知的に障害をもつ子を「育てる」ということ
この手の思考というヤツは、療育というものの中でふと芽生えた疑問ということが出発点でした。
そのふと芽生えた疑問の実態をひもとくために、いろいろな人や書物などにあたり、その思考を広げていったワタクシであります。
しかし、知的障害児の育児論なんつ~ものは、やはり「発達のいい子」の保護者に説得力がある。
何を言っても、「じゃ、その反映された結果はいかに」となっていくわけです。
うちの娘は、本人の意志的行動の芽生えとその成長ぶりは、わたしには見事に思えていましたが、普通の子に照らし合わせて何ができる何ができないってコトになると、状況は悲惨なわけです。
ダウン症という「中度層」が多く、「軽度層」も存在する症候群の中で、現在深刻な合併症が無いという状況で、知的レベルは「重度」なわけですから。
ということで、実は説得力に欠ける。
これは困ったなあ、という部分がある。
わたしは別に、自分が「障害児の優秀な母親」として評価されたいわけではない。
「我が子のために」という言葉で、子どもの心をつぶさないで欲しいという例を見るのが悲しいだけなのです。
短いスパンで目に見える効果よりも、発達段階のその時期その時期において、「心を育てる」ことの方が大事なんではないかと思うということ。
本人が「伸びたい」と思う気持ちと意志を飛び越えたような急ぎ方は、危険が伴うということ。
障害を持って生きるのは、何よりも本人であるということ。
発達段階に応じた「心が育つ」ということを豊かに経験するということは、「大人になっていく」という階段を上るときに精神的な強さを伴うことができるということ。
目に見える効果を出し続けてきた方の、年齢が上がってからの精神的なつまずきというものは回復が困難で、状況が深刻だということ。
そうした実例を見てきたということ。
これを怖がらせずに相手に伝えようと思ったら、地道に「心を大事に」と言い続けるしかないわけで。
小さい子の親というのは、ただでさえ「成人した知的障害者」のイメージを、自分の子どもに持つことを怖がる傾向がある。
前向きに「大人にする姿」をイメージしていくためには、「マイナスを防ぐ」情報というよりは、「発達時期のひとつひとつを心豊かに過ごす」というふうに伝えた方がいいと、わたしは思うわけです。
告知・衝撃というトンネルから出た人たちには、光を目指して歩いて欲しい。
しかし、どうも娘の現在の姿は、「教育効果」を短いスパンで求める人には説得力に欠ける。
と、この堂々めぐりをくり返す。
そんな中、わたしは、娘に「ご褒美」をもらったような気がしました。
数日前に、娘は学校に30分、遅刻をしました。
位置検索の履歴をたどり、そして翌日、そのルートを実際に追いかけてみたわけです。
遅刻の直接的な原因は、通常、降りる駅に降りなかったことです。
この原因は、残念ながらわかりません。
本人にこの報告をできる言語能力はありません。
ぼーっとしてたのか、なんなのか。
電車は走ります。
次の駅、その次の駅と、電車は走っていく。
この二つの駅は、家族での外出時に乗降経験のある駅です。
そしてその次の駅、これは娘にとっては未経験の未知の駅です。
この未知の駅で娘は乗っていた電車を降り、自分の判断で上り線に乗り替え、本来降りるべき駅に行き、いつもとは違うホームからいつもの乗り替えホームに移動し、自力で学校に到着しているわけです。
そのために、学校到着時刻は30分、ずれた、と。
位置検索のデータで見ると、娘にとっては未知の駅での乗り替えにかかった時間に、全くロスはありません。
迷って途方にくれた時間というものが存在しない。
駅員室に行って話を聞いてみましたが、それらしい報告も入っていませんでした。
つまり、第三者に支援を受けた形跡が無いのです。
その時刻のその駅のホームは人が少ないので、誰かに支援を受けていたら駅員が見過ごすわけはないでしょうし、学校にも連絡が入っていないということで、自力でトラブルを脱し、行動の修正をかけていると推測できます。
幸運なことに、この駅はホームの片側が上り、片側が下りという構造で、乗り換えに階段の乗降等の必要が無かった。
そしてその構造は、降りたひとつ前の、娘がよく知っている駅と同様で、そのことを材料に判断したようです。
(最寄り駅、乗換駅は、階段を上らないと反対車線には行けません)
乗換駅ではホームがいつもと違う場所でも、乗換のために階段を上って、自分の行くべき乗り換えホームを正確に判断しています。
降りるべき駅で降りないのは困る。
それでも「上り線」という言葉も「下り線」という言葉も発語できない娘が、偶然性が高いとはいえ、本人自身の意志で立派に生活スキルとしてやってのけたこと。
彼女の手帳の判定、IQの数値を伝えただけでは多分誰も信じないでしょう。
しかし娘を実際に知っている人は、驚きながらもこの「自力での判断」に納得すると思います。
トラブルは困る。
でも、生きていればトラブルは発生する。
そうしたものを主体的に、自分を行動の主体と認識して解決していこうとする意志の力。
今回は結果として、幸運が重なったかもしれない。
失敗をすることがあるかもしれない。
しかし「主体的に行動する意志を持つこと」というのは、教えようと思って教えられることではないわけです。
経験と環境により、積み上げられて、本人自身が獲得しようとしなければ獲得できないことなわけです。
わたしが育てようとしているものが育っているということの片鱗を感じる出来事でした。
これはわたしにとっては何よりの「ご褒美」でした。
この手の思考というヤツは、療育というものの中でふと芽生えた疑問ということが出発点でした。
そのふと芽生えた疑問の実態をひもとくために、いろいろな人や書物などにあたり、その思考を広げていったワタクシであります。
しかし、知的障害児の育児論なんつ~ものは、やはり「発達のいい子」の保護者に説得力がある。
何を言っても、「じゃ、その反映された結果はいかに」となっていくわけです。
うちの娘は、本人の意志的行動の芽生えとその成長ぶりは、わたしには見事に思えていましたが、普通の子に照らし合わせて何ができる何ができないってコトになると、状況は悲惨なわけです。
ダウン症という「中度層」が多く、「軽度層」も存在する症候群の中で、現在深刻な合併症が無いという状況で、知的レベルは「重度」なわけですから。
ということで、実は説得力に欠ける。
これは困ったなあ、という部分がある。
わたしは別に、自分が「障害児の優秀な母親」として評価されたいわけではない。
「我が子のために」という言葉で、子どもの心をつぶさないで欲しいという例を見るのが悲しいだけなのです。
短いスパンで目に見える効果よりも、発達段階のその時期その時期において、「心を育てる」ことの方が大事なんではないかと思うということ。
本人が「伸びたい」と思う気持ちと意志を飛び越えたような急ぎ方は、危険が伴うということ。
障害を持って生きるのは、何よりも本人であるということ。
発達段階に応じた「心が育つ」ということを豊かに経験するということは、「大人になっていく」という階段を上るときに精神的な強さを伴うことができるということ。
目に見える効果を出し続けてきた方の、年齢が上がってからの精神的なつまずきというものは回復が困難で、状況が深刻だということ。
そうした実例を見てきたということ。
これを怖がらせずに相手に伝えようと思ったら、地道に「心を大事に」と言い続けるしかないわけで。
小さい子の親というのは、ただでさえ「成人した知的障害者」のイメージを、自分の子どもに持つことを怖がる傾向がある。
前向きに「大人にする姿」をイメージしていくためには、「マイナスを防ぐ」情報というよりは、「発達時期のひとつひとつを心豊かに過ごす」というふうに伝えた方がいいと、わたしは思うわけです。
告知・衝撃というトンネルから出た人たちには、光を目指して歩いて欲しい。
しかし、どうも娘の現在の姿は、「教育効果」を短いスパンで求める人には説得力に欠ける。
と、この堂々めぐりをくり返す。
そんな中、わたしは、娘に「ご褒美」をもらったような気がしました。
数日前に、娘は学校に30分、遅刻をしました。
位置検索の履歴をたどり、そして翌日、そのルートを実際に追いかけてみたわけです。
遅刻の直接的な原因は、通常、降りる駅に降りなかったことです。
この原因は、残念ながらわかりません。
本人にこの報告をできる言語能力はありません。
ぼーっとしてたのか、なんなのか。
電車は走ります。
次の駅、その次の駅と、電車は走っていく。
この二つの駅は、家族での外出時に乗降経験のある駅です。
そしてその次の駅、これは娘にとっては未経験の未知の駅です。
この未知の駅で娘は乗っていた電車を降り、自分の判断で上り線に乗り替え、本来降りるべき駅に行き、いつもとは違うホームからいつもの乗り替えホームに移動し、自力で学校に到着しているわけです。
そのために、学校到着時刻は30分、ずれた、と。
位置検索のデータで見ると、娘にとっては未知の駅での乗り替えにかかった時間に、全くロスはありません。
迷って途方にくれた時間というものが存在しない。
駅員室に行って話を聞いてみましたが、それらしい報告も入っていませんでした。
つまり、第三者に支援を受けた形跡が無いのです。
その時刻のその駅のホームは人が少ないので、誰かに支援を受けていたら駅員が見過ごすわけはないでしょうし、学校にも連絡が入っていないということで、自力でトラブルを脱し、行動の修正をかけていると推測できます。
幸運なことに、この駅はホームの片側が上り、片側が下りという構造で、乗り換えに階段の乗降等の必要が無かった。
そしてその構造は、降りたひとつ前の、娘がよく知っている駅と同様で、そのことを材料に判断したようです。
(最寄り駅、乗換駅は、階段を上らないと反対車線には行けません)
乗換駅ではホームがいつもと違う場所でも、乗換のために階段を上って、自分の行くべき乗り換えホームを正確に判断しています。
降りるべき駅で降りないのは困る。
それでも「上り線」という言葉も「下り線」という言葉も発語できない娘が、偶然性が高いとはいえ、本人自身の意志で立派に生活スキルとしてやってのけたこと。
彼女の手帳の判定、IQの数値を伝えただけでは多分誰も信じないでしょう。
しかし娘を実際に知っている人は、驚きながらもこの「自力での判断」に納得すると思います。
トラブルは困る。
でも、生きていればトラブルは発生する。
そうしたものを主体的に、自分を行動の主体と認識して解決していこうとする意志の力。
今回は結果として、幸運が重なったかもしれない。
失敗をすることがあるかもしれない。
しかし「主体的に行動する意志を持つこと」というのは、教えようと思って教えられることではないわけです。
経験と環境により、積み上げられて、本人自身が獲得しようとしなければ獲得できないことなわけです。
わたしが育てようとしているものが育っているということの片鱗を感じる出来事でした。
これはわたしにとっては何よりの「ご褒美」でした。
私としては、「生活力は教育効果によるもの」と思いたいです。最初のコメント時では自分にどれだけ出来るかなぁ。と少し不安はありましたが、プレッシャーというよりは、方法論がよく分かってない事への不安だったように思います。
私はSさんの「ふむ」を「育てたわけではない」と取ってしまってました。
コメントを読んで、「げ」って思いませんでした。
なんていうか、嬉しかったです。(ちょっと違う気もしますが、うまい言葉が見つかりません。)
>母が「平穏な心境」にいるってことが、「子どもが育つ」ってことにはとても重要なんだから。
う~ん、そうか、そうですね。一つ波を越えた今、とっても心に響きました。
歩くの、楽しみにしたいと思います。
なので自分にどれだけできるか、という問題もあったりしますが・・・。
>「生まれつきある程度決まってる。なんて言いながら、生活力は教育効果によるもの、と思いたい自分がいたんだな。」と気付いて暫く心がさまよっていました。
おいおいおいおい。
どっちなんだ? どっちなんだ? どっちなんだ?
「生活力は教育効果によるもの」と思いたいのか?
「生活力は自然に育つもの」と思いたいのか?
わたしはこのコメント入れたときは「教育しなければならない」「そういう親にならなければならない」プレッシャーが存在するのではないかと、とらえました。
だから「本人の個性」面からのレスを入れました。
本当は「生活力は教育効果によるもの」と思いたいのか?
それならそういう方向でのレスを入れたのに。
では、正解はどっちか?
どっちだっていいんだよ。
それが自分にとって「平穏な答」ならね。
あなたが「こっちだ」と思いたい方に、わたしは持っていきたいのよ。
ある意味、どっちだって、正解だと思うから。
母が「平穏な心境」にいるってことが、「子どもが育つ」ってことにはとても重要なんだよ。
そこで子どもは安心して、「意欲」を持って生きるってことを楽しんで、「生きる力」を作っていくんだよ。
母の気持ちが波立っているところに、「正解」は育ちにくいんだよ。
波立っているときは「正解」を見つけるときではなくて、自分の波を見つめて、その波自体から拾えるものを待つときだと思う。
さて。
もう、どっちだっていいのなら、わたしは気遣いということをやめて、持論を展開。
「生活力」は、育てられると思う。
日々を楽しむということ、意欲を持って、欲を持って行動するということが常態になること。
それが「生活力」を育てていくと思う。
「生活力」だの「生きる力」だのってのは、本人の能動性がからんでくる。
これは要するに「お子様」にしないってこと。
適度に生活上起きてしまう「冷遇」に関しても、「アリ」って思うことだとわたしは思う。
なんでもかんでも先回りされて溺愛されていては「生活力」も「生きる力」も育たない。
つまり、「テキトーなママ」ってのは、このことに対して「利」に働くと思う。
そして、具体的なことで言えば、外出をたくさん。
社会に出るということを、たくさん経験する。
自家用車に頼らない、公共の交通機関にたくさん乗せる。
そうそう、こんなとこにあげたのも、具体的なことかもしれない。
http://blog.goo.ne.jp/satomies/e/4f7c8c83778ddbb5861874f8747fdbc4
で、こんなこと言われると、「げ」って思う?
そうしたらね、「はは~ん」って思ってればいいんだよ。
正解なんて、無いんだから。
母が「平穏な心境」にいるってことが、「子どもが育つ」ってことにはとても重要なんだから。
ダウン症の子は、「歩くまで」の時期が長い。
普通の子がたったか歩くのを、ぼーっと眺めてなきゃならないから、余計に長い。
「歩くまで」の時期は、普通の子に比べて、いたずらなんてのも特に手を焼くほどのこともない。
やっても「あらあら(にっこり)♪」なんて余裕は、なんというか「売る」ほどある。
「かわいい」と思いつつ、煽られることも少ないから、ふっと虚を突かれるようなタイミングで不安を持つ。
早いとか遅いとか関係無く、歩くのを楽しみにしていてください。
歩くからどうってことではなく、歩き始めるとばば~~っと本人の個性があふれ出す。
そうやって本人自身の個性ってものがその子なりに主張を始めてああそうかって思って。
このとき、何かが変わる。
お楽しみに。
Sさんのコメント読んで、自分の中で
「生まれつきある程度決まってる。なんて言いながら、生活力は教育効果によるもの、と思いたい自分がいたんだな。」と気付いて暫く心がさまよっていました。
娘が1歳を過ぎた頃から、健常児との差が顕著になってきたこともあるんでしょうか、“「成人した知的障害者」のイメージを、自分の子どもに持つことを怖がる”まさに暫くこの状態でした。
今は気持ちが安定していますが、これからも上がったり下がったりなのかなぁ。って気がします。
子供自身はいつも変わらず楽しそうに笑ってるんですけどね。彼女のありのままを受け止められるようになりたいなぁ。と思うこのごろです。
以前リンクさせてもらった記事にトラックバック送らせてもらいます。トラックバックした事なくて躊躇してたんですが、他に送りたい記事が出てきた時に、最初のトラックバックは希望をくれたブログにしたいと思いまして。
ふむ。
でも厳密に言えば、「娘の個性がわたしに要求したやり方」ではあるんですよね。
まず、「教えられること、導かれること」が嫌い。
人の言うこと、聞かない。
自分でやりたいこと、やる。
で、自分のやりたいこと、やるってことができるように、道筋引いてやったというか。
あとは、「普通の子を育てるときにやること」ってのをやる。
特別扱いしない、ってことかな、とも思う。
「普通の子を育てるときにやること」に時間がかかることにメゲナイというか。
いや~~、真面目に言うと、
ホント、わたしは彼女の個性に「従ってきた」だけなのよね。
その「本人の自主性が伸びる」こと、それがわたしには、とてもうれしかったというかね。
何ができるとかってことよりも、「本人が自分をもつ」ってことがうれしかったし、伸ばしてやりたかったかな。
>最近こちらの記事へのリンクを貼らせてもらいました。
はい、拝見しました~~。
実はね、
最初にコメント入れたときから、
「あ、これはウチのことだ・・・」と思ってたのはナイショ(笑)。
「親」ということだけにとらわれず、たくさん「自分」を楽しんでくださいね。
それが、「障害児を育てる」上で、視野を狭くしない、楽しんで生活できるポイントだと、わたしは思いますよ。
1才3ヶ月のダウン症児の母です。
>しかし、知的障害児の育児論なんつ~ものは、やはり「発達のいい子」の保護者に説得力がある。
一般的にはそうなんだぁ。と少し驚きました。
私自身は発達の度合いは生まれつきある程度決まっているんじゃないかと感じていて。
療育や教育である程度は伸びるんだろうけど、「発達のいい子」の親御さんの「これだけやったのでこれだけできます」という記事を読むと、
元々、打てば響く素質を持った子だったんだろうなぁ。と感じてしまいます。
我が子はまだ小さいけど、最近発達が良い方でないのを感じてきて不安でいた時に、
ココを訪れて、娘さんの“生活力”の高さにすごく勇気を貰ったのでした。
その“生活力”はS嬢さんが養ったものなんですよね。
なので自分にどれだけできるか、という問題もあったりしますが・・・。
最近こちらの記事へのリンクを貼らせてもらいました。
でもブログってリンクフリーなものなんですね。
こういう報告って、もしかして野暮なのでしょーか。
訳も分からずブログに手を出したので、ココでブログの方も勉強させてもらってます。
玉井さん、
えっと、日本ダウン症協会の理事長の玉井邦夫氏。
彼、よく、NHKの療育や障害児・者関係の番組に出てくるんですが。
「父親」でもあるんだけれども、「専門家」でもあるのでね。
いいですよ~~、あの方の子育て。
「障害」というものを人間がどうとらえるか、その歴史的発生はどんなものか、とか、そういった視点も持っていて、その上で「気張らない父親」でもある。
そうそう、そういえば。
就学相談に関わっていらした時のお話で。
障害の状態からいって、明らかに養護学校判定の子に対して、就学指導で「通常学級」という判定が出たことがあるというお話を聞いたことがあります。
この自治体は地方だったので、養護学校が遠方で全寮制だったのだそうで。
それで親御さんが「手放したくて」養護学校を希望されたのが明かだったので、「家庭で育つ」ことを優先させた方がいいということになったと。
そういうことも、就学の場を選ぶときの「個々の状況差」なんだろうなと。
>私自身のどこかにそんな思いもあるのかも知れません。それも辛いです。
こうした感覚は、就学後に抜けてきます。
そんな自分を発見することも、楽しみにしていてください。
わたしはねえ、なんか、忘れていましたよ。
この記事にあげたようなことを、一番考えていたのは、やっぱり幼児期ですね。
それで、なんか遠い昔を懐かしむような感じもありましたね。
今回、なんか、
「アンタってすごいじゃん」とか娘に対して思った。
で、そういう環境って作ってきたのって、わたしじゃん、とか、ちょっと思ったんですよね、自己満で。
ウチのね、4歳で1人でバスに乗っちゃったことがあって。
交番に保護されたんですわ、2歳児くらいにしか見えない4歳児。
そのとき、(ああ、そうかい、騒ぎ起こすほどひとりで行動したいかい)って思って、コンビニから自由行動をさせ始めて。
ドラッグストア、大手スーパーって、だんだん場を広げていって。
車よりも公共の交通機関を使わなきゃって、このバス事件で思って。
コレやりたいかい? じゃ、させてあげるよ、まずこの範囲でって。
そういうことから本当に多くのことを学んでくれていたんだなあと、なんかすごく感慨だったんですよね。
本人がやりたがることを、どう支援を工夫し、やらせてやるか。
そしてそこから本人自身が何を学び出すか。
ってのは、実はわたしが娘に教えられた価値観なんですよね。
まあ、今のところそんなに赤の他人と接する機会も少ないのですが、私自身のどこかにそんな思いもあるのかも知れません。それも辛いです。
すみません、まとまらないコメントでした。