」
ー日清・日露戦争
    朝鮮王国の清国出兵要請から日本は反乱鎮圧のために出兵(清国支配を止めること)
    大差のある軍力でも日本政界は戦争を勃発(日本vsロシア 兵力は2倍ロシア艦隊2倍)
    日英同盟でロシアの反発を招き(英国・米国から公債で戦費を調達)=多額の借金
        楽に出世が見込める軍部や官界を目指す若者が増え科学技術低迷を招く
        無謀な戦争を開始したのは政府と報道機関が軍部を称賛したこと
    大正モダニズムによりより良い生活を求めた政界・官僚・軍部・マスコミ(中流階級)
    経済成長を目論みシベリア・満州大陸侵略は米国を刺激させ中国・米国を誘発させた
ー世界大戦へ誘導
    ワシントン会議で日本が振りな条件(軍事力の低減・領土返還)となる
    米国の仮想帝国が満州国を固執する日本に絞られ英国・ロシアとも協調する    
    米国等の制裁により日本は国際連盟脱退、日中戦争へ(報道機関の軍部への賞賛)
ー米国の同盟国・戦後処理・対戦争
    戦争に大敗しアメリカの同盟国になる(憲法第九条・戦争放棄)
    1954年米国の駐留軍による自衛隊を組織、駐留費など防衛軍備・軍拡を開始
    自衛隊には「国防作戦計画」など戦時動員計画等も一切無い(有事への行動策皆無)
    防衛議論はほぼ皆無な状態で防衛費が増大(米国駐留軍事費補填費)


日本の神社の「神」の不思議さ『神社で読み解く日本史の謎』

2024-03-30 07:43:11 | 歴史から学ぶ
@日本には多くの神社が存在し、その歴史的由緒背景を読むととても奥深いものを感じ、日本文化を保持継承していることは素晴らしい遺産であり誇りと言える。史上では神社分離、取り潰し、併合など多くの災難にも遭っているが、特に天皇家皇族の神話など戦国時代、太平洋戦争などで燃え尽き現存しない神社仏閣、史跡なども多くの「神」に対する啓蒙が現在でも祭り事などで継承していることに興味深い。    徳川時代の日光参拝に多額の費用、多くの人足と参拝者があったのことに驚愕する。
日光東照宮の造営は1年5ヶ月、のべ650万人、総工費2千億円
日光参拝19回(@譜代旗本のみ参加13万3千人、人足22万8千人、馬32万6千匹)
午前6時に親衛隊出立、将軍午前10時、先鋒から最尾まで10時間を要した参列
参拝日程は4日間、古河城、宇都宮城に宿泊、費用は20万両(140億円)
『神社で読み解く日本史の謎』河合敦
「概要」神社からしか知りえない“真実の歴史”がある! 神社は、日本史を動かす大きな役割を果たしてきた。それゆえに、神社に注目することでしか解き明かすことのできない「日本史の謎」がある。全国の有名神社に注目しつつ、日本史の謎を解明。ミステリー小説を読むような感覚で歴史を楽しめる贅沢な1冊である。
・伊勢神宮(三重)
    天皇家の皇祖神天照大神皇祖を祀る社殿(社殿は茅葺き屋根の素木の堀立柱形式の建物)
    20年に一度の式年遷宮(天武天皇の考案で持統天皇以降の行事)
    3つの神器(第11代垂仁天皇の皇女倭姫命による社を立てた)
    内宮は天照大神、外宮は豊受大神、皇室のご参拝は明治時代から    
    伊勢参り(農閑期:1月から2月で30~35日間の旅、年平均50~60万人参拝者)
    参拝者数は文政13年には約5百万人(六人に一人の割合)
・宇佐八幡宮(大分)
    全国4万以上ある八幡宮総本宮、応神天皇の神霊(571年創建)
・熱田神宮(愛知)
    日本武尊が持っていた三種の神器天叢雲剣が御神体(武尊は伊勢国で祟りで亡くなる)
    戦国武将織田信長が桶狭間の戦いの前に祈った(戦いには宮司なども武将として活躍)
・愛宕神社(京都)
    明智光秀によるクジで決断したという謀反
・神田明神(東京・神田)
    朝廷に反乱を起こした平将門が有名、徳川家康も江戸総鎮守として祀った
    将門の首は最後には大手町の首塚(将門塚)に埋葬、祟りを恐れ現存する
    1984年に再び将門を祀り髪として戻した(神田明神から神田神社と改名)
    日本の3第祭り神田祭、祇園祭、天満祭がある    
・明治神宮(東京)
    明治天皇を祀った神社・外苑、墓所は京都の桃山、造営は渋沢栄一らの提言
    日清にしろ、富国強兵に成功で国民の精神的支柱(明治天皇糖尿病59歳没)
    ホットスポットは「清正井」(東京ドームの15個分・出陣学徒行進など10万人)
    外苑の銀杏の通りは146本、樹齢は百年以上、高さ28m(青山近くは7m高い)
・出雲大社(鳥取)
    縁結びの神様、天皇家との縁、本殿の高さは24m(3本の直径1.2mの柱)
・鶴岡八幡宮(鎌倉)
    源頼義(石清水八幡宮)から由比ヶ浜へ、源頼朝が現在の鎌倉に移転
    平氏追討祈願(義経の妻静御前の舞ともと上皇の親衛隊西行法師の語らい)
    流鏑馬、相撲など祭りを啓蒙
    3代将軍実朝が暗殺は雪の降る拝賀の時期(犯人は前将軍の遺児公暁)
・日光東照宮(栃木)
    家康の命日4月17日霊廟、権現(天界の提案)、守護したのは武田、北条の元武士
・伏見稲荷大社(京都)
    石塚が築かれ明治に630基が戦後には4440基となる
    千本鳥居で脚光(小さい鳥居で17万5千円、最大の10号だと130万2千円)
    稲荷は渡来人による創建で元々「伊奈利」で「稲が生った」のが語源
・北野天満宮(京都)
    太宰府天満宮(福岡)、湯島天神(東京)ともに菅原道真の祭り神(全国1万2千社)
    学問の神菅原家、菅原道真は右大臣となるが藤原時平にまけ左遷、2年後に没
    道真の怨念が皇族を呪い朝廷が天満宮を創建、秀吉等での茶会などで盛んになる
・諏訪大社(長野)
    諏訪一族、上社本宮(夫)と妻、下社、現人神(御柱祭:もみの木を立てる儀式)
    戦国時代の諏訪一族は滅亡(武田信玄により守られた)
・熊野三山(和歌山)
    平安時代後期・造営熊野本宮・那智大社・速玉大社(白河法皇)
    後白河上皇による三十三間堂
・厳島神社(宮島)
    推古天皇により創建、平家一門の尊崇、その後豊臣秀吉(武運祈願)
    平清盛(藤原氏一門とのコンプレックスvs春日大社、興福寺)清盛は天皇の子孫
    回廊の床板釘を利用していないで隙間は高波などを低減する役割
・靖国神社(東京)
    1869年に国に殉じた人々を祀る神社として設置
    戊辰戦争、西南戦争、日清・日露戦争などの戦死者を祀る神社(明治時代で7751名)
    満州事変、日中戦争、太平洋戦争の戦死者「英霊」として246万6千名
    昭和51年にA級戦犯も合祀されたことで諸外国から注目されるようになる


明治文豪の生活ぶり『二葉亭四迷の明治41年』

2024-03-12 07:42:37 | 歴史から学ぶ
二葉亭四迷が生きたこの時代、やはり「士族」上がりで一人っ子の優遇が多かったのか仕事も飽きっぽく、多情で野暮な性格は職を転々し、引っ越しも20回以上、浪費家で変わり者と言われた、だが、唯一「浮雲」は自分と正反対の「正直」(内海文三は融通の利かない男・プライドが高い)を表現しようとしていたとあるのは頷ける。二葉亭四迷の浪費について、現代の金銭的感覚で言うと1ケ月に約350万円程を使い、贅沢三昧の生活ぶりだった。二葉亭は「文学は男子一生の業にあらず」と言っていたという。
『二葉亭四迷の明治41年』関川夏央
「概要」明治後期、社会は既にほぼ現代と同じ構造を整えていた。では、明治にあって現在にないものとは?日本人が失った「志」を探る論考
ー生涯履歴(二葉亭四迷別名長谷川辰之助)
1864年 - 2月28日、江戸市ヶ谷に生れる
1881年 - 5月、東京外国語学校(現東京外国語大学)に入学。(露・清・韓国語)
1985年 - 9月、東京外国語学校が東京商業学校に合併。改めてその露語科第五年に転じる[9]。
1886年 - 1月、東京商業学校(現一橋大学)第三部露語科を中退。坪内逍遥を訪ねる。4月、「小説総論」を発表。
1887年 - 6月、『浮雲』第一篇を刊行
1908年 - 6月、ロシアのペテルブルクへ派遣される。
1909年 - 3月、肺炎、肺結核のため入院。4月に出国。5月10日、ベンガル湾上で客死。享年46。
二葉亭四迷の性格
相談相手は坪内逍遥、就職、金銭、結婚、母親、悩みなど切羽詰まった悩みで決断力の無さ表す
飽きっぽい性格から仕事も転々とし、住居の引っ越しも多く、記事、小説も中途半端が多かった
女性関係でも若い売春宿女が妻(18歳)となり子供ができた後に婚姻届け、6年の結婚生活で2人の子供と短くその間別居生活で離婚も引き延ばし、友人の妹と同棲生活(愛憎の激しさ)
金銭的には浪費家で金次第で仕事選び、金があれば使い果たし、借金を先輩に願う始末
仕事の記事(朝日新聞時代には2点の記事のみ)も小説も中途半端で書きかけて捨てる
ー文豪人との出会い
田山花袋、樋口一葉、夏目漱石は朝日新聞社時代の同朋、長年の友人川上眉山(後に自殺)、独歩国木田哲夫(37歳結核で死亡)、独歩の死のあと4年で石川啄木(結核と栄養不良で死亡)


無駄のない人生「与謝野晶子』

2024-03-01 07:34:17 | 歴史から学ぶ
昔の女性、母は強し、といっても過言ではない与謝野晶子の生涯。小説家でもあり、評論家でもある晶子は生涯に13人の子(2人は死亡・3人を養女に出す)を産んだ母になり、家庭に、子育てに、教育に、そして仕事に燃えた「肝っ玉」女性だ。近代社会にも通じた考え方(女性の仕事、教育)や新しいことへの情熱(科学技術)など現代では考えられない力強い、そして逞しい母親像が見える。現代、一人っ子でも大変な時代なのに11人もの子供を養育し、仕事を抱える毎日は気の狂いそうな人生だったに違いないが、その合間に詩集、評論、童話などへ時間を割き活躍した人生に感服する。人は暇な時間があることは逆に真っ当で充実した人生を送っていないことになるのかとさえ思った。
『与謝野晶子』松村由里子
『概要』「情熱の歌人」と呼ばれる与謝野晶子は、短歌だけでなく、詩、社会評論、童話・童謡など、さまざまな分野で多くの仕事を成し遂げた。しかしその活躍が多岐にわたるがゆえに、「君死にたまふことなかれ」や「母性保護論争」など限られた側面しか知られていない。本書では、晶子の幅広い業績をたどるとともに、教育や労働について鋭く論評し、たくさんの子を産み育てた「ワーキングマザー」でもあった、ひとりの等身大の女性像を描きだす。
与謝野晶子の作品
歌集は24冊、評論やエッセイ15冊、童話100篇、詩や童話600篇、その他小説や歌論集
「源氏物語」の現代翻訳など
晶子の生涯
1878年12月7日大阪和菓子店の三女として誕生、1900年新詩社に入社、1901年「みだれ髪」など出版、結婚。1904年から評論家として活躍、1911年夫婦で5ヶ月の欧州旅、帰国後「母性保護論争」、1913年「源氏物語」翻訳、夫寛1935年62歳で他界(晶子56歳)、1942年5月29日63歳で没。
ー興味ある分野
科学技術など米国の飛行士(女史)を讃頌、常に向学心旺盛で女性労働・子供の教育などにも興味を示し評価、女性でも理知と感情と推しの3つが平均を得て協力することを訴える。「何事でもできる素質を男子と同じように所有していることが必要」
出産・育児・子供
1916年珍しい全身麻酔を受け分娩した経験者、1902年から13人(1人は死産ともう一人は生後2日目で死亡)の子供を産んだ母親、家庭の生活事情から3人を里子に出している
ー評論
「母性保護論争」(良妻賢母)で町人の娘晶子と士族の娘らいてうの熾烈な論争となる
晶子の男女共同参画社会(男女が同じ様に働き個々の生活を支える)新しい社会象を描いた
ワークバンランスにおいても「女性のアンペイドワーク」を支持し労働だと主張する
ー童話作家
子供の為にかいた童話、主に御伽話は読み語り聞かせる物語が主だった
オノマトべやリフレインも多く、色彩感覚を豊富に入れたことで子供が思い描ける様にした
処女作「みだれ髪」
髪は神を主に、聖書への親しみを多く取り入れ、クリシャン的主教思想より芸術を重視
5月の節句は侍の習慣、七五三も江戸時代からの商人の習慣として行わずクリスマスを重視
ー気になった詩集
朝を細木雨に小鼓おほひゆくだんだら染めの袖ながき君
いはず聞かずただうなづきて別れけりその日は六日二人と一人
かぐや姫二尺の桜ちらん日は竹の中より現れて来よ
狂ひの子われに焰の翅かろく百三十里つかのまにこし
小指をば空にあてたる跡のごとまばらに星の見えて風吹く


元藩主の物見遊山:1日16km、6時間、2万歩『大名の定年後』

2024-02-28 07:39:02 | 歴史から学ぶ
@江戸時代の武士も含めて江戸は庶民の楽園であり特に開帳、祭り、歌舞伎、相撲など見物、食べ、買い物、神仏参り、病の祈願や願掛けが盛んで、「夜桜を見に行く」隠語(吉原に行く)遊楽の吉原にも側室、息子などと共に楽しんだ、とある。この書にある元藩主の江戸周りの頻繁に外出する物見遊山の回数と優雅に1日に歩く距離(平均1日@16km、6時間、2万歩)には驚愕する。「定年後の物見遊山は、経済活動を優先する社会から、遊びを生きがいとする、ゆとりの社会に変える手始めとなるに違いない」と著者の言葉。挿絵も多く掲載したこの本は当時の江戸を楽しましくれる。個人的にもこの書にあるもの含めた都内の神社仏閣(200ヶ所以上)を見学した。中でもお勧めは、寅さんで有名な柴又帝釈天の裏にある彫刻ギャラリー&庭、多くの芸術的彫刻には印象深く感銘した。
『大名の定年後』青木宏一郎
「概要」江戸時代。50歳で隠居したのち、江戸中を訪ね歩いた大名がいた。五代将軍綱吉のお側用人・柳沢吉保の孫、信鴻(のぶとき)だ。彼が物見遊山で訪れた範囲は、日本橋・浅草周辺はもちろんのこと、王子、向島、目黒方面と、日に何十キロと徒歩で歩いては、身分によらずそこに暮らす人々と交流し、ありのままの江戸を日記に書き残していた。活気に満ちた江戸の描写溢れる信鴻の『宴遊日記』を元に、その軌跡を追う!
大和国郡山藩元藩主柳沢信鴻(のぶとき)49歳で六義園にて隠居し、江戸市中を800日以上の物見遊山した記録を元にした書籍(1773~1784年) この時期は天明の大飢餓、流行病、洪水、浅間山噴火などがあった時代。庶民は寺の開帳、見世物、富籤、祭り、相撲、花見などで楽しんだ「江戸名所図会」にある浅草、吉原、上野、湯島、両国、亀戸、飛鳥山、護国寺、鬼子母神、芝居町などである。浅草には12年間で243回、湯島は124回、など両国、回向院など貧藩に出向いている。例として1日歩く距離は16km、6時間をかけ、2万歩以上かけている。多い時には六義園から目黒不動尊まで28kmを往復しており、日本橋から50kmとなる場所では1泊し共はおよそ10人程度だった、とある。
ー人形町にある歌舞伎には朝4時に起きて9時には入場、演劇が終わる午後8時まで、それから湯島等を回り帰宅は11時前後だったとある。
江戸時代の交通ルール
上りの旅をする者は左側を、下の旅をする者は右側をあると言う秩序が成り立っていた。かなり混雑しているところでもトラブルは無く諸侯などは群れを成して歩くのが好きだったようだ。雨天や雪解け後には下駄を履いており、草履は換えを持参し持ち歩いた。
ー街並み
浅草は飛鳥時代628年に漁師の兄弟が仏像を拾ったことでそれを祀ったのが浅草寺である。645年に勝海上人が観音堂を修造したのが始まりとされている。20軒茶屋(雷門から仁王門)があり茶屋には評判の美人が揃っており人気があった。金龍山浅草寺は1635年に再建されたが1945年まで300年存続した、本堂は1958年に再建されたもの。「ほおずき市、節分会、歳の市、馬市、蓑市、三社祭など縁日も多く千件以上の出店があったという。
「夜桜を見に行く」とは
吉原に行くと言う隠語で遊郭ばかりでは無く一般の庶民も多く見物に出かけており、信鴻(のぶとき)も側室、息子など5人のお供を伴って堂々と吉原に出かけたとある。
ー江戸時代の天気言葉(表現豊かな言葉)
「晴れ」には大快晴・快晴・大霽(爽やか)・蒼天・大晴・など
「曇り」には曇り・雲あり・大曇り・一面陰雲満・有雲・鰯雲・など多い
「雨」は雨・小雨・猛雨・時雨・村雨・五月雨・繊雨など多い
ー著名な場所(人気だった場所一覧)
両国広小路・回向院・亀戸天神・富岡八幡宮 など相撲や歌舞伎、遊郭のスターも「江戸三幅対」の錦絵などで人気を博していた。(歌舞伎:市川團十郎、遊郭:扇屋花扇)
上野山内・上野山下・不忍池・池之端・広徳寺・谷中・根津神社・湯島天神・神田明神・人形町・護国寺・鬼子母神・飛鳥山・王子稲荷社・増上寺・目黒祐天寺
「富籤」は江戸では3ヶ所:谷中の感応寺、目黒の龍泉寺、湯島天神で景品の一等は厨子に入った弁天像、その他は家具だったという。
「七五三」は幼児の頭髪を剃る事を止め、初めての袴を着せる儀式であった
「歌舞伎」は3つ小屋があり市村座・中村座・森田座、朝9時から午後8時まで(人形町あたり)
「凧」は子供も大人も凧揚げを楽しむ(互いの糸を斬り合う遊び)
庶民に栄えた芸術文化:浮世絵・歌舞伎・川柳・黄表紙・洒落本
上野山内での花見は盛況で夜桜見学も盛んになったがどんちゃん騒ぎは禁止
町々を仕切っていた木戸は6つ(午前6時)に開き、4つ(午後10時)に閉められた


「ふやけ切った」組織に奮闘

2024-02-20 07:44:00 | 歴史から学ぶ
世の苦しみを知らず貪り食う幕府、宮内を転覆させようと二人の元武士が首魁となり掻き乱す一揆を起こす、一方はその阻止する軍団となる。先陣を司る無頼の人材を先見し、育て数万人の百姓らの不満と苦言を一揆にぶつけ戦う。結局、武力に勝る侍軍団には刃が立たないがその動機付けと行動には感服する。今の日本の国民には酷い税金を取り立て自分たちには裏金等を仕組み、金と権力を持つ腐った政治家を見るのは正に室町幕府末期の武士と宮中人に映るのは「いざという時に尻込みし、性根がふやけ切っている」に似ている。
『室町無頼』垣根涼介
「概要」腐りきった世を変えてやる。前代未聞のたくらみを一本の六尺棒で。超絶クールな大傑作エンタテインメント。応仁の乱前夜、富める者の勝手し放題でかつてなく飢える者に溢れ返った京の都。ならず者の頭目ながら骨皮道賢は権力側に食い込んで市中警護役を任され、浮浪の徒・蓮田兵衛は、ひとり生き残った用心棒を兵法者に仕立てようとし、近江の古老に預けた。兵衛は飢民を糾合し、日本史に悪名を刻む企てを画策していた……。史実に基づく歴史巨篇。
世に苦しむ百姓たちを喚起させようと一揆を首魁しようと企てる。5年後の応仁の乱に繋がる室町幕府の末期である。
腐り切った室町幕府、それは自分と身内を食わせるためにしか存在していない。また、税を搾り取られるものことなどお構いなし、と言う状況になった。
ー三代将軍の足利義満以来、日明貿易で銭貨を大量に輸入し、続けたことで富裕層は明銭を蓄え始めた。だが、大量の流民が常に飢え死にしていた。一方、支柱には過度の飽食で大太りも増えた。元武士の主家でも家を亡くし浪人となリ果てていた。市中の治安は乱れ悪党どもが盗賊などを繰り返す羽目となっていた。
ー元武士の兵衞と大人になりきれていない才蔵(厳しい修行の末、誰にも負けずの6尺棒の勝負師となった「吹き流し才蔵」は世の中を混乱させ、今の幕府を交代させるべく立ちあがろうとしていた。
「皆、何かを売って生きている。物や芸事、自らの労を売って生きている。じゃが、遊女は体だけを売っているのではない、体と一緒に、大事な何もかも売り渡している」
「自らが選んだ人生。。。言い訳が利かない」
「多くの人の不幸の一つは、今はわからぬ事にまで、ろくに考えもせずすぐに白黒をつけたがる事にある」
「謙虚であれ、未熟な自分を受け入れ、人を盲従する事なく、信じよ」
「使わぬ金など、鉄と同じじゃ」
「人はのう、何を言われたかではなく、どのように人が語ったかによって動く。信をおいていない者の言う事には、誰も耳を傾けず」(信用を得るには)
「一見いくら銭貸の世界で幅を利かしているように見えても、所詮はこの世の既存の仕組みの中で息をついている人間に過ぎない」
この時ほど、生まれ落ちた時から安逸な生活に慣れ切っている侍どもの、いざという時のおめでたさ加減を思いしらされた事はない。その性根がふやけ切っている」


危機の時に頼れるのが信頼ある人脈『黄金の糸』

2024-02-19 07:45:16 | 歴史から学ぶ
人脈の大切さ
武田信玄の強さの一つが産出した豊富な金(甲州金・軍資金)であった。その甲州金を江戸に送る役目から一人の甲府勤番が活躍
する。幕末から明治維新への変革時の徳川幕府崩壊で送り主を失い、地元甲府に還元しようと信頼できる人脈を辿り養蚕業と製糸工場などに投資、地元産業発展に役立てたとある。時代の変革期に事業・産業発展の成功に導いたのが信頼された人脈と紹介であったのは間違いなく、現代でも同じだ、特に時代の変わり目には。人間社会は何事も、特にビジネスなどは人柄による信頼・信用から成り立っていることを痛感する。
『黄金の糸』渡辺房男
『概要』甲州の隠し金で大逆転を狙え! 甲府、江戸、横浜、富岡製糸場……。信玄ゆかりの金貨争奪戦の行方は!? 最後の甲州金、お前らには絶対に渡さぬ! 幕末、甲府勤番士の幕臣・高木東助は、城に眠る数千両の甲州金を、攻め寄せる官軍から守りぬくため、秘密裏に江戸の両替屋へと運び込む。しかし、次々と金を狙う刺客が現れ東助たちに襲いかかる。幕府再興を期して忍従の日々を送るが……時代に翻弄された男が戦いの果てに見出した人生の活路とは!? 「莫大な甲州金を手にした主人公がどのように幕末・維新を乗り超えたのか、彼とともに時空を超えて歩み続けて戴けたなら、著者として望外の喜びである。」
ー数千両の甲州金の江戸への輸送を命じられた東助は、幕末での時代の変化で大金を狙った新政府軍など必死に守り抜いた。元々徳川への援助金として守り抜いたが、幕府側の全滅で当初の目的がなくなり、さらに新政府の新貨幣への変更などで使い道に迷った。
ー新政府は新貨幣製造で金を探しており、その中心人物薩摩五代へのパイプができたことで両替を試みる。投資は故郷への還元する事に決心し、生糸を作る繭を甲府で起こす事にする。やがて人脈を通してフランスへの輸出で一攫千金を果たしたが、フランスの仏普戦争で中断、国内の富岡製糸場など新たな展開で甲州にも工場を作り産業発展させた。


政治界のやるべき行政改革『武器としての中国思想』

2024-02-08 12:08:24 | 歴史から学ぶ
@思想と行革 中国の変化は老子、孔子、孟子、朱子などからの「中国思想」で現実「個」へと変化している。 中国の戦国時代から現代までを思想家から読み取れる書だ。現社会において「人間性と才能は比例する」ように今後個性を重視した社会がどこまで国家建設・経済発展できるのか、新たな思想を掲げる時代になると感じる。そこには独裁的な思想がないことを望みたい。注目したのは、孟子の言葉・「政治家のやることは国民に対して金品のばらまき支給ではなく、生産手段を提供し、資産運用を可能に恒久的に自活できる原理を提供すること」と言う提言だ。所謂、産業改革(法・規制緩和など)により国民が新たに生産性を上げ、収益を得れる仕事を増やす事だと言うことだ。
武器としての「中国思想」
大場一央2024年1月
「概要」人生で大事なことは(だいたい)中国思想でわかる。なぜ「無敵の人」が増え続けるのか。なぜ官僚は叩かれるのか。なぜ日本人は独創性がないと言われるのか。なぜ日本人は勤勉なのか。なぜ人間性と能力は比例するのか。なぜ未来は明るいのか。孔子、孟子、旧法党と新法党、朱子学、陽明学、王道と覇道、老荘、墨子、韓非子……気鋭の中国思想研究者が代表的な儒学者たちの人生から読み解く。中国思想(儒教)がさまざまに議論し、そして日本に入り込んできた価値観を知ることは、身の回りや自分自身の問題を考える上で、西洋哲学とはまた違った生々しさを以て役立つ。中国思想を代表する儒学者たちの人生や性格を紹介することで、より人間くさい問題意識があったことがわかる教養書であり、生きていく指針としても使える書。
第1章 なぜ「無敵の人」が増えるのか――春秋戦国時代と諸子百家
・覇道と功利 
斎:「諸子百家」力による支配だけではなく価値ある思想を集めた学者の集まり。管仲(丞相)の製塩事業・魚鉱業の工業化、農地改革等から商業を盛んにすると人や物が動き税収が増え軍事力も強化できた。さらに晏嬰により経済力を巨大化させる
<>功利が行き過ぎると個人的な利益追求が始まり、対立争いとなる・結果克服しない格差と弱肉強食社会が生まれる
・「老荘思想」老子の「無意自然」から弟子の荘子の「万物斎同」により現実逃避となる「自尊心尊重思想」へ、墨子による「兼愛」により侵略否定、身分制度否定、消費生活からの脱却を説く
・荀子による「性悪説」(規範・制度・法律など礼を重んじつ政策)公正な分配を実行
韓非子(荀子の弟子)によって法の下の平等を実現させる
秦:始皇帝は韓非子思想を重視約500年に及ぶ春秋戦国時代から天下統一を果たす。その前身は商鞅は「県」への再編、官僚直接任命し人工把握、連帯責任での処罰など例と法令を遵守。
関中平原に都を移し農業・工業に力量、兵役を課し軍事強化、軍功のあったものに爵位を与え、血統による身分制を廃止「商鞅変法」に着手、産業信仰で農業、人口、武器などを統制した。その後「万里の長城」「阿房宮」などを建造、始皇帝陵、兵馬俑など秦帝国を維持した。貴族たちを分散させ「律令体制」となる。「科挙」の登用制度で筆記試験となりより明確公正になる。
孟子:「人間は安定した収入がなければ人のことを思いやる道徳心など持てないのです」と言う所得倍増計画をたて国民に現物支給するのではなく、生産手段を提供した。「明富」こそが国力であり、税収の多さ、すなわち「国富」は国力ではないと説いた。(徳川家康は孟子を愛読)
・司馬光:「北宋五子」「万物一体」「陰陽説」「五行説」への展開となる
朱熹:「朱子学」人間の生き方を追求、中国思想の集大成へとなる。資産の運用「社倉法」困窮した民に対するばらまきではなく、村単位による資産運用を恒久的に自活できる原理を提唱
日本では保科正行(会津藩での年金制度)、松平定信(町会費倹約令による「七分積金」)
朱子学での知性と倫理により「人間性と能力は比例する」「個」が確立された。 陽明学の「知行合一」(知覚と行為は一致している)による判断力を養う、心を限りなくりに接近させる朱子学と心から理を創造して行く陽明学とから思想は「人生の主導権を握る」行為へと動く。        


利益追求型の岩崎弥太郎の見る所『岩崎弥太郎三菱の企業論』

2023-12-31 13:39:23 | 歴史から学ぶ
岩崎弥太郎(三菱:専制独占主義)vs渋沢栄一(資本主義)の背景には小栗忠順、坂本龍馬等の資本企業の原型に類似していた、とある。小栗の兵庫商社・横須賀製鉄所、坂本の海援隊である。さらに本書では学歴主義を産んだとある福澤諭吉、丸善、清水建設等の前身(創始者)など日本の企業の歴史を学ぶことができる。特に「資本の論理と倫理」で両者を比較しているが現代は岩崎弥太郎型、利益追求型の企業が多く、政治家でさえ国・国家より自己主義・保守主義優先となっているのが現状だ。となると日本はやがて反転する可能性もあると言うことかもしれない。
岩崎弥太郎の言葉「人間は一生のうち、必ず一度は千載一遇の好機に遭遇するものである。しかし凡人はこれを捕へずして逸してしまう。これを補足するには、透徹明敏の見識と、周密なる注意と、豪邁なる胆力が必要である」
『岩崎弥太郎三菱の企業論』中野明
「概要」ニッポンの株式会社の原点は明治初期に溯(さかのぼ)る。志半ばにして倒れた幕臣・小栗忠順や海援隊・龍馬の企図を引き継いだ「三菱」岩崎弥太郎。後に財閥を成した弥太郎の徹底した利益主義と独占主義は「専制」と呼ばれ、同時期に「分配」を主張してバランスある事業の発展を主張した渋沢栄一と鋭く対立する。今日の「行き過ぎた資本主義」の「論理と倫理」は、「会社」誕生時から生じていた。
ーイギリスの株式ブームは17世紀(イギリス東インド会社は1600年)
    沈没船引き上げや潜水器具会社など
ー日本での最古の株式会社なるものを形成した人物
徳川家康の家臣小栗忠政の子忠順(ただまさ)の外国奉行での日米為替交渉で頭角を表す
    横須賀製鉄所など建造、「日仏組合商法」「兵庫商社」
    鴻池屋、加島屋、越後屋などの商人に100万両出資させ金札を発行
坂本龍馬とその弟子
    河田小龍(土佐藩万次郎の世話役)から勝海舟との出会いで西洋知識と仕組みを勉学
    亀山社中での弟子陸奥宗光(のちの外務大臣)の金銭政策(海援隊)
ー岩崎弥太郎(三菱グループ創始者)
    海援隊の思想を受け継いだ経営理念、だたし海援隊は共和分配主義vs弥太郎先生独占主義
    弥太郎は地下浪人で頑固者、だが学才。東洋・後藤象二郎との出会いから頭角を表す
    公金を100両使い込み職務放棄、村に出戻り。
    土佐藩後藤象二郎の18万両の借金を背負いこみ海援隊と組む、土佐貿易を担当
    ジョン万次郎通訳で土佐商会をベルギー・イギリスとの貿易で収益を得る
    芸妓を上手く使い中央(大久保・大隈等)との接点を得て財閥を築いていく
ー渋沢栄一
    パリへの視察で徳川昭武に同行、渋沢28歳、フランスの近代化を日本位伝承する
    一橋家家臣平岡円四郎との接点から家臣となり米、木綿で収益を上げ一橋家に貢献
    パリでの教訓:パリ万博・下水道・電気・ガス・企業組織(資金を集め収益を分配)
    日本で合本組織(株式)を立ち上げる(ヒントはスエズ運河建設)
    四民平等(軍人と商人とが平等であるフランス社会に驚愕)
    商法会所を設立、静岡藩に70万両を貸付(兌換紙幣:太政官札)
    資本主義社会のルール作り「国立銀行条例」などを発刊、会社を次々と創設
ー新政府は「為替会社」(三井組・小野組・島田組で構成)貿易管理会社
        証券制度・重役制度・株式責任範囲を基礎とする株式会社
ー丸善の前身、丸屋商社(岐阜の医師が開業、明治元年)
ー清水建設の前身、築地ホテル (小栗との共同で外国人向けホテル建設)
ー三菱商会(専制独占主義)
    三菱マークは三階菱(岩崎家家紋)と三柏(土佐藩山内家家紋)
    二本松藩へ汽船購入を仲介、推奨し汽船代から英国との貿易から利益を得る
    九十九商会から三ツ川商会、三菱商会へ息子と変身(土佐藩等の後ろ盾を消していく)
    海運業、製糸業、炭鉱業を営み、吉岡鉱山は大きな収益源となる
ー岩崎弥太郎(専制独占主義)の開花
    台湾遠征(琉球住民の殺害から新政府が兵と武器を運)と西南戦争で莫大な利益
    政府との密約へのおねだりが始まり船舶購入に拍車をかけ、一時期海運独占する
    さらに海運サービスを充実させ荷為替、海上保険、運賃で大儲けする
ー三井物産(東京風帆船会社で対立)
    のちの共同運輸となり海運戦争が勃発、結果政府の肝煎りの日本郵船株式設立
    日本郵船の株式は三菱系が独占し、のちに三菱系企業へと変貌する(資本主義への対抗)「資本主義の弱点・株の買い占め」


「欲」は程々に、できれば放棄出来れば尚良い『

2023-12-29 07:41:12 | 歴史から学ぶ
人は生きている間に多くの出会いと別れに会う、そしていつかは何もかもを捨てて死ぬ。その事が分かっていても人間社会の「5つの欲」(食欲・財欲・性欲・名誉欲・睡眠欲)に惑わされ迷い、悩み、生きている。ブッダの「唯我独尊」、それは「我々人間はただ一つの尊い使命を果たすために生まれて来た」(苦悩の世界から永遠に脱出すること)とある。俗に言う「欲」は「程々に」、できれば放棄することが、苦悩が少ない人生になるのではないのかと、言う事だろうか。
『人生の目的』高森顕徹
「概要」どんなに多くの人に囲まれていても、常に孤独で淋しいものが心の中にあります。まさに「無人の広野を独り行く旅人」が私たちなのです。 本書では、ロシアの文豪トルストイを驚嘆させた「ブッダの寓話」を解説しながら、独りぼっちの私たちが、どうすれば幸せになれるのか、明らかにします。
ー仏の人間の実相物語(旅人は無人の荒野で虎に出会った)
    虎から逃げる為に持ち金一才を捨て、松の木に登るが虎がよじ登り、蔦にしがみ付く、だが二匹の鼠が蔦を齧り始め、蔦をゆすると上にあった蜂蜜が落ち、美味しさに五臓六腑を満たされ、陶酔する
ー「トラの出会い」とは「死」を直面すること
・死は突然やてくる、まさに虎と対面したかのようなもの、逃れる手立ても無く命を失くす
人はそもそも一人、孤独
・「独生独死」(一人生まれて一人死ぬ)「独去独来」(一人去り一人来る)
・「歓楽尽きて、哀情多し」
・「出会いがあれば、必ず別れがやってくる」
ー三毒(3つの煩悩:欲・怒り・愚痴:心・口・体)
・「心が」命じないことは「口」には言わない
・「心」に反することは「体」は動かない
・「口」や「体」に行動はみな「心」の指示
・「心」欲・怒り・愚痴
・「口」綺語・両舌・悪口・妄語
・「体」殺生・偸盗・邪淫
ー5つの欲には魔力がある
    食欲・財欲・色欲・名誉欲・睡眠欲(楽がしたい・面倒なことはしたくない)
ー人間に生まれたことをとてもありがたく、素晴らしいこと
    三途(地獄・餓鬼・畜生)で畜生界に生きる動物や虫175万種、総計で3千万種
    人類の2百万倍を超える生き物の中で一つの人間が生まれる
    生命は3世(過去世・現在世・未来世)善因善果・悪因悪果・自因自果