不定期連載。
恋愛交差点-11-
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ずーっとhaveの愛とbeの愛について考えてきたんだけど、結論から言えば、男女の恋愛はどうあってもhaveから抜け出せないし、beの愛にはならないどころか、その「足かせ」にさえなるものだ、と思うに至った。
フロムの「異性愛」の記述を読むと、それがいかに「閉鎖的」で、「交換」に基づく条件付きの愛であり、haveでしかないことが分かる。自分の男女の異性愛がhaveかbeかと問うのは間違いで、それ以前に、異性愛の前提となる自身の「愛する能力」を問わなければならない。何に対する愛であれ、まず問われるのは、自分自身。自分自身の「能力」なんだ。
だから、【愛する能力】の欠けた人間には、異性愛(それ以外のすべても)は難しい。
だからといって、かつてのように(前近代のように)他の人間に恋愛相手を決められるというところにはもう戻れない。家同士の結婚にも戻れない。とすれば、フロムが何度も言うように、愛することを学ぶしかない。でも、誰もそれをしない。それを学ばないまま、異性愛を実践するというのは、無免許で高速をぶっ飛ばすようなものだ。あるいは、フロムの例で言えば、医者が医学を学ばないで患者に治療をするようなものだ。
「望まない妊娠」や「中絶」や「離婚」を研究テーマにしている僕としては、「失敗してもしょうがないよね」とは言えない。離婚自体を否定する気はないけど、誰も離婚しようと思って結婚したりはしないはずだ。でも、恋愛~結婚に至るプロセスの中で、いったいどれだけの人が真剣に自分自身の愛する能力と相手の愛する能力を見極めているか。はなはだ疑わしい。僕らは、恋愛~結婚においても、いや、恋愛~結婚においてこそ、最も、失敗しないために、先人の失敗から学ぶ必要がある。
他のことだと、みんな全力で「原因」を探すのに、恋愛だけは、妄信に陥る。感情のままに突っ走る。人の意見にも耳を傾けない。付き合ってしまえば、思考停止。お互いの愛する能力を問わずして、好きだ惚れただと騒いで、消費活動と欲求充足のための営みを繰り返し、そのままずるずると無為な時間を過ごす。当然、自分の愛する能力を反省することもなく。…自分にとって大事なことこそ学ばなければいけないのに…
こういうことを言うと、きまって「では、先生は恋愛をするなと言いたいんですか!」と学生に言われる(;´・ω・) 違う、そうじゃない。「恋愛をするなら、その前にしっかりと愛することを学べ」、と。「学ぶ努力もしないで、安易に恋愛に飛びつくな」、と。そうすると、学生たちはいぶかしい顔をする…(;´・ω・)
そこで、僕は逆に聴く。「じゃ、なんのために恋愛をするの?」と。そうすると、学生は「勉強とかバイトとか大変だし、(恋愛で)息抜きしたいんです」と言う。「じゃ、恋愛は息抜きなんだ。だとすると、恋愛じゃなくても、息抜きできることはあるよね。恋愛は息抜き程度のものなんだ」と言うと、誰も言い返せない。
異性愛は息抜きでしかない。無駄な時間。消費の時間。
「息抜き」でしかない異性愛。手にすることで終わる異性愛。あとは「暇つぶし」と「性的交渉」の終わりなき繰り返し。
わずか数回しゃべっただけで、わずか数回会っただけで、「好き」と思ってしまう人、「付き合おう」と迫る人、そういう短絡的な人がどれほど多いことか。すぐ好きになる人、すぐ告白する人、すぐに付き合いたくなる人は、どれだけ相手のことを分かっているのだろう。その人がどんな人か分からないまま、その相手のことを(警戒せずに)深く知ることなく、付き合おうとする人は、自分自身のことも大事にしていない。自分のことを大事にしていれば、そんなに安易に近づいたりしないからだ。どんな買い物よりも、恋愛相手となれば、何よりも吟味するだろうし、検討するだろうし、自分と本当に合うのかも厳しくチェックするはずだ。すぐに好きになったり、付き合おうとしたりする人は、そういう吟味や検討やチェックをすっ飛ばしている。「ピーンと来た」というのは、「衝動買い」でしかない。また、すぐ好きになるということは、それだけすぐに好きじゃなくなる、ということでもある。まずは、知人として、友人として、よく互いに知り合っていくことが大切なんだ。(そのプロセス自体がとてつもなく重要となる)
「(異性の)友達」と「恋人」との違いは何か。「友達にはできず、恋人でないとできないことは何か」を問うと、「手をつなぐ」「キスをする」「セックスする」しかない。つまり「性的交渉」だけ(他には「甘える」というのも出たけど、それもまた性的交渉に入るもの)。逆に、恋人になることで失われるものも多い。「相手への関心」は、恋愛関係になることで失われる。「自分の話を聴いてもらいたい」が強くなる。対話の前に欲求が先立ってしまう。男も女も、欲求を抑えなくてよくなるから、意識が「自分」に向かう。「話はいいからキスをしようよ」となる。あるいは、「相手の話を聴きたい」から「自分の話を聴いて」となる。「会いたい」という気持ちから「会わなければ」という義務的な気持ちに変わる。そこで繰り返されるのは、終わりなき暇つぶしと性交の時間。だから、相手を深く知る前に、すぐに「告白」し「恋人」になるというのは、恐ろしくリスキーなことであり、また相手の人格に触れることなく、身体的接触を許す、ということになる。(その先に何があるのか、考える必要がある)
仏教でも、性欲を含む煩悩(貪欲)を否定し、キリスト教でも、性交渉を否定し、清貧を説いた。イスラムでも、婚前の性交渉を厳しく否定する(詳しくはこちら)。あの「快楽主義者」のエピクロスでさえ、性的快楽だけは否定した。その理由もなんとなくわかってきた。何もリスキーだというだけではない。そもそも、人として成長しないんだ…。
そう、愛する能力が問われない異性愛では、人は成長しないのだ。
それどころか、成長の機会を失うのである。
恋愛を機に、学ぶ意欲や成長する意欲をなくす人をどれだけ見てきただろう…
息抜き(ガス抜き)でしかなく消費するだけの異性愛。それを歓迎するのは、経済界くらいだろう。「異性愛」は、お金が動く。消費を促す。今の日本には、経済しか「指標」がない。宗教も倫理も機能していない。止めるものがない。
これじゃ、望まない妊娠も中絶もDVも離婚も止められない。
結婚を断念する人の増加や止まらない少子化も、こういう問題と直結しているかもしれない。みんながみんな、「異性愛」を美化し過ぎていて、まともに「愛する能力」をもっている人がいなさすぎる、と。「愛される能力」が効力を発揮するのは、せいぜいのところ、「手にするまで」だ。その先の能力は何もない。そんな人間ばかりだ。…それを誰も指摘しようとしない。
フロム的に言えば、「誰かを愛する能力」の前に「誰もを愛する能力」が必要不可欠なのだ。究極的に言えば、「生きとし生けるものを愛する能力」。そういう能力を向上させる努力をすることなく、異性愛に陥り、それに苦悩し、そしてそれに絶望する。haveの愛は、人を幸せにするどころか、人を絶望させる。フロムもよく読むと、異性愛については「閉鎖的」で「普遍的ではない」と言い切っている。そして、「もっとも誤解されやすい愛の形」と言う。
よりクリティカルに言えば、「異性愛を断念する」ことこそが、愛する能力の向上には欠かせない、ということかもしれない。(こんなことを言う人を僕は知らない)。でも、フロムも「一人でいられること」が愛するための条件だとも指摘する。「異性愛の断念と愛する能力をしっかりと高めること」。こういうことを(異性愛の魅力に憑りつかれる若者から白い目で見られても)熱く言い続けることも、大人として大切なことのように思う(改めて強く思う)。「誰かと恋愛する前に、まず自分をしっかり愛せるように努力せよ」、と。「自分を愛せない人は他人を愛することもできない」というのは、決まり文句だ。安易に、短絡的に、異性愛をするな、と。そんな簡単なものではない。
それに、事実、経験的にも、学生時代に(異性に目もくれず)しっかりと学んだ人の方が、(逆説的だが)はるかによい結婚を実現させているように思う。僕を結婚式に呼んでくれる卒業生は、実にみんな学生時代は恋愛と無縁だった(苦笑)。無縁というか、無頓着だった気がする。恋愛に執着していなかった教え子の方が、幸せな結婚~その後の生活を実現させているのだ。しかも、それどころか、今もしっかりと教育や保育の仕事を続けている…(例外もいるだろうけど…)。これをどう説明すればいいんだろう。
恋愛や異性愛に執着していない人の方が、よい結婚後の夫婦生活を営んでいるという現実。(ただ、この点はもう少し細かい分析が必要だと思う…)
また、恋愛をさして優先させず、学業優先でしっかり学んだ卒業生も、ちゃんとしたパートナーを見つけ、そして母親になり、家庭と仕事に「集中」できている。
異性愛を否定するのは難しい。でも、それを否定し続けてきたのが、人類史でもある。今、必要なのは、人を、人類を、生きとし生けるものを愛する能力に長けた人を増やすことだと僕は強く思う。自分(自分の家族含む)のことしか考えない「利己主義者」ばかりが跋扈するこの世界で、一人でも多く、愛する能力をもった「愛の実践者」を増やすことだ。そうすることでしか、この国に、この世界に、未来はないと思う。切にそう思う。(結局、今の世界は「Have」の論理で動いているし、そういう人がメインストリームだ)
きっと、愛する能力の長けた人が多ければ多いほど、その世界は、より<コスモス>に近づいていくんだろう。
これこそが、究極の教育の目標な気がしてきた…。
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この連載のタイトルは「恋愛交差点」。
人間は、常に道を歩いている。その道の先には幾つもの(目に見えない)分岐点がある。誰かと付き合うということは、別の誰かとの出会いを棄てるということでもある。誰かと付き合った後、別れるか別れないかもまた、大きな一つの人生の分岐点となる。いくつもの分岐点の連続を僕らは生きている。どの瞬間で、どの人と出会うか、それは誰にも分からない。もしかしたら、「付き合っている人」がいたために、「本当に自分にふさわしい人」と結ばれなかった、ということもあるかもしれない。恋愛は常に「交差点上」にあるんだろう、と思う。結婚すれば、もうそこからは一直線(目的地は<死>)。離婚となると、またそこに交差点はあるけれど…。
上述したように、もし「異性愛」が人を成長させないとするならば、「彼氏」「彼女」を「持たない」方が、その(人生の)道の先で幸せになれると言えるのだ。結婚し、家庭をもてば、嫌でも「have」に支配される。日々の家計のやりくり、住居のローン、水道やガスやスマホ代…。お金お金の日々だ(しかも、消費ではなく貯蓄の日々となる)。haveの愛しか経験せず成長しきれていない男女がそんな日々を過ごせば、たちまち崩れ落ちていくのは当然といえば当然だ。
恋愛=異性愛ほど、ハードルの高い人間関係の実践はないんだろうな、と。
誰でも手軽に始められる異性愛。でも、それにほとんどの人が失敗するのが異性愛。
失敗を重ねても上達しないのも異性愛。
異性愛を実現するための条件にこそ目を向けたい。
改めて、強くそう思います。
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恋愛交差点<10> 結婚の条件を考える
恋愛交差点<9> 「Beの愛」の真諦
恋愛交差点<8> 恋愛感情と睡眠
恋愛交差点<7> 愛されない苦しさについて
恋愛交差点<6> haveの愛とbeの愛を問い直す
恋愛交差点<5> 愛されるためにはお金がかかるけど、愛することは無料!
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