光回線への切り替え工事のために、スタートが遅れてしまいました。
さて、今日はNIKKEI NETのコラム 「NET EYE プロの視点:(石鍋 仁美 編集委員)船場吉兆問題から考える「もったいない」感覚の生かし方(2008/5/12)」を取り上げました。
船場吉兆の例の使いまわしは、社長が「もったいない」と思ったことが出発だったらしいですね。
その感覚はまあわからないでもない。でもその感覚を誤った方向に使ってしまったわけです。
石鍋委員は次のように書いております。
「第1に、使い回しの中心は『箸(はし)をつけていない魚やつま』という説明だが、そう判断する根拠が希薄だ。見た目だけでは『絶対に箸をつけていない』とは言えないはず。
第2に、2度目(以降)に提供した客に、その旨をおそらくは説明していないだろう。したがって客は、特に説明がなくとも新品と信じて食べたことだろう。(「前の客の残り物ですが」と説明して提供していたなら、逆にたいしたものだと思うが)。
第3に、いったんテーブルに出した料理は基本的に『客のもの』であり、皿を下げるということは廃棄の代行依頼と理解すべきだ。捨てますよ、と言って引き取り、こっそりリサイクル。いったん売り渡した相手であるはずの『最初の客』への説明責任はどうなるか」
これらは正論であり、まったく同感です。
そこで、どうしたらいいだろうかということで、石鍋委員が提言をしています。これが、どうも私にはピンボケの意見のように思えてならないのです。せっかく、問題意識は正しいのにねえ。
ということで、ご紹介いたしましょう。以下、わかりやすいように、提言項目ごとに数字を入れています。
(1)
まず「手をつけていない皿」を確定するために、全テーブルの風景を天井から撮影し、記録を保管する必要がある。隠し撮りでは別の問題が発生するので、趣旨を話したうえで客の了解を得るのは必須になる。
(2)
そして手付かずの料理や食材はそのまま、あるいは再加工して利用する。同じ部屋、同じ形態で提供する方法もあるかもしれないし、別の場、別の形で販売する方法もあろう。あるいは寄付することも考えられる。
(3)
もちろん、いずれの場合も情報公開は必須だ。「皿」単位でのトレーサビリティーも求められる。本当に「もったいない」と思うなら、これくらいの努力はしてほしい。
(4)
けして突飛な発想ではない。手本は米国にある。首都ワシントンで、高級レストランなどから余った食材を集めてまわり、一方でホームレスの人々に調理技術を訓練し、集めた余剰食材を彼らが料理し、提供する、というソーシャルビジネス(社会的企業)がある。
(5)
自前のレストランで食事として出すほか、パーティーにケータリングもする。セレブの間では、たとえ一流レストランのケータリングより味は落ちても、この団体をパーティーに使うことが「社会意識の高い」ことの証明になっている。食材ゴミを減らし、ホームレスの就業支援にもなるからだ。
(6)
こうした「社会派」料亭は不可能か。利用客は画像の「秘密保持」を約束したうえで食事風景の撮影を許す。料理の賞味期限はあくまで料亭側が保障する。未使用の食材だけでなく、調理済みの料理にも、第2の流通経路を開く。寄付でもいいし、もしかしたら安く販売するほうがいいかもしれない。
http://www.nikkei.co.jp/neteye5/ishinabe/index.html
どうも、よくわかりませんな、頭のよい人の発想は。
そもそも、(1)が可能なんでしょうかねえ。画面に人を貼り付けておくような非経済的なことが、料亭にできるのか。
お客さんだって、カメラに撮れらるのはいやでしょう。むしろ、人権問題になるんじゃないの。いくら事前に了解を得ると言ってもねえ。
そもそもあたしだったら、楽しくない。そんなことされたら。よほど安くしてくれないと行きませんね。
(1)ができなけりゃ、この人のあとの提言は全部成り立ちません。
それと、(4)でアメリカの例が出ておりますが、もっと突っ込んで調べないと危ないのではないでしょうか。海外の例を単純に引用するのはとても危険なんです。文化や考え方、定義が違うことが多いから。
あまったものを処理するときの方法とか、顧客の受け止め方なんかどうなんでしょう。アメリカ人は大雑把だからあまり気にしないのかもしれませんがねえ。そのあたりをよく調べてからでないと、危うい議論なような気がします。
ともかく、この人の意見は頭で考えた策のようで、実現性ゼロではないでしょうかね。
実は、先月の末に田舎のお祖父さんの33回忌にでかけてきたのですが、そこで「もったいない」と思わされる経験を私はしました。
お坊さんに家に来てもらってお経を唱えてもらうわけです。それがひどい音痴でねえ。お経も唄と同じですね。朗々と詠んでくれると楽しく寝られるのですが。
それはともかく、30分くらいお経をみんなであげてから、中休みになったのです。そのとき、おこわが出た。おもしろい習慣ですよね。それを食べ終わるとまたお経が30分くらい続く。
お経が全部終わると、今度は近くの仕出屋さんに場所を変えて昼食をとりにいきました。いわゆるお斎(とき)というものですね。
これが凄いんだ。さしみ、えびの天ぷら、焼き魚、野菜の煮物、ごま豆腐、椀物、デザート、果物、それにもちろんビールや日本酒はついています。もう詳しくは覚えていませんが、とにかく一式出てくるわけ。
さっき、おこわを一膳たいらげたので、とても全部は食べられません。みんなも半分以上残しておりましたね。もったいないなあと、ケチ根性がつい出ましたが、さすがの私も腹が一杯で全然食べられない。
食事が終わって帰るころになると、女将さんがお膳の下にあるプラスチックのパックを引っ張り出した。
何をするのかと見ていると、食べ残し(生もの以外)をそれに詰め始めたんです。一人一人の膳のところでそれをやるんです。
そして、引き出物というのかな、お土産と共にそのパックを風呂敷に包んでくれました。
うちに帰って、家中で翌日の夜までおいしくいただきました。
こっちの方がよっぽど現実的だと思いますが、どんなものでしょうか。
想像するに、先ほどの石鍋委員の提言は、はじめにアメリカの事例が頭にあって、それを日本でどういうふうにしたらできるか、という逆算で出てきたものではないでしょうか。
だから、客から文句が出ないようにするために、カメラを取り付けようといったような発想がでてきたのではないでしょうか。
そのため、料亭の経済都合とか、お客さんの気持ちとかが、思考からすっぽり抜けてしまっている。部分最適解がちっとも役立たない例といえるのではないでしょうか。
人間行動を観る、人間を観るということがないと(いまの場合はお客さんだけでなく、料亭の人間行動もです)、実行可能な案にはならないような気がしますが。
さて、今日はNIKKEI NETのコラム 「NET EYE プロの視点:(石鍋 仁美 編集委員)船場吉兆問題から考える「もったいない」感覚の生かし方(2008/5/12)」を取り上げました。
船場吉兆の例の使いまわしは、社長が「もったいない」と思ったことが出発だったらしいですね。
その感覚はまあわからないでもない。でもその感覚を誤った方向に使ってしまったわけです。
石鍋委員は次のように書いております。
「第1に、使い回しの中心は『箸(はし)をつけていない魚やつま』という説明だが、そう判断する根拠が希薄だ。見た目だけでは『絶対に箸をつけていない』とは言えないはず。
第2に、2度目(以降)に提供した客に、その旨をおそらくは説明していないだろう。したがって客は、特に説明がなくとも新品と信じて食べたことだろう。(「前の客の残り物ですが」と説明して提供していたなら、逆にたいしたものだと思うが)。
第3に、いったんテーブルに出した料理は基本的に『客のもの』であり、皿を下げるということは廃棄の代行依頼と理解すべきだ。捨てますよ、と言って引き取り、こっそりリサイクル。いったん売り渡した相手であるはずの『最初の客』への説明責任はどうなるか」
これらは正論であり、まったく同感です。
そこで、どうしたらいいだろうかということで、石鍋委員が提言をしています。これが、どうも私にはピンボケの意見のように思えてならないのです。せっかく、問題意識は正しいのにねえ。
ということで、ご紹介いたしましょう。以下、わかりやすいように、提言項目ごとに数字を入れています。
(1)
まず「手をつけていない皿」を確定するために、全テーブルの風景を天井から撮影し、記録を保管する必要がある。隠し撮りでは別の問題が発生するので、趣旨を話したうえで客の了解を得るのは必須になる。
(2)
そして手付かずの料理や食材はそのまま、あるいは再加工して利用する。同じ部屋、同じ形態で提供する方法もあるかもしれないし、別の場、別の形で販売する方法もあろう。あるいは寄付することも考えられる。
(3)
もちろん、いずれの場合も情報公開は必須だ。「皿」単位でのトレーサビリティーも求められる。本当に「もったいない」と思うなら、これくらいの努力はしてほしい。
(4)
けして突飛な発想ではない。手本は米国にある。首都ワシントンで、高級レストランなどから余った食材を集めてまわり、一方でホームレスの人々に調理技術を訓練し、集めた余剰食材を彼らが料理し、提供する、というソーシャルビジネス(社会的企業)がある。
(5)
自前のレストランで食事として出すほか、パーティーにケータリングもする。セレブの間では、たとえ一流レストランのケータリングより味は落ちても、この団体をパーティーに使うことが「社会意識の高い」ことの証明になっている。食材ゴミを減らし、ホームレスの就業支援にもなるからだ。
(6)
こうした「社会派」料亭は不可能か。利用客は画像の「秘密保持」を約束したうえで食事風景の撮影を許す。料理の賞味期限はあくまで料亭側が保障する。未使用の食材だけでなく、調理済みの料理にも、第2の流通経路を開く。寄付でもいいし、もしかしたら安く販売するほうがいいかもしれない。
http://www.nikkei.co.jp/neteye5/ishinabe/index.html
どうも、よくわかりませんな、頭のよい人の発想は。
そもそも、(1)が可能なんでしょうかねえ。画面に人を貼り付けておくような非経済的なことが、料亭にできるのか。
お客さんだって、カメラに撮れらるのはいやでしょう。むしろ、人権問題になるんじゃないの。いくら事前に了解を得ると言ってもねえ。
そもそもあたしだったら、楽しくない。そんなことされたら。よほど安くしてくれないと行きませんね。
(1)ができなけりゃ、この人のあとの提言は全部成り立ちません。
それと、(4)でアメリカの例が出ておりますが、もっと突っ込んで調べないと危ないのではないでしょうか。海外の例を単純に引用するのはとても危険なんです。文化や考え方、定義が違うことが多いから。
あまったものを処理するときの方法とか、顧客の受け止め方なんかどうなんでしょう。アメリカ人は大雑把だからあまり気にしないのかもしれませんがねえ。そのあたりをよく調べてからでないと、危うい議論なような気がします。
ともかく、この人の意見は頭で考えた策のようで、実現性ゼロではないでしょうかね。
実は、先月の末に田舎のお祖父さんの33回忌にでかけてきたのですが、そこで「もったいない」と思わされる経験を私はしました。
お坊さんに家に来てもらってお経を唱えてもらうわけです。それがひどい音痴でねえ。お経も唄と同じですね。朗々と詠んでくれると楽しく寝られるのですが。
それはともかく、30分くらいお経をみんなであげてから、中休みになったのです。そのとき、おこわが出た。おもしろい習慣ですよね。それを食べ終わるとまたお経が30分くらい続く。
お経が全部終わると、今度は近くの仕出屋さんに場所を変えて昼食をとりにいきました。いわゆるお斎(とき)というものですね。
これが凄いんだ。さしみ、えびの天ぷら、焼き魚、野菜の煮物、ごま豆腐、椀物、デザート、果物、それにもちろんビールや日本酒はついています。もう詳しくは覚えていませんが、とにかく一式出てくるわけ。
さっき、おこわを一膳たいらげたので、とても全部は食べられません。みんなも半分以上残しておりましたね。もったいないなあと、ケチ根性がつい出ましたが、さすがの私も腹が一杯で全然食べられない。
食事が終わって帰るころになると、女将さんがお膳の下にあるプラスチックのパックを引っ張り出した。
何をするのかと見ていると、食べ残し(生もの以外)をそれに詰め始めたんです。一人一人の膳のところでそれをやるんです。
そして、引き出物というのかな、お土産と共にそのパックを風呂敷に包んでくれました。
うちに帰って、家中で翌日の夜までおいしくいただきました。
こっちの方がよっぽど現実的だと思いますが、どんなものでしょうか。
想像するに、先ほどの石鍋委員の提言は、はじめにアメリカの事例が頭にあって、それを日本でどういうふうにしたらできるか、という逆算で出てきたものではないでしょうか。
だから、客から文句が出ないようにするために、カメラを取り付けようといったような発想がでてきたのではないでしょうか。
そのため、料亭の経済都合とか、お客さんの気持ちとかが、思考からすっぽり抜けてしまっている。部分最適解がちっとも役立たない例といえるのではないでしょうか。
人間行動を観る、人間を観るということがないと(いまの場合はお客さんだけでなく、料亭の人間行動もです)、実行可能な案にはならないような気がしますが。
昔は(私が子供の頃)、このような光景をよく目にしたような気がします。
まぁまだ、日本もそれ程豊かではありませんでしたからね。
現在では、食べ残したものを詰めてもらうように頼むと、
「ケチなヤツ」というような顔をされます。
使いまわし事件は店側にもありますが、そのような客側の意識にも
問題があるように思えるのですが、どうでしょうね・・・
コメントありがとうございます。
>「ケチなヤツ」というような顔をされます。
たしかにそういうことはあるでしょうね。
私の場合、女将が勝手にどんどんパックに入れて、もっていくのが当然という顔をしていましたので、なんとなくもって帰りました。
でも「どうなさいますか?」なんて聞かれたら、「いいです」とか言ったかもしれませんね。
うんとおいしければ、聞かれなくても「お願いします」ということになるんでしょうが。
そのあたりの、お客さんの気持ちもなかなか一筋縄ではいきませんよね。
もって帰るのが当たり前、という習慣になればいいんでしょうが……。