S嬢のPC日記

2004年から2007年まで更新を続けていました。
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「変」なのは、ダメですか?

2005年11月10日 | 自力通学
 娘の自力通学ですが、最近、驚くほど安定しています。
自力通学カテゴリ に上げたような数々の「冒険歴」への挑戦も、すっかりなりをひそめました。最後の自主的な「冒険」は、「ご褒美」の記事に出した「未知の駅で降り、自分の意志で反対方向の電車に乗り換えてルート修正をし、30分遅れで登校」になっています。
 昨日、学校からの連絡帳に、娘の電車の中での「行動」に対しての「指導の必要」が書かれてきました。娘の通学中の電車の中での様子が、「電車の中を歩き回る」ということで。
 はいはい、これはわたしは「既知」なんですよね、気づいていないわけじゃなく。なんでだか、あの方は、登校中の電車の中で、車両の中を歩き回る。ある程度歩き回ると、ちゃんと一箇所にとどまったりするのですが、乗ってしばらくの間は、なんでかわからんが、ずんずんと歩き回る。
 わたしはこれを「情報収集活動」と容認。本人が本人なりに「情報収集活動」を行い、そして「あれがこの行動の成果だったのか」ということは、これまでにたくさんあった。この「情報収集活動」は、活動中においては「わたしの理解を超える行動」であることは、よくあるんですよね。だから、もう、「情報収集活動中」に関しては容認傾向が強くなってきているわけです。
 実際、電車通学を始めてから、突然の遅延や電車事故でのストップもあった。先月にも一度、あったんですよね。でも、何の問題もなく対処してる。これは日常の電車通学の中で、本人が「情報収集活動」を行ってきた結果であると、わたしは解釈しているんですよね。実際、誰の支援も受けずに、単独で対処しているんですから。
 登校中の電車の中で、「普通の人が一箇所にとどまり、静かに立っているのが普通」であるところを「歩き回るのは変だ」ということがある。これは当たり前のことなんだと思う。
 でもね、
多少「変」でも、いいじゃないか、とも思うんですよね。本人にとって「動機」がある行動なら、その「動機」自体が満足すれば止まるだろ、と思う。実際、やたらに動いてから「止まる」んですよね。
わかっていることは、わたしにはその「動機」がわからない、ってことなんですよね。でも、本人にはわかってるんだろ、と思う。
わたしが娘本人だったら、わたしの「動機」もわかんないくせに、行動の結果だけでごちゃごちゃ言わんで欲しい、と思うと思う。だからもしも「親」がその行動を注意しても、「親」がそばにいなきゃ、やる、でしょうね。
 だから、わたしは容認する。この程度の「容認」くらい受け入れる社会であって欲しいと思うんですが、ダメなんでしょうかねえ。
 わたしは娘に、別に「普通」にならなくったって、いいと思うんですよね。「変」なら「変」でいいじゃないか。「『変』だから止める」ってのは、娘の判断と意志に基づいた行動であって欲しいと思うんですよね。
 電車通学をさせるようになってから、スカートをはいた状態での「お行儀」が、格段に良くなった。これは「電車の中の社会」での女性をよく見ていることからきているものだと、わたしは解釈しています。だからそのうち気づくだろって思うんですよね、電車の中じゃ、誰も歩き回ったりしないってことに。
 わたし自身、娘と共通理解が可能な言語で、娘に「歩き回ったらいけない」という「理由」を説明することができないんですよね。言葉で伝えるとしたら、実際の現場で「ダメ」「動かないでそこに立っていなさい」くらいしか言えない。「おかあさんがいない時でも一緒」って言葉自体、もう理解できない知的レベルなんだから、どうにもお手上げなわけです。
 だからさ、「変」でいいじゃないか、って思うんだけど。車両の中に居合わせる人が全て顔をしかめるって感じの混雑時ならわかるが、実際座れるほどすいてるんだから、車内。
 「指導」は「指導」で、確かに「指導」は大切なんですけどね。でも、「本人の行動に対して、本人の意志・目的重視」ってことが、わたしには「変な行動」よりも優先されるんですよね。
 社会もさ、こういう些細な『変』の存在に、慣れて欲しい。まあ、特にたいしたことでもないが、ちょっとわけわかんない行動をする人がいるぞ、と。そうした程度の『変』を、受けとめる社会であって欲しいと思う。これは知的障害児の親の我が儘なんでしょうかね。