久々に、恋愛交差点の続編を書きます!
前回(恋愛交差点4)は、2008年12月に書いたので、実に6年半ぶりです!
恋愛とは何か。恋愛をどう考えたらよいのか。
特に最近、この国には、ますます愛がなくなっているように思う。あらゆるところから、愛が消えている。「愛のない時代」と、大真面目に言ってもよいのではないか、と思う。
原発問題にしても、愛をもってみれば、まずは被災者の方を気遣うべきだろう。被災者以上に苦しんでいる人はいないのだから。けど、この国とマスコミらは、「原発再稼働」の話ばかり。愛情を感じない。
沖縄の問題にしても、愛をもってみれば、あれだけ移転に反対している人がいるのに、「粛々と」と、ヒトラー時代の誰かみたいな発言を繰り返すばかりで、為政者たちは誰も、沖縄の人たちの声を聞こうとしないでいる。これって、愛のない政治としかいいようがない。色々と政治的な利害関係があるにしても、あれだけ皆が嫌がっているのに、何も変えようとしない。愛情がない証拠。
報道ステーションの古賀さんの問題も、愛をもってみれば、「あれだけこの国のために自らの危険をおかしてまで、警告を鳴らしている」ということで、尊敬すべきことだと思う。なのに、国もマスコミも誰もかれも、古賀さんを総バッシング。愛のない国。
アジアの近隣諸国との問題も、やはり愛なき外交と思わざるを得ない。政治的に不安定だと、僕ら普通の人が近隣国の人と会っても、本当にぎこちなくなる。政治的な安定こそが、一番大切なのに、わざわざ問題を起こす方向で、色々とやってしまっている。愛情を感じない。
それだけじゃない。
最近、本当に結婚をしない人たちが増えている。「できない人」もいるけれど、「しない人」が増えていることが気になる。男女の恋愛というのは、いつの時代も、かけがえがなく、尊く、愛しく、そしてはかないもので、皆がひきつけられるもの。なのに、それを拒絶する人が増えている、という。恋人のいない若者も、年々増えてきているそうで。
これまで、僕は「恋愛がある」ということを前提として、恋愛を考えてきた。けれど、今の時代では、「恋愛なき時代」なんだ、という前提で考えていかなければならないのかもしれない。この7年で、その辺が大きく変わった気がする。
恋愛に力がない時代、というか。。。
そんな時代に、改めて、恋愛を考えてみる。
今回、僕が、「ちょっとこれは名言なのではないか」と思う一言を。
愛されるための努力には、膨大なお金が必要となる。
けれど、その結果として愛が得られる保証はない。
愛するための努力には、一円も必要ない。
なのに、愛する人は愛せるゆえにますます愛される。
今の時代も、やはり愛されるための努力をしている人は多い。たとえば、自分をよく見せたり、相手の気の惹くことを色々とやってみたり、、、さらには、整形したり、エステに通ったり、ダイエットをしたり、、、 結婚相談所の景気もまだまだよいらしい。
このように、愛されるための努力は続けられているけれど、どれもお金がかかることばかり。愛されるために必要な努力は、どれもお金がかかるものばかり。
愛のない時代というのは、愛することを忘れた人間が、愛されるためにお金を使う時代なんだ、と言えるのかもしれない。「恋人が欲しい」というのは、「商品が欲しい」というのと何も変わらなくなってしまった。(Haveの恋愛、か)
そう考える人は、たとえ恋人ができたとしても、愛する行為が何かを知らないゆえに、苦しむことになる。愛される努力しかしてこなかった人は、資本主義の思考回路が出来上がっており、お金でなんとかしようとしてしまう。自分をよく見せようとすることしかしてこなかったゆえに、「その後」が描けない。結果、大切な恋人を失ってしまう。
ストーカーという存在も、実はそういうパターンに陥っているのでは、と。
自分が愛する人が、色々と思い悩んだ末に、「別れたい」と言い出したら、どうすればよいのか。まずは、その相手が勇気を出して、「別れたい」と言ったことを認めるべきだろう。そして、相手が自分と別れることを望んでいるんだ、ということを受け入れることだ。相手は、自分と恋愛関係にあることを望んでいない、と思っている。それを第一に考えるべきだ。
相手が「別れたい」と言ったその背景には、それまでの色んな葛藤や迷いや不安や怒りや絶望が入り乱れている。それを生み出したのは、それまでの自分の態度であり、言動であり、二人の関係そのものだ。もし相手が自分といて苦しんでいなければ、「別れよう」とは言わないはずだ。無論、相手がダメな人間で、単なる遊びで付き合っていただけだとするならば、その相手を「哀れ」に思えばいい。
いずれにせよ、相手が「別れたい」という気持ちを(たとえ辛くても)飲み込むのが、愛することだったりもする。
他方、愛する努力には、お金は本当に一円もいらない。
愛する努力というのは、相手を思うこと、相手を気遣うこと、相手のために動くことなどだ。昔好きだったアリストテレスのフレーズを使えば、相手の幸せを考え、相手のために行為すること。すなわち、相手のために、相手の幸せを願うこと。
それだけだ。
とはいえ、相手のいいなりになることではない。相手のいいなりになることは、相手にとってよいことではない。相手が命令してきたとしたら、「それはよくないことだよ」、と伝えること。その上で、相手を許すこと。許しつつも、命令には屈しないこと。
だから、たとえ相手が「●●が欲しいから買って♡」、と言っても、買わなくていい。それは、愛することではない。
愛することは、誰にでもできること。でも、多くの人ができないこと。
しかも、愛するという行為は、何も特定の誰かにのみ向けられるものではない。自分の身の回りにいる人、すべてに向けることができるのだ。愛する行為に、制限はない。誰に対しても向けることができる、それが愛することのある意味での特権ともいえる。
愛する努力は、突き詰めれば、自分自身と闘い続けることなのかな、とも思う。どうしても人間は、愛されたくて、愛されるために行為してしまう。それをどこまで抑えられるか。どこまでストイックになれるか。そういう努力をしている人は、相手に信頼され、尊敬され、愛されてしまう。愛されるために一円も使っていないのに、結果として、愛されてしまうのだ。
しかし、悲しいかな、愛される努力を惜しまず、健気にお金を使い続ける人は、それゆえに愛されない。
とても奇妙な話なのだが…
最後に。
僕らはもっともっと愛することを学ばなければならないし、実践し続けなければならない。
特に、為政者たちは、愛されるため(投票されるため)の努力をしなければならなかったゆえに、愛することを知らないし、愛するための努力をしていない。常に、自分が認められるために、尽力してきている。
それは、選挙システムが機能していないということでもある。本当に為政者としてふさわしい人が選出されないシステムになっているのだから。悲しいけれど。。。
愛する能力の高い人がちゃんと為政者として活躍できるために、どうしたらよいのか。それをもっと議論しなければいけないのではないか、と思う。
失礼な話かもしれないけれど、たまに為政者(権力をもつ人)と話す機会があるけど、そういう人は、本当に「愛される能力」には長けていると思う。でも、その人たちから、「深い愛情」を感じることは滅多にない。話していても、同じ。話は上手いけれど、そこに愛を感じない。
最初の話に戻るけれど、あれだけ沖縄の基地問題で、当の住民がNO!と言っているわけで、愛のある政治家なら、「なんとかもっと頑張ってみよう」、と思うはずだし、愛のあるマスコミであれば、その当の住民の声をもっともっと世に伝えるだろう。
自分を守ることを捨てて、誰かのために動くこと。
それができる人は何よりも尊いし、素敵だ。
愛する努力、愛する行為、愛する行為の意味。
それをもっと言葉にしていかなければならないなぁ、と最近強く思っている。