不定期連載シリーズ「恋愛交差点」、Part.7。
今回は、「愛すること」ではなく、また「愛されること」でもなく、「愛されないこと」について考えてみたい。
愛されないことの意味というか、愛されないことの苦しさについて語りたくなった。
ある幼い子どものいる女性(アラサー)が嘆いていた。
「もう、旦那との間に愛情はない。私は愛されていない。きっとこれからも旦那に愛されることはないだろう。別の人に愛されたいと思うけど、もうこの年齢になり、体形も変わり、子どももいたら、誰にももう愛されないだろう。このまま、私は誰にも愛されないまま、生きていかなければならないのだろうか。もう、お金しかすがれるものはないのだろうか」(大意)
未婚であろうと、既婚であろうと、人は、誰かに「愛される」ことで、我を見失わずに、生きていくことができる。誰かに必要とされること、誰かに期待されること、誰かに信じてもらえること、そういうことがあって、人は、「頑張って生きていこう」と思えるようになる。
けれど、この女性は、最も愛してもらいたい存在である夫に、全く愛してもらっていない。また、他の男性にも愛してもらえないことを悟り、深い絶望を感じている。
子どもがいる、というが、子育ては大丈夫だろうか。母親が深い孤独や絶望の中に沈んでいる状態で、まともな子育てができているのだろうか。ふと、心配になる。感情というのは、不思議にも、伝播する。不安定な親に育てられた子どもは、のちに、自分自身も不安定になる(傾向が強い)。
それはともかく…
既婚者であっても、「愛されないこと」に苦しんでいるのである。パートナーや恋人がいたとしても、その人に愛されているかどうかは、(よほど鈍感でない限り)分かるものであろう。否、感じるものであろう。
結婚した後に、自分が相手から愛されていないことを知った時、僕らはどうすればよいのだろうか。自分のことは愛していないけど、とりあえず結婚した、ということが分かった時、僕らは、その苦しさを解消すればよいのだろうか。安易な処方箋は、期待できそうにない。自分を愛してくれていない相手を、愛し続けなければいけないのだろうか。
未婚であれば、別れればいい。それで終わる話だろう。(共依存関係でない限り…)
だが、子どもがいたり、既婚だったりすると、「はい、グッバイ♪」というようにはいかない。上の女性もそうだが、幼い子をもつ場合、なかなかすぐに働くことはできない。働くことを旦那に認めてもらえない場合もある。つまり、愛されていないからといって、ただちに離婚することはできないのである。(相手が不倫していたり、借金を抱えていたりしていなければ、なかなか(本人が望むような)離婚に至ることはできない)
パートナーに愛されていない、否、そもそも愛されていなかった、という歴然とした事実に直面した時、僕らは、いったいどうすればよいのか。
愛されない苦しさというのは、既婚者だけの話ではない。
現在、「おひとりさま」の人生を選ぶ人たちが増えてきている、という。「結婚をしない人生を選んだ」、とさらっという人も出てきている。経験的にも、30を過ぎて「独身」という人はいくらでもいるし、40過ぎても結婚を望んでいない人もとても多い気がする。理由はさまざまだろうが、とにかく、「独身」という生き方を決断しようとしている人の数は、年々増えているように思えてならない。(あるいは、僕ら世代に特徴的な事柄かもしれない)
ある40代の独身男性が言っていた。
「もう、今となっては、恋愛をすること自体が面倒くさい。経験的に、恋愛をしても、成就することはないって分かっている。誰かを好きになっても、どの道、ふられるか、相手にされないか、そのどちらかだ。もう傷つきたくはない。もう何十年も、独り身でいると、それが辛いとは思わないし、逆に誰かと一緒に生活するなんて、もう考えられない。このまま、独りで生きていくよ。もう、誰かに愛されることなんて、期待もしてない…」
この男性は、もう、誰かに愛されることを全くもって期待していない。異性への失望か、あるいは慣れか…。その真意は分からないが、40代の今、もはや結婚への期待はほぼゼロで、むしろ、独身で生きることの方がよいとさえ考えているのである。
日本の男というのは、自分のホンネや感情を他人に話すことに慣れていない。だから、彼のこのコメントの真意はやはり分からない。でも、その話しぶりを見ている限り、「愛されない苦しさ」、というか、「愛されない寂しさ」はたしかにあるように思えた。が、上の女性とは異なり、「愛されないこと」に対する感情はことさら強調されない。もしかしたら、「愛されないこと」に苦しまないようになり始めているのかもしれない。
絶望か。感情の鈍化か。あるいは、悟り、か。
今後、「生涯独身の道」を選択する人が増えていく中、この問題は避けて通ることはできなさそうである。
***
誰にも愛されない苦しさや寂しさとどう向き合っていけばよいのか。
特に、50代~60代になった時に、「誰にも愛されない苦しさ」とどう向き合えばよいのか。無論、多くの人は、パートナーの愛情などなくとも、(その代替となる)友情や趣味や道楽があれば悠々と生きていける。(この場合、愛情云々はともかく、「パートナー・仲間がいる」ということで、ある程度の孤独は軽減されている)
でも、友情や趣味や道楽では解消できない深い孤独感に苦しむ人も、中にはいる。もしかしたら先日捕まった清原和博も、そういう一人だったのかもしれない。
誰からも愛されない、誰からも必要とされない、誰からも求められない、そんな苦しさが続く日々。更には、誰からも疎まれ、誰からも厄介者扱いされ、誰からも見向きもされないという状況が続く日々だとしたら…
誰であっても、そんな状況には耐えられないだろう…。
愛されない苦しさや寂しさは、きっと、これからの日本で大きな問題となるだろう。
欧州では、かなりの年齢になっても、自由に恋愛し、再婚している。40代、50代の恋愛もなかなか盛んらしい。僕も、50代の男性、女性が積極的に恋愛している知人・友人を知っている。60歳~70歳になっても、恋愛に積極的な人もかなり多い。
けれど、日本の50代~60代が積極的に恋愛をしているとは、なかなか考えにくい(僕が知らないだけかもしれないけど…)。芸能界では、60代の男性と20代~30代の女性がくっつく、という話がよく出てくるが、そういう話ではなく、50代同士、60代同士の恋愛のことを言っている。
40になったばかりの若造の僕にはまだまだ分からないことだらけ。
でも、これからは、壮年期の大人の「愛されない苦しさ」について考えていきたいと思う。まぁ、『黄昏流星群』を読めば、色々と分かるんだろうけど…。そういう漫画も材料にして、実際のところ、どうなのかな?という感じで、考えていきたい。
こうやって、「愛されないこと」について考えると、逆に「愛することの意味」もなんか見えてきそうな気がする。(まだうまく言語化できないけど…)
<結語>
愛されないことの苦しさに耐えられない人のために、もしかしたらドラッグや覚せい剤があるのかもしれない。
それくらい、愛されない孤独は耐えがたいものなのだろう、とも思う。
まだ、その克服の方法を堂々と言える段階にはない。
ただ、一つだけ言えるのは、「その愛されない苦しさについて、誰かに、もっともっと言ってもいいのではないか?」、ということ。「私は愛されていない(;;)」と外に語れば、きっと、誰かがフォローしてくれる。
「愛してくれる対象」は何も、異性やパートナーや夫・妻だけではない。愛にはいろんなカタチがあって、また、色んなタイプの愛情がある。友達だったり、SNS上でしかやり取りのない人だったり、あるいは、憧れのロックスターやアイドルの(妄想上の)愛情だったり…。更には、自分の子どもからの愛情だったり、隣近所のおじいちゃん・おばあちゃんだったりするかもしれない。あるいは、飼っている犬や猫だったり…
愛されていないと嘆く人は、愛の対象を拡大してみればよいのかもしれない。最終的には、「神様からの愛」「先祖からの愛」に達し、それで救われるかもしれない。
人間は、いつの時代でも、どの地域でも、絶対的な存在(存在者)としての神(神々)を打ち立ててきた。それは、きっと「最終的な存在」として、神を打ち立てずにはいられない故であろう。
愛されないことに苦しんでいる人は、少しだけでもいいから、間口を広げて、これまでとは違うタイプの「愛の対象」に想いを馳せてみるといいかもしれない。
愛は、そんなに狭いものではないだろうし、また、異性愛に限定されるものではないだろう。
そして、究極的には、どんな人も、この世界のどこかの誰かに愛されている存在なのだろう。
それに気づけるかどうかは、きっとその人次第、ということになるのだろうか…。
…
ただ、それでも、僕は「愛されないことに苦しむ人」に希望を見いだしたい。それは、まだ、その人は「誰かを求めている」からである。愛されないことを苦しいと思う感情をもっているからだ。逆に、「もう誰にも愛されないことに何の感情も湧かない」という人を想像すると、そこに、何にも言いがたい絶望を感じる。
愛されないことに苦しむ人は、他者を求めない、他者に期待しない、他者からの愛を求めない人間ではない。求め、期待しているからこそ、苦しんでいるのである。
とすれば…
愛されないことに苦しむ人自身は、人間存在に対して何かを求め、期待しているということになり、つまりは、人間を愛している人間だ、ということになる。(「誰にも求められない」「誰にも期待されない」というのが愛の欠如であれば、その人は、愛を与えている存在となる。求め、期待することが「愛すること」であるならば、その人は、すでに人間を愛している、ということになる)
そこに、僕は一筋の光を見いだすのである。