S嬢のPC日記

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明日に向かって

2005年11月03日 | つぶやき
若いときに、どんな格好をして、どんなことをしていたか。
これは、年齢を重ねたときに、どんな風に出ていくのだろう。

歌番組を見ていてよく思うのは、お若い方は髪型が汚いなあということ。
汚い、というか、だらしがない。
顔の半分にばさばさと前髪がかかっていたり、カットがばさばさと不揃いだったりする。
「社会人として生きる普通の人」があの髪型で職場に行ったら、ただの寝癖扱いをされかねない、と思ったりする。
それを見ながら、思う。
これが「若さ」というものだ、と。
人生の中で不安定な時代にいる立場だからこそ、できるスタイルがあるのだ、と。
汚いのは髪の形で、その髪の形をもって「表現体」として存在する姿は、汚らしくないのだから。

若いときは、その個性なりのやり方で、形のあるものを「崩す」ことに挑戦すべきだ、と、わたしは思う。
特に、何かに所属するという場に行き着いていない時代は、その挑戦を楽しむべきだと、わたしは思う。

その上で。
既製の形を崩しても崩しても、崩れてしまわない何かを身につけている「若さ」は、美しい。
それは、例えていうなら、色褪せたジーンズに白いTシャツにダイヤのピアスのようなものだと、わたしは思う。
この「ダイヤのピアスのようなもの」は、例えば物事に対しての姿勢だったり、考え方だったり、そして若さゆえの見栄だったり、自分の身の丈にそぐわない、がんばった背伸びのようなものだったりする。
少なくとも、20歳くらいの僕は、そういうシチュエーションに置かれたら、「すぐに読めて、面白いであろう椎名誠」よりも「たぶん本棚の飾りにしかならないが、持っていると文学青年っぽくて、自分にとって読むべき本だと思っているプルースト」を買っていたのだ。
若さの中で、わたしは例えば「プルースト」という選択は、とても好きだ。
こうしたアイテムにどんどん手を出し、自分の身の丈に背伸びをし。
それは年輪を重ねて、身の丈がわかるゆとりを手に入れたときに、うまい具合に発酵し、上等な酒になるだろう。
年輪を重ねて楽なものを手にしたときに、この上等な酒を身につけているかそうでないかは、確実な差となって現れるような気がする。
既製の概念にとらわれない本物を、見分ける目というものも身につけられるだろう。

過去の若さをひとつひとつ失ってはきたが、この先の人生の中では、わたしは今が一番若い。
失った向こう見ずや、過去の自分の無理な背伸びに微笑みながら、この先の人生に上等な酒を用意するために背筋をぴんと張り、わたしはまだまだ自分にできる背伸びをしたい。

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