元旦の午前中ワイフと歩いて田無神社に初詣に行く。初詣で遠くの有名な神社に参詣することは少なくなった。もっとも余り有名でない田無神社でも20分程列に並ぶ。これだけ参詣者が多いということは皆祈願することが多いのだろうか?
今の私は初詣で祈願することが減っている。多少メタボ気味ではあるが、病気平癒を祈る程健康に問題がある訳ではない。富裕ではないが、神様に祈らなければならないほどお金に困っている訳ではない。両親は多少病気は抱えているが、まず元気な方である。第一親父は坊主だから必要があれば自分で仏様にお頼みすればよい。これから受ける試験もないので、合格を祈願する必要もない。そこで「家族の平穏」と「世界平和」を祈念することにした。
「家族の平穏」というミクロな問題と「世界平和」というマクロな問題の間には随分隔たりがあるように見えるが、私は世界平和があってこそ日本の平和があり、日本の平和があってこそ本当の家族の安らぎがあると考えている。
昨年はパキスタンのブット元首相の暗殺で年が暮れた様にテロや内紛、戦闘の多い年だった。これらの騒動の背景には様々な要因があるが、根本は「貧困」「飢餓」「現実社会に対する絶望」「死後の世界への狂信」といったものである。そしてその背景には先進国の資本進出による発展途上国の貧富の差の拡大がある。根本的には先進国と発展途上国あるいは発展途上国の富裕層と貧困層の貧富の差がもう少し解消されるか解消される希望が見えないとこれらの紛争はなくならないと私は考えている。
日本はかって政府開発援助(ODA)で世界のトップだったが、財政悪化のため援助額を減らし、今では米英の後塵を拝している。「別に援助競争をする必要はない」「発展途上国にまわす金があるなら俺にくれ」という声も聞こえそうだ。確かに援助競争をする必要はないが、世界有数の富裕国として日本は応分の負担をする必要はあるが、昨今この応分(目処としてはGFDの0.7%程度)の協力に事欠くようになっていることは残念である。せめて個人的に多少なりとも貧しい国の人々のために寄付をしたいと思う。少なくとも自分達は恵まれている、恵まれた者達は恵まれない人のために何かをするべきであるという気持ちは持っていたいと思う。
昨年はネパールに小学校を作るNPOの活動に少し寄付をすることができた。今年は小雑誌の原稿代を全部寄付する積もりでがんばってみたいと考えている。このような考え方をすると一石二鳥いや三鳥位の効果がありそうだ。
まず「ものを書く」ことで脳が刺激され、老化防止に役に立つ。ネパールに学校が増え教育水準が向上するとやがて経済が発展して社会が安定する。そして世界の経済発展に組み込まれていく。それは個人レベルの株式投資にも長期的にプラスの効果をもたらす。また寄付をする側にとっては気持ちが良いのでストレスが下がり、健康促進につながる。
こういうと「利己的」に響くかもしれないが、神社に多額のお賽銭を上げるより発展途上国に寄付する方がご利益を「合理的に説明できる」ことは間違いなさそうだ。