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Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

恋愛交差点6 haveの愛とbeの愛を問い直すー「手に入れる愛」と「そこにある愛」

 

不定期シリーズ「恋愛交差点」、Part.6。

某講義の<番外編>として、改めてエーリッヒ・フロムの「Have」と「Be」の問題を問い直いしてみたい。

というのも、この「Have」と「Be」の両者について、もしかしたら僕は誤解していたのかもしれない、と思ったからである。

特に「Beの愛」である。

***

haveの方の理解は、さほど変わらない。

恋愛論で言えば、「恋人をもつ」、「恋人を手に入れる」、「恋人を確保する」、「恋人(=物として)を入手する」、そういったもろもろの行為、あるいは、そのための努力については、言うまでもないし、もう語りつくした感がある。対象化された「恋人」は、己の「主観」によって、評価されることになる。「イケメン」、「カネモチ」、「将来性アリ」、「やさしい」、「背が高い」、「マッチョ」…

問題は、「Beの愛とはいったい何か」、ということになる。

僕はずっと、この「Beの愛」を、「共にいる」、あるいは、「一緒にいる」ということに、その根源を看取していた。「居心地のよさ」や、「気づいたらそばにいた」、といったことも、このBeの愛の典型例だと思ってきた。相手を対象化しないで、いわば「相互主観的」な存在として、あるいは「相互存在」として、そこにいる存在(Dasein)として、考えてきた。

でも、そうじゃないんじゃないか、と思うようになってきた。そんなレベルの愛じゃない、と。

Beの愛というのは、「常にすでに存在している愛」、という方がよいのではないか。

つまりは、「そこにある愛」、と考えるべきではないのか、と。

極論を言えば、「特定の彼氏/彼女/パートナー/つれあい」などがいなくても、「ある愛」、というか。

けれど、ここで、「神の愛」や「アガペーの愛」を挙げたいわけではない。

そうではなく、「常にすでに存在する愛がある」、と、そう言ってみたいのである。

フロムは、「Haben oder Sein」(『生きるということ』)という書物の中で、松尾芭蕉とゲーテの例を引き合いに出しつつ、次のように述べる。

あるということによって私が言及しているのは、人が何も持つことなく、何かを持とうと渇望することもなく、喜びにあふれ、自分の能力を生産的に使用し、世界と一になる存在様式である」(pp.38-39)。

ある愛(在る愛)というのは、なる愛(成る愛)だ、ということになる。

さらに、こうも言っている。

「私たち人間には、ありたいという生来の深く根ざした欲求がある。それは自分の能力を表現し、能動性を持ち、他人と結びつき、利己心の独房からのがれ出たいという欲求である」(p.142)

この彼の一文から、Beの愛を考えると、どう言えるのだろうか。

概念的に、フロムの言葉で言えば、「活動(Tätigsein)」、「連帯(Solidarität)」、「利他性(Altruismus)」、ということになろうか。

これらは、すべて自分が求めるものである。

また、「Vom Haben zum Sein」という本の中では、ナルシシズムと所有欲を否定したのちに、次のように書いている。

私がhaveを求めている限り、その時の標語は、「私は、私がもっているところの存在である」となる。が、そのhaveを打破したならば、その時の標語は、「私は、私が引き起こしている(生じさせている=bewirken)ところの存在である」、となるだろう。あるいは、単純に、「私は、私であるところの存在である」、となるだろう」(S.157)

自分が引き起こしているような愛、きっとそれが、成る愛、すなわち、Beの愛なのだろう。

その自分が引き起こしている愛というのは、フロムに即して考えれば、行為的(tätig)であって、連帯的であって、そして利他的である、ということになる。

つまり、「常にすでにある愛」というのは、「私自身の存在から、私自身の行為によって、生じてくるような愛」、ということになる。

Haveの視点で、恋愛を語ると、どうしても相手の「特性」に目を向けざるを得ない。だけど、Beの愛というのは、Haveの愛とは全く別で、自分自身の存在から引き起こされるような愛、ということになる。つまり、自分の誰かへの行為的で活動的な愛、ということになる。

そう考えると、自分が存在する限り、愛もまた存在することになる。なぜなら、自分自身がその愛の源となるからである

私という存在は、ただ所有する存在であるだけでなく、誰かを愛する存在であり、また、自分自身をも愛する当の主体なのである。

では、、、

「私が生み出す愛」とはいったいどんな愛なのだろうか。

それは、これからの個々の自分たちの「生き方」にかかわるものであろう。これから、どのように愛する活動をしていくのか。その時に、haveに転落することなく、自らの活動をもって、そして、連帯や利他性へと向かって、歩んで行けるかどうかにかかわるものである。

愛することは、常に、「今」と関わっている。今、自分が愛する存在となっているかどうか。

誰かのために動けているか。誰かのことを思って、行動できているか

そこに答えなんて、きっとないんだろう。

誰かのために動いたことが、その誰かにとっての愛となる保障は何もないからである。

でも、、、

答えがないままで、いわば五里霧中の中で、手を伸ばす勇気をもてるかどうか。

その手こそ、きっとBeの愛の、最も具体的な実践なのだろうな、と。

そして、その実践は、不安定で、孤独で、報われず、結果もすぐに出てこないような実践であろう。

厳しい実践でもある。

信念の実践でもある。

***

先日、若い子から、「自分を愛せないのだけれど、どうしたらよいのでしょう?」、という相談を受けた。

今、この問いに答えるとしたら、こう言うだろう。

「自分を愛していない自分自身を、自分を愛する自分に変える努力をしよう。きっと、「愛せない自分」を愛せる自分になることはできるだろう。自分を愛さないという選択肢があってもいい。だけど、自分を愛さない自分も自分だし、また、自分を愛する自分もまた自分である。自分を愛せないことが辛いのであれば、(愛するに値しない)自分を愛せる自分へと成長するしかない。そのために、あなたは最大限の努力と労力を発揮すべきだろう。あなたは、愛するに値しない誰かを愛せるだろうか。まず、練習として、自分が愛せない人を愛してみたらどうだろうか。自分が嫌いだと思う人にやさしくしてみたらどうだろうか。それができなければ、きっと、あなたが嫌いだと思う自分自身を愛することはできないだろう」

と。

ゆえに、Beの愛というのは、いつでも、自分自身が問われるような愛なのだろう。

私は、愛する行為の当事者である。

私は、愛することを怠っていないだろうか。

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