S嬢のPC日記

2004年から2007年まで更新を続けていました。
現在ははてなで活動しています。

「自分自身を愛する」

2005年04月04日 | 書籍紹介
「自分自身を愛する」

’85年の出版です。
著者はルター派教会牧師のドイツ人。
翻訳者は東京江戸川の教会牧師と記されています。
キリスト教の教えに基づいた書籍です。
わたし自身はキリスト教とは、特に縁がありません。
そうした、「キリスト教とはほとんど無縁」と言っていいわたしがこの本を購入したのは、本屋でそのタイトルにちょっとした興味を持ち、ぱらぱらと立ち読みして、「自分のものにしたい」と思ったためです。

「自分のものにしたい」と思ったその理由は、まず前書きの文中にある記載がありまして。
この本を見つけるずっとずっと前、記憶では確か中2の時だと思うのですが。
「エゴイズムって、悪い言葉なの? 自分を大事にしなきゃ全て始まらないんじゃないの?」と思ったことがありまして。
このはるか前に持った疑問の答が、この本の前書き部分に簡単な語句で、すぱーんと書かれていたからです。
自己愛と利己愛(主義)のちがい、自己受容と自己中心のちがい
そして、本文第一章冒頭に「自分を愛する -loving myself- 」という詩が載っていて、これにとても関心を持ったからです。
以下、この書籍の冒頭にあるこの詩の部分だけ、引用。
自分を愛する -loving myself-

ぼくがきみを
自分よりも愛するなら
ほんとは、きみなんか、愛してないんだよ
きみより自分を愛するくらいでないと
ぼくは自分で きみに 愛してもらうことを
むずかしくしてしまうのだ
きみのぼくへの愛は
ぼくが自分を愛するかどうかに
おおきく左右されてしまう
それに
ぼくのきみへの愛も
きみが ぼくのことを愛してくれるように 自分のことを愛しているときに
ずっと ずっと 強くなるんだよ
ウーリッチ・シェイファー
わたしにとって購入の二つの理由になった「語句と詩」、あなたはどう感じるのでしょうか。
以上、「ブログを使った新しい情報コミュニケーション」の一例 のコメント欄からの発展記事です。

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6 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
前書きが・・ (あ・うん)
2005-04-04 19:29:20
Sさん こんばんは。



>自己愛と利己愛(主義)のちがい、自己受容と自己中心のちがい



私もキリスト信者じゃないのですが、これにはドッキリさせられました。

自己愛と利己愛、自己受容と自己中心の違いですか・・

興味があったので、さっそく本を注文しました。読んでみます。

ついでに、森瑤子さんの「恋愛論」ってのも頼んじゃいました。面白そうだったので。

「~論」というのは、あまり好きじゃないのですが、今の私に何かしらプラスになるかも?と思えたので。



Sさんの日記、内容が濃くてコメントするのはとっても気が引けます。(^^;

こんな勉強不足の私ですが、今後も読まさせてもらいます。頑張ってくださいね。
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Unknown (S嬢)
2005-04-04 20:39:32
今回調べて「へー」って思ったのが、この本、まだ普通に買えるんだなあってこと。

わたしが所持しているものは、すでに「真っ黄色」の古本です。

別に宣伝されたわけでもなく、山積みになっていたわけでもなく、本屋の書棚にめりこんで入ってた本なんですけどね。

でも、いまだに買えるってのは、やっぱりキリスト教本なんでしょうね。

要するに、宗教集団をバックに、絶版にならない程度には、増刷が続くのかな。

キリストは、とか、聖書は、とか続くけれど、大事なことはきちんとおさえてる本だとは思います。

この本の中のピカ一の部分は、この詩だとは思うけどね。



>内容が濃くてコメントするのはとっても気が引けます。(^^;



はっはっは。

いや、個人の「思考・表現遊び」ツール。

好き勝手なこと言ってる、かなり楽しいオモチャであります。
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Unknown (ののか)
2006-03-29 19:41:09
えらい過去記事にコメントしますが…。

S嬢さんの書籍紹介のカテゴリーの中にあったよなあ、と思って探していたら、いいものを見つけてしまいました。

最近、自己愛ってなんだろうと考えていたので。



自分の行動の動機って、他人に対する罪悪感から始まることが多いような気がするのです。

他人には「無理しないで」と言いながら、自分は無理をする。

他人には「自分を責めないで」と言いながら、自分は私を責めている。

何かそれって、歪んでいないかと思うのですけれど。



冒頭の詩は、最初しっくりこなかったのですが、「ぼく」を「わたし」に、「きみ」を「あなた」にして声に出して読むと、少し詩の持つ意味が近づいてきたような気がします。
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Unknown (S嬢)
2006-03-29 20:11:58
本当はね、この世界の中で「人間」はあなた一人だけなの。

あとはね、実は「人間」ではないの。

もとは人間だったけれど、実はみな、それぞれの血を吸っていった吸血鬼なの。

あなたはずーっと安全なの、だって、最後の残された一人だから誰も手が出せないの。



と、いう「仮定」、どう思う?

これは確か、星新一のショートショートの中にあった題材。



自分自身の存在は知っている。

ただ、自分以外の人間の存在に関しては?

自分以外の人間の存在に関しては、「存在を信じる」ことでしか証明できない。

人間一人が「感じる」ことができる「存在」とは、実は自分自身だけなのだと思うのですよね。



自分以外の人間の「存在を信じる」ためには、「感じることのできる存在」である自己が、まずしっかりと立っていなければならない。

と、いうことなんだと思う。



自己愛とは。

自分の呼吸をいとおしむ。

自分が感じるものをいとおしむ。

自分の体をいとおしむ。

自分の存在をいとおしむ。

そうした「絶対評価」がスタートになるのだと思う。



>他人には「無理しないで」と言いながら、自分は無理をする。

>他人には「自分を責めないで」と言いながら、自分は私を責めている。



この「無理しないで」と「自分を責めないで」という言葉は、通常、二面性の意味があると思いますね。

わたしはこの二つの語のあとに「迷惑だから」という言葉が備わったときには、文字通り、「了解」としか受け取りません。

しかし、「迷惑だから」という言葉が伴わないときには、「無理して欲しい」「自省して欲しい」という要素を見出すことはありますね。

そして、それが妥当であり、可能であり、という場合においては、その「しないで」と反対の意味の要請と受け取った行動を開始します。
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Unknown (ののか)
2006-03-29 21:58:23
「仮定」に対して最初に思ったのは「安心感」です。

とてもこわい「仮定」なのに、何故そういう風に感じるのかなと思いました。



それは多分、「誰からも評価されることがない」という安心感なのかなと思います。

他者の評価を気にしなくてもよいという安心感。

自分が感じることを信じてもよいのだという安心感。



自分が感じるもの、自分の存在さえも、時には価値のないものだと思ってしまう。

それは、他者と比べてしまうからだと思うのです。



誰も私のことを評価しているわけではないのに。



「無理しないで」「自分を責めないで」というのは、そういう人を見ると

自分を見ているようで苦しいからです。

まず自分を救ってあげなくちゃね、と思います。
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Unknown (S嬢)
2006-03-30 11:04:15
実はね、この仮定、わたしは子ども時代にすでにやっていたんですよね。

星新一のショートショートを読んだときに、まあ同じようなことを考える人がいるんだ、なんて思った。

吸血鬼だのなんだのってのは無かったんだけれど、世界というものに対しての疑問という思考が発端だった。



他者の存在の証明、というのは「信じる」ということしか答が見つからないんですよ。

だから、自分という基点が無ければ始まらないんじゃないかな、と、思った。



その発想の動機や、そこに見出したのが安心感だったかどうか、という記憶は無いんですけどね。

大きくなっても、答はずっと同じだった、という話、かな。
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