S嬢のPC日記

2004年から2007年まで更新を続けていました。
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形容と真実と

2005年11月05日 | 「障害」に関わること
 ダウン症候群というグループに属する人は、およそ千人に1人の割合で生まれてくると言われている。人種を問わず、一定の割合で生まれてくる症候群。
なぜ生まれるか。それは、妊娠とは、一定の割合で染色体異常が起きるものだから。

 自然流産の3分の1ないし2分の1は染色体異常をもつ胎児に起きる。自然流産する確率は、全ての妊娠のうちおよそ15%。ヒトの妊娠にとって染色体異常は、それほどまれなことでもない。
そしてその染色体異常の中で、21番染色体に異常があるダウン症候群は、生まれてくる染色体異常児の中でもっとも数が多い。妊娠における染色体異常の中で、もっとも生命力が高いと言える。染色体異常という、妊娠における命の発生上の「事故」の中で、21トリソミーはもっとも進化した形と言えるかもしれない。人種を問わず、一定の割合で発生するダウン症人口は、とても多い。

 そうした「確率」の中で、つまり、わたしの染色体が正常であったことも運、娘の染色体が異常であったことも運。ダウン症児の親にならなかった人は、それがその人の運。わたしがダウン症児の親になったことも、また運。全ては確率の問題だと、わたしは思う。

 ダウン症の告知があると、誰もが「なぜ?」という思いに気持ちを揺らされる。「家の家系にはいない」と、配偶者の親に責められるケースもたくさんある。妊娠中の飲酒・喫煙、妊娠時期の仕事の過密なスケジュールや無理な旅行等、すねに傷持つヒトは、わなわなと後悔に震える。望まない妊娠や不用意な妊娠で、出産に踏み切った結果、というケースにも、ダウン症児は生まれてくる。
すねに傷無い人でも、妊娠期間を思わずふり返ることも少なくないし、また「姑」に妊娠期間の生活を査定されるような言動を浴びせられる場合もある。

 いや、なに、同じことやったって、当たらん人には当たらんものよ。それよりも、流産の確率が高い妊娠が、出産までこぎつけたってことがすごいこと。
「生まれる」って、すごいことよ。生まれなきゃ始まらないってことは、当たり前だけど山ほどある。
そしてそのうち気づく。人種を問わず、一定の割合で発生するダウン症人口はとても多い。

 娘に対して差別的な視線を感じたりすると、ちょっと意地悪く思うこともある。
(あなたの家族にダウン症というご縁が無いのって、たまたまよ)
必要以上に好意的な視線を浴びたりするときに、同様の思いを持つこともある。
必要以上に好意的な視線ってのは、時と場合によっちゃ、とてもめんどくさい。
相手には「非日常のストーリー」でもこちらは「日常」。
そんなギャップを感じながらも、相手に罪はないので曖昧に微笑む。
相手の善意は相手を気持ちよくし、そしてこちらはギャップの中で、善を受けきれない毒を飲み込む。
取りたてて褒め称えることって、実は別種の差別ではないのか。

 ダウン症児のことを「天使の子」という言い方がある。エンジェルベビーというこの言われ方を好む人もいるのだと思う。でもわたしはこの言葉を投げかけられると曖昧に微笑みつつ、(なんだそら)と内心思う。子どもに対して「天使」という言葉を使うなら、それは子どもという存在全てに言えることじゃないのか、と思う。
 「愛」や「愛情」という言葉を、その形容にやたらにつけられる場合もある。「愛される子ども」だのなんだのと言われると、やはりわたしは曖昧に微笑む。「愛」だのなんだのという形容をつけられなければ認められない子どもなのかと、逆に思う。
 ただ、そうした言葉に「助けられる」親の層というものも、確実に存在する。その層を傷つけないために、わたしは黙って曖昧に微笑む。でも、何かがとてもめんどくさい。

 「真」という名前のダウン症の子。告知後の周囲の喧噪の中、母親が思ったそうだ。「目の前にいるこの子が真実だ」と。だから「真」。わたしはこの話がとても好き。
 娘と知り合って、関係が成立した人は、娘のことを「ちぃちゃん」と呼ぶ。天使の子だの愛がどうのだなんて言いはしない。ダウン症児であることやその特徴は、娘を知る単なる材料としてだけ存在していく。わたしはそれが真実だと思う。

*参考リンク
 『「弱者」とはだれか』/天竺堂通信