「自分自身を愛する」
’85年の出版です。
著者はルター派教会牧師のドイツ人。
翻訳者は東京江戸川の教会牧師と記されています。
キリスト教の教えに基づいた書籍です。
わたし自身はキリスト教とは、特に縁がありません。
そうした、「キリスト教とはほとんど無縁」と言っていいわたしがこの本を購入したのは、本屋でそのタイトルにちょっとした興味を持ち、ぱらぱらと立ち読みして、「自分のものにしたい」と思ったためです。
「自分のものにしたい」と思ったその理由は、まず前書きの文中にある記載がありまして。
この本を見つけるずっとずっと前、記憶では確か中2の時だと思うのですが。
「エゴイズムって、悪い言葉なの? 自分を大事にしなきゃ全て始まらないんじゃないの?」と思ったことがありまして。
このはるか前に持った疑問の答が、この本の前書き部分に簡単な語句で、すぱーんと書かれていたからです。
以下、この書籍の冒頭にあるこの詩の部分だけ、引用。
以上、「ブログを使った新しい情報コミュニケーション」の一例 のコメント欄からの発展記事です。
’85年の出版です。
著者はルター派教会牧師のドイツ人。
翻訳者は東京江戸川の教会牧師と記されています。
キリスト教の教えに基づいた書籍です。
わたし自身はキリスト教とは、特に縁がありません。
そうした、「キリスト教とはほとんど無縁」と言っていいわたしがこの本を購入したのは、本屋でそのタイトルにちょっとした興味を持ち、ぱらぱらと立ち読みして、「自分のものにしたい」と思ったためです。
「自分のものにしたい」と思ったその理由は、まず前書きの文中にある記載がありまして。
この本を見つけるずっとずっと前、記憶では確か中2の時だと思うのですが。
「エゴイズムって、悪い言葉なの? 自分を大事にしなきゃ全て始まらないんじゃないの?」と思ったことがありまして。
このはるか前に持った疑問の答が、この本の前書き部分に簡単な語句で、すぱーんと書かれていたからです。
自己愛と利己愛(主義)のちがい、自己受容と自己中心のちがいそして、本文第一章冒頭に「自分を愛する -loving myself- 」という詩が載っていて、これにとても関心を持ったからです。
以下、この書籍の冒頭にあるこの詩の部分だけ、引用。
自分を愛する -loving myself-わたしにとって購入の二つの理由になった「語句と詩」、あなたはどう感じるのでしょうか。
ぼくがきみを
自分よりも愛するなら
ほんとは、きみなんか、愛してないんだよ
きみより自分を愛するくらいでないと
ぼくは自分で きみに 愛してもらうことを
むずかしくしてしまうのだ
きみのぼくへの愛は
ぼくが自分を愛するかどうかに
おおきく左右されてしまう
それに
ぼくのきみへの愛も
きみが ぼくのことを愛してくれるように 自分のことを愛しているときに
ずっと ずっと 強くなるんだよ
ウーリッチ・シェイファー
以上、「ブログを使った新しい情報コミュニケーション」の一例 のコメント欄からの発展記事です。
>自己愛と利己愛(主義)のちがい、自己受容と自己中心のちがい
私もキリスト信者じゃないのですが、これにはドッキリさせられました。
自己愛と利己愛、自己受容と自己中心の違いですか・・
興味があったので、さっそく本を注文しました。読んでみます。
ついでに、森瑤子さんの「恋愛論」ってのも頼んじゃいました。面白そうだったので。
「~論」というのは、あまり好きじゃないのですが、今の私に何かしらプラスになるかも?と思えたので。
Sさんの日記、内容が濃くてコメントするのはとっても気が引けます。(^^;
こんな勉強不足の私ですが、今後も読まさせてもらいます。頑張ってくださいね。
わたしが所持しているものは、すでに「真っ黄色」の古本です。
別に宣伝されたわけでもなく、山積みになっていたわけでもなく、本屋の書棚にめりこんで入ってた本なんですけどね。
でも、いまだに買えるってのは、やっぱりキリスト教本なんでしょうね。
要するに、宗教集団をバックに、絶版にならない程度には、増刷が続くのかな。
キリストは、とか、聖書は、とか続くけれど、大事なことはきちんとおさえてる本だとは思います。
この本の中のピカ一の部分は、この詩だとは思うけどね。
>内容が濃くてコメントするのはとっても気が引けます。(^^;
はっはっは。
いや、個人の「思考・表現遊び」ツール。
好き勝手なこと言ってる、かなり楽しいオモチャであります。
S嬢さんの書籍紹介のカテゴリーの中にあったよなあ、と思って探していたら、いいものを見つけてしまいました。
最近、自己愛ってなんだろうと考えていたので。
自分の行動の動機って、他人に対する罪悪感から始まることが多いような気がするのです。
他人には「無理しないで」と言いながら、自分は無理をする。
他人には「自分を責めないで」と言いながら、自分は私を責めている。
何かそれって、歪んでいないかと思うのですけれど。
冒頭の詩は、最初しっくりこなかったのですが、「ぼく」を「わたし」に、「きみ」を「あなた」にして声に出して読むと、少し詩の持つ意味が近づいてきたような気がします。
あとはね、実は「人間」ではないの。
もとは人間だったけれど、実はみな、それぞれの血を吸っていった吸血鬼なの。
あなたはずーっと安全なの、だって、最後の残された一人だから誰も手が出せないの。
と、いう「仮定」、どう思う?
これは確か、星新一のショートショートの中にあった題材。
自分自身の存在は知っている。
ただ、自分以外の人間の存在に関しては?
自分以外の人間の存在に関しては、「存在を信じる」ことでしか証明できない。
人間一人が「感じる」ことができる「存在」とは、実は自分自身だけなのだと思うのですよね。
自分以外の人間の「存在を信じる」ためには、「感じることのできる存在」である自己が、まずしっかりと立っていなければならない。
と、いうことなんだと思う。
自己愛とは。
自分の呼吸をいとおしむ。
自分が感じるものをいとおしむ。
自分の体をいとおしむ。
自分の存在をいとおしむ。
そうした「絶対評価」がスタートになるのだと思う。
>他人には「無理しないで」と言いながら、自分は無理をする。
>他人には「自分を責めないで」と言いながら、自分は私を責めている。
この「無理しないで」と「自分を責めないで」という言葉は、通常、二面性の意味があると思いますね。
わたしはこの二つの語のあとに「迷惑だから」という言葉が備わったときには、文字通り、「了解」としか受け取りません。
しかし、「迷惑だから」という言葉が伴わないときには、「無理して欲しい」「自省して欲しい」という要素を見出すことはありますね。
そして、それが妥当であり、可能であり、という場合においては、その「しないで」と反対の意味の要請と受け取った行動を開始します。
とてもこわい「仮定」なのに、何故そういう風に感じるのかなと思いました。
それは多分、「誰からも評価されることがない」という安心感なのかなと思います。
他者の評価を気にしなくてもよいという安心感。
自分が感じることを信じてもよいのだという安心感。
自分が感じるもの、自分の存在さえも、時には価値のないものだと思ってしまう。
それは、他者と比べてしまうからだと思うのです。
誰も私のことを評価しているわけではないのに。
「無理しないで」「自分を責めないで」というのは、そういう人を見ると
自分を見ているようで苦しいからです。
まず自分を救ってあげなくちゃね、と思います。
星新一のショートショートを読んだときに、まあ同じようなことを考える人がいるんだ、なんて思った。
吸血鬼だのなんだのってのは無かったんだけれど、世界というものに対しての疑問という思考が発端だった。
他者の存在の証明、というのは「信じる」ということしか答が見つからないんですよ。
だから、自分という基点が無ければ始まらないんじゃないかな、と、思った。
その発想の動機や、そこに見出したのが安心感だったかどうか、という記憶は無いんですけどね。
大きくなっても、答はずっと同じだった、という話、かな。