これは したり ~笹木 砂希~

ユニークであることが、ワタシのステイタス

男の敵

2008年07月30日 20時53分31秒 | エッセイ
『男心』がおぼろげながらわかってきたのは、30代半ばになってからだ。
 なにしろ、私は女所帯で育ったうえに、高校も女子クラスだったから、異性の知識が著しく不足していた。それなのに、大学は8割が男子生徒という商学部に入学してしまったのだ。今から考えれば、まったくもって無謀な選択だった。
 入学式翌日のオリエンテーションの日、教室のドアを開けて驚いた。中にいたのは男子ばかり。しかも、どいつもこいつも、野暮ったくてイケてなくて、『うらなり』という言葉がピッタリのヤツらだった。思わず、私は開けたドアをまた閉じてしまった。
 あの中に入るのか……。
 そう思うと心底ウンザリしたけれど、もうどうにもならない。気を取り直して、再度ドアを開け、教室に足を踏み入れた。クモの巣だらけの廃屋に入るほうが、まだマシかもしれないと思った。
 女子が珍しかったのか、あちらこちらから視線を感じた。まったく、居心地が悪いことこの上ない。ようやく、ポツンと1人で座っている他の女子を見つけ、「隣、いいですか?」と声を掛けた。落としたコンタクトレンズを見つけたような喜びだった。彼女もホッとしたようで、すぐさま私たちは友達になった。
 とりわけ、テニスとスキーが趣味というチャラチャラした軽薄なヤツが、私の一番嫌いなタイプだった。英語の授業はLLにしたのだが、隣の席にいたのは不幸にしてこのタイプの軽薄野郎だった。座席が指定されていたので、席を替えることもできない。適度に日焼けして「俺はかっこいい」と信じきっているような、でも実際のレベルは標準以下というその男子は、愛想よく私に話しかけてきた。
「学籍番号、何番?」
「サークルは何に入った?」
 適当に流していたものの、気疲れから私は徐々に苛立ってきた。やがて授業開始となり、教員が機械の使い方を説明しはじめた。
「オレンジのランプは、出席扱いのときに点灯し、欠席扱いのときは消えています。指名されたときはついたり消えたりしてピカピカ光りますから、マイクを通して全員の前で発音してください」
 私は発音に自信がないので、ピカピカしたら困るなと心配になった。そのとき、横から軽薄男が口を出してきた。
「あ、見て! 俺のがピカピカ点灯しているよ」
 不安と苛立ちが最大になった瞬間だった。
「それは点灯じゃなくて、点滅っていうんでしょ」
 ニコリともせず、上から目線で冷たく言い放った言葉の棘が、彼の心にグッサリ刺さったようだった。軽薄男はとっさに目をそらし、以来、卒業まで一度も話しかけてこなかった。
 このやりとりを聞いていた後の席の男子からは、軽薄男が授業を休むたびに、「キミが厳しいことを言ったからだよ」とからかわれた。
 男性は、間違いを指摘されることを嫌うらしい。それを知らなかった私は、ゼミでもサークルでも気に入らないことは片っ端から指摘しまくり、心に突き刺さる一言を連発していたようだ。「キツ~」とか「こえー」といった反応を何回耳にしたことか。結果、「言いたい放題の人」というレッテルを貼られてしまった。大学時代の男友達からは、いまだに、「コワいこと言わないでね」と警戒されてしまう。
 社会人になっても、私の行動に変化はなかった。当然、同世代の男性と恋愛することはなく、何を言っても受け入れてくれる年長の男性と結婚した。
 夫は土日祝日の仕事が多く、留守がちである。夜もしばしば、遅く帰ってくる。
「浮気しているのでは、と心配になったことはないんですか?」
 5歳年下の元同僚、エミちゃんからそんな質問をされた。私は思い切り笑い飛ばして答えた。
「アハハ、モテないから大丈夫よ~!」
 そのとき、エミちゃんの奥にいた既婚の男性がギョッとした顔で私を見た。苦笑いを浮かべて、何か言いたげな表情をしている。
「え?! 後藤さんのことじゃないですよ!」
 私は驚き、あわててフォローした。女房妬くほど亭主はモテず、と言いたかっただけなのだが、彼はまるで自分の悪口を言われたかのような、悲しい顔をしていた。
 男性は、心当たりがあるときは、他人事を我が事と受け止めるらしい。
 芸能人の話をしていて、「あの男は、生理的に受け付けないわ」と発言したら、話の輪に入っていた独身男性、外山氏が泣きそうな声で叫んだ。
「ああ、やめてくれ! 生理的に受け付けないなんて、ひどいっ!」
 ……だから、アンタのことじゃないってば、と私は頭をかかえそうになった。
 
 比較的親しいと感じていた男性職員に、こんなことがあったと笑って話したら、意外や、彼もまたしかりであった。
「私だって、笹木さんの言葉にグサグサきたことが何度もありますよ。自分では気づいていないようですが、差別的なんですよね。私には妻がいると自分に言い聞かせて、毎日を乗り切っているんですから」
 なんと、仲がよいと思っていたのは私だけとは……。男心は不可解だ。

 結婚後、10年もすると、夫までもが寛容でなくなった。口ごたえをしたり、聞こえない程度の声で悪態をついたりするのだ。はじめは激怒した私だが、長年に渡って繊細な男心を傷つけられた結果なのではないかと気づいた。ようやく、男性心理の勉強をしようという気になり、言ってよいことと悪いことの区別がつくようになってきたというわけだ。
 おかげで、職場の人間関係もスムーズになったような気がするのだが……。
 でも、男心に突き立てる槍を捨てたわけではない。いざというときのために、磨きをかけて保管しておかねば。



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されど敬称

2008年07月28日 21時14分07秒 | エッセイ
 その年賀状を見たとき、違和感をおぼえた。宛名はたしかに私の名前になっているが、何かが足りない……。さて、何だろう?
 わかった、「様」がついていないんだ!
 信じがたいことに、年賀ハガキには「笹木 砂希」と呼び捨てにされた名前が、恥ずかしげもなく中央に陣取っていた。
 失礼ね! 誰よ!!
 胸にどす黒い感情が、一気に押し寄せてきた。葉書を裏返すと、菅野一夫と書いてある。
 菅野か……。
 たちまち、私は脱力して天を仰いだ。当時、私は20代半ばの小娘で、元同僚の菅野一夫は30代前半だった。おそろしく仕事のできない男で、授業は成立しない、生徒に言うことを聞かせられない、成績処理を間違える、時間を守らない、ものをなくす、と数え切れない失敗を繰り返している。しかし、その割には自己評価が異常に高く、自分ほど優秀な人間はいないと思い込んでいる。果てしなく厄介なヤツなのだ。
 たとえば、職員で伊豆まで旅行したときのことだ。ヤツは特急の切符をなくしてしまい、幹事に「僕、なくしちゃったみたいだから、もう一枚ください」と大真面目に頼んだことがある。当然、「余分はないので、自分でなんとかしてください」という答えが返ってきた。結局、もう一度よく探したら見つかったのだが、ヤツはこのときの対応を根に持ったようで、後日、幹事の男性に「あなたにはボランティア精神が欠けている」と説教したという。
 私も「笹木さん、あなたには常識がない」と因縁をつけられたことがあった。あながち間違いではないので反論しなかったが、ヤツに指摘する資格はないと思い、非常に不愉快になった。
 さて、この宛名は、故意か書き忘れか、どちらだろう?
 自分以外はみんなバカと思っている面では前者、実務能力ゼロという面では後者だ。
 誰彼かまわず噛み付くという習性を考えて、私は前者なのではないかと推測した。
 本人に聞くと、また面倒なことに発展するのは目に見えている。身の安全を考えて、ひそかに調査することにした。
 まずは聞き込み捜査だ。最初は仲良しのユリさんからにした。
「ねえ、今年も菅野から年賀状きたでしょ。私のは敬称略だったんだけど、あなたのはどうだった?」
 ユリさんは飲んでいたお茶を吹き出しそうになった。
「ハハハ、なにそれ~、様がついてなかったって?! 私のはちゃんとついていたわよ! 今度持ってきて見せてよ」
 かくして、菅野の年賀状は晒しものとなった。犯人の写真ではなく年賀状の宛名を見せて、「あなたのも、こうじゃなかった?」と聞いて回ったが、誰一人としてyesと答える者はいなかった。
 となると、単なる書き忘れ?
 こんな大事なものを忘れるなんて、さすがは菅野……。
 菅野ごときに呼び捨てにされた私の名前が、心底可哀想になった。

 それから間もなく、大学の教育学会から手紙が届いた。
『新しい名簿が完成しましたので、ご希望の方は返信用封筒に住所・氏名をご記入の上、お送りください』
 名簿は私も欲しい。早速申し込みをしようと思い、続きを読んだ
『なお、返信用封筒には、氏名に 様 をつけてください』
 なるほど、事務手続きを簡単にしたいからだろう。頑なに「自分の名前に様をつけるなんて畏れ多い」と拒む人もいるだろうが、私はそうは思わなかった。
 自分でつければ、間違いなく敬称がある!
 私はいつもよりも丁寧に、封筒に「様」という文字を書いた。



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携帯ドラマ

2008年07月26日 18時01分38秒 | エッセイ
 10年前の携帯電話は重くて大きくて、アンテナがあった。
 私が勤めていた当時の高校でも、生徒の7割は持っていて、授業中にこっそりメールを打ったりサイトを見たりするものだから、教員の悩みの種になっていた。
 学校に持ち込むことを禁止するわけではなく、授業中に使用していたら没収するルールだったので、こちらは目を光らせて教室中を見張らなくてはならない。
「でさ、そのときあいつがさ~」
 授業中だというのに、いきなり男子の私語が聞こえた。見ると、壁際の井上が堂々と携帯を耳にあて、楽しそうに通話をしているではないか。隠そうともしない図々しい態度に腹を立て、私はすぐさま井上の元に走った。
「ほら、よこしなさい!」
 右手を差し出すと、井上は抵抗せずに携帯を渡した。やけに素直だな、と不審に思い手の上を見ると、銀色のカンペンケースにボールペンの芯が突き刺さっていたものだった。
「あ、違った!」
 私はビックリして固まってしまった。その瞬間、周りの生徒がドッと笑い出し、しばらくおさまらなかった。
 ああ、やられた……。
 照れ隠しに、私も一緒に笑うしかなかった。
 職員室に戻って、「こんなことがあった」と他の教員に報告したら、相当ウケた。「取り上げる前によく見なくちゃダメね~」と警戒する者もいたが、さすがに同じ手口は使わなかったようだ。
 別の日。成績のよい男子生徒、藤田は寝坊をして遅刻しそうになった。真面目な彼は朝食を諦めて、弁当と貴重品・携帯をバッグに詰め込むと、半分寝ぼけたまま自転車にまたがり、大急ぎで学校に飛び込んだ。
 ホームルーム後、藤田から事のいきさつを聞き、私は彼の努力をねぎらった。
「でも、間に合ったんだからよかったじゃない」
 しかし、藤田の顔は冴えない。
「いや、よくないですよ……。学校でバッグを開けて、驚きました……」
 彼が携帯だと思って持ってきたのは、テレビのリモコンだった。
 誰もが涙を流さんばかりに笑い、教室中が揺れそうな音量になった。
 この頃は、自分の携帯を大事に扱う生徒ばかりだったと思う。でも、10年経った今では、使用を注意された苛立ちで携帯を床に叩きつけて壊す者がいたり、取り上げられても「新しいの買うからいらない」とふて腐れる者がいる。可愛くないな、とガッカリする。
 今の携帯はずいぶん小さくなった。スライド式のものを持つ生徒もいるが、やはり2つ折のものが使いやすいようだ。
「先生、罫線を太くするときはどうすればいいの?」
 女子生徒、荒井がパソコン操作を聞いてきた。この生徒は何ごとにも一生懸命取り組むのだが、ややメカオンチ。Wordの基本操作を、なかなかおぼえられないのが玉にキズだ。
「簡単よ、こうやって……」
 私は画面を見たままマウスに手を伸ばし、操作の手本を見せようとした。が、マウスを動かしても、マウスポインタがまったく反応しない。画面上の矢印はうんともすんとも言わないままだ。
「あれ?」
 私は手の平にすっぽり納まっているマウスに目をやった。しかし、それはマウスではなかった。
「やだ、先生! それアタシのケータイじゃ~ん!!」
 荒井はゲラゲラ笑い出し、隣の生徒も吹き出した。私は机の上に置いてあった彼女の携帯をマウスと間違えたのだ。道理で反応しないわけだ。
 これでダブルクリックしたら、もっとウケただろうな……。
 しばらく笑い続ける荒井を見ながら、10年前はもっと面白いことがあったんだよ、と教えてやりたくなった。



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入店資格

2008年07月23日 22時49分53秒 | エッセイ
 ひと回り年上の涼子さんとは趣味が合い、年に3回は一緒に映画と食事に出かける。もちろんワインつきだ。家ではすっかり飲まなくなった私だが、外食のときはここぞとばかりにワインを楽しむ。
 お店のチョイスは、もっぱら食の知識が豊富な彼女の担当だ。ワインバーに連れて行ってもらうこともあれば、ワインが充実したレストランに行くこともある。
『一度行ってみたいと思っていたお店があります。ご検討ください』
 恒例の彼女からのメールがきた。よくもまあ、次から次へと新しい店を開拓するものだ。
 が、今回は店の名前に仰天した。
『ル・シズィエム・サンス・ドゥ・オエノン』
 どうやらフランス語らしいが、とても一度ではおぼえられない。それ以前に、発音すら怪しい。
 かなりのインパクトはあるが、店の名前をおぼえてもらえないという点でマイナスにならないのだろうか。
 しかし、ホームページを見て、そんなレベルで勝負している店ではないと気がついた。
 なにしろ、『 le 6eme sens 』という具合に、店名からしてフランス語で表記されているのだから。
 ル・シズィエム・サンスは『第六感』という意味だそうだ。“五感を超えた感動を皆様に味わっていただきたい”という思いを抱き、オエノングループが2003年にオープンしたレストランと書かれている。
 予約制である点を考えても、通りすがりの客は対象外にしているらしい。
 まるで「当店のよさをおわかりになる方だけがいらしてくだされば、それでよいのです」と言われているかのようだ。
 ……そんなところに、店名もおぼえられない人間が行ってよいものだろうか。
 ルとオエノンだけは言えるのだが他はダメだ。きっと涼子さんならおぼえているだろうと軽く考え、当日を迎えた。
「何て名前のお店でしたっけ? 私、結局おぼえられなかったんですぅ~」
 映画『告発のとき』を観たあと、有楽座から銀座6丁目に向かう道で涼子さんに話しかけた。
「あら、私だっておぼえてないわよ。メールはコピーして書いたんだもの」
 なんと、涼子さんもうろ覚えだという。
「地図はあるから、それらしい店があれば、きっとわかるわよ」
 安易な二人に入店資格はなかったらしい。地図の通りに歩いたのに、一向にそれらしき場所が見当たらない。
「インペリアルタワーがうしろってことは行きすぎよ。ちょっと、聞いてみましょうか」
 涼子さんは、暇そうにしていた駐車場の係員に地図を見せて尋ねた。
「ここに行きたいんですけど、どうしたらよいでしょうか」
 人のよさそうな男性は、地図を受け取ると顔を近づけて考えていた。
「う~ん、これじゃあ、よくわからないな。何て店ですか?」
 しばしの間ののち、彼女は苦笑いを浮かべて答えた。
「……なんとか、オエノンです……」
 一橋大卒の才媛、涼子さんもおぼえられた単語は同じだったようだ。
 男性に、一瞬、「そんなんじゃわかんねーよ」という表情がよぎったものの、すぐにまた愛想のいい言葉が返ってきた。
「う~ん、聞いたことないな。まずは大きな通りに戻ったほうがいいですよ」
 私たちはお礼を言い、来た道を戻った。
 すると、不思議なことに、さきほど素通りした場所でその店は見つかった。
「何で気づかなかったのかしら……」
 私たちはキツネにつままれた気分で、ガラス製の透き通ったドアを開けた。
 第六感どころか、五感からして錆び付いている二人であった……。

(後日談)
 版画家・山本容子プロデュースというだけあって、店内は白を基調とした落ち着いた佇まいでした。壁一面に並べられたワインの空きボトルが、これまたアート!
 ウエイターの笑顔と気の利いたサービス、個性的なお皿に癒されました。
 ワインリストの豊富さと、納豆など変わった食材を生かした料理が素晴らしかったです。
 欲をいえば、テーブルが高すぎです。フランス仕様なのでしょうが、小柄な日本女性にはちとツライ……。
 エッセイを書いたおかげで店名は完璧におぼえました! 入店資格を得たところで、また行ってみたいと思います。



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クチニ ニガシ

2008年07月21日 16時28分15秒 | エッセイ
 昨年まで、私はキッチンドリンカーだった。
 飲むのはもっぱらブルゴーニュ産の赤ワイン。さらりとした舌触りとまろやかな味わいをこよなく愛していた。
 夕食の支度をしながらワインをゴクゴク、空き瓶がゴロゴロという感じである。休みの日には昼も夜も飲んでしまい、主治医に怒られた。
「笹木さん、あなたは立派なアル中です。体によくないからおやめなさい」
 ……そんなこと言われたって、習慣になっているんだもん。やめるなんて、いまさら無理、無理。
 軽く聞き流したつもりでいても、主治医の忠告が心のどこかに引っ掛かっていたのだろう。
 昨年の11月のことである。
『ボジョレー・ヌーヴォー解禁 11/15(木)』
 街を歩けば、あちらこちらにこんな広告が貼られていた。ブルゴーニュびいきの私だが、これには心を動かされなかった。
 一体、ボジョレーのどこがいいのやら。
 消費者の購買意欲を煽る小売業への反発か、はたまた実力以上にもてはやされる若いワインへのやっかみか、私はこれが好きではない。
 なんか薬クサイんだよね……。
 世間の盛り上がりを無視し、断固として買わないつもりでいた。
 しかし、解禁日当日、家に帰ったら私あての荷物が届いていた。月に一回配達されるワインの頒布会だ。いつもは月末なのに、今回は到着日指定で15日に来ているところがおかしい。まさか……。
 開けてみると、案の定、ボジョレー・ヌーヴォーが入っていた。
 しまった、先回りされていたのか!
 まったく予想していなかったルートで、まんまと部屋に上がり込まれた。賑やかなラベルがこちらを向いて、呆然としている私を挑発する。
 なんだい、結局買ったんじゃないか!
 ホントは飲みたかったんだろう!
 やいのやいのと囃し立てられたような気がして、私はボトルの首根っこを思い切りつかんだ。目障りな奴は、とっとと片付けるに限る。
 コルクを抜いて中身をグラスに注ぐと、透き通った赤に目を奪われた。まるで液体のルビーだ。味はともかく、見てくれだけは抜群によい。とたんに、きらきらと輝く宝石を味わってみたくなり、グラスに口を寄せた。が……。
 ま、まずい……。
 たとえるならば、オーランド・ブルームばりの美男子が、ひと桁の足し算をミスするくらいのまずさだ。ボジョレーにも当たりハズレがあるというが、これは間違いなく大ハズレ。とても一息に飲み干せない。ちびちび飲んでいると、今まで考えたこともない疑問が浮かび上がってきた。
 私は本当にワインが好きなのだろうか?
 チョコレートとワインを比べたら、チョコのほうが美味しい。アイスクリームとワインでは、絶対にアイスを選ぶ。アイスやチョコは毎日欲しいと思わないのに、ワインを連日飲み続けている現状は、どう考えても理屈にあわない。
 私は習慣に忠実な人間である。飲酒が日常のルーティンに組み込まれているから、飲んでしまうだけだ。こんなことでは、チョコとアイスに申し訳ない。私の愛の深さを示すためにも、禁酒をしようと決心した。
 禁酒の友はハーブティーだ。ペパーミントかカモミールがよい。ハーブの強い香りは食欲を減退させ、ワインへの未練も断ち切ってくれる。1日禁酒に成功すると、自信がつく。自信はさらなるやる気につながり、1週間後には、ハーブティーの助けを借りずに禁酒することができた。
 こうして、思いがけないほどあっけなく、私は8年間にわたるキッチンドリンカー生活に終止符を打った。ワインとお別れしてから肌の調子がよくなり、体重も体脂肪も減った。
 でも、財布の中身は減らないから、よいことばかりだ。
 長年、私に寄生していたアル中の虫は、良薬によって、あっけなく退治されてしまったらしい。
 だてに薬クサイわけじゃないね。
 ボジョレー、どうもありがとう。



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解けない誤解

2008年07月19日 17時01分41秒 | エッセイ
 平成15年4月、都立学校に主幹制度が導入された。
 主幹とは『担当する校務に関する事項について、副校長を補佐するとともに、教諭等を指導・監督する』職種である。わかりやすくいえば、副校長と教諭の中間に位置する職階である。別称、教諭のリーダーともいわれている。
 選考の時期は、通常7月から9月らしいが、導入当初は平成14年11月下旬から12月上旬に試験が行われたようだ。
 教職員組合はこの制度の導入に反対したものの、阻止するにいたらなかった。こうした経緯もあって、教諭の主幹に対する印象は概ねよくない。
 まさに、その導入期、私までが主幹制度に巻き込まれることになるとは思わなかった。

「昨日は主幹試験でしたね」
 子供の通院で休暇を取った翌日、出勤するなり同僚の若僧が意味ありげな顔で話しかけてきた。
 主幹試験? ああ、今問題になっている新しい制度のことだっけ。
 当時、教職員組合に加入していなかった私は、主幹制度にはまったくの無関心だった。もちろん、自分がなろうとは思わなかったし、出世の足がかりとして希望する人がいれば、勝手にすればいいのだと考えていた。
 そのときは、何でこんなことを言われるのかと不思議に感じたが、面倒だったので適当な返事をして聞き流した。
 どうも、これがそもそもの始まりだったらしい。その後も他の同僚から、誰もいない場所で「主幹試験を受けたの?」と小声で尋ねられることがあった。
「とんでもない。受けていませんよ」
「でも、ある筋の情報だと、うちから受けたのはNさん、Tさん、そしてあと女性が一人いるんですってよ」
 試験当日に休暇を取ったのは、その二人と私だけだという。ということは、その情報が間違っているわけだが、世間はそうはとらない。
 私が非組合員だということも災いした。NさんもTさんも組合に入っていなかったから、同類と見られたのだろう。
 2月、次年度の人事が発表されたとき私はこの情報を呪った。
「N先生とT先生が主幹試験に合格されました」
 校長の言葉と同時に、多くの視線が私に集まるのを感じた。私と目を合わせないようにしながら、ある者は哀れみの、またある者は見下すような表情を浮かべていた。
 その瞬間、やっと自分が置かれている状況が理解できた。
 受けていないのに、落ちたと思われているんだ!!!!
 体中の血液が、脳天めがけて一気に遡ってくる感じがした。はらわただけでなく、脳味噌まで煮えくり返りそうだった。体温が急上昇し、とても平常心ではいられない……。
 しかし、どう説明しても言い訳としか思われないだろう。
 自尊心は木っ端微塵……暫く立ち直れなかった。



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私の普段着?

2008年07月16日 22時30分10秒 | エッセイ
 ソシアルダンスを習いたい。動機は不純だ。
 ダンスはどうでもいいけど、あのドレスを着てみたいっ!
 
 私が衣装にかける想いは大きい。まだ幼いとき、叔母の結婚式に参列するため、裾が大きく膨らんだワンピースを着せてもらったことが始まりだ。ヒラヒラしたピンク色のその服は、絵本に出てくるおやゆび姫を連想させ、幼心にもいたく感動したことを憶えている。
 小学生になると、ピアノの発表会でドレスを着せてもらった。熱心に練習するタイプではなかったからピアノはとちったけれども、ステキな衣装を身につけた事実が重要だった。あのときの写真を見ると、失敗した悔しさは微塵も記憶になく、華やかなステージに立ったことばかりを思い出す。
 大学ではマジックサークルに所属していたので、フォーマルドレス着放題だった。正統派のタキシード風スーツから、そのまま歌舞伎町で働けそうな下着調のドレスまで、4年間で8着は着ただろう。うち4着はまだ着られるので手元に取ってある。手品で人を楽しませるのもよいが、きらびやかな衣装をまとうだけで、自分を満足させられるところが向いていたのかもしれない。
 和装も好きだ。成人式は振袖を着たし、訪問着や留袖も持っている。でも、一人では着られないから、面倒になって何年もしまい込んでいたら、ひどいシワがついてしまった。やはり着なくてはダメらしい。
 極めつけは、結婚式場の内覧会だ。ウエディングドレスとお色直しのカクテルドレスを選ぶだけなのに、何百着ものドレスが部屋中を埋め尽くしていて圧巻だった。純白のウエディングドレスが灯りを反射して眩しく輝き、赤・黄・青・黒・緑といった色とりどりのカクテルドレスがお花畑のように咲き並び、気絶しそうなくらい美しかった。
 決してドレスが着たくて結婚したわけではないが、あの夢のような光景は目に焼きついて離れない。私は教員ではなく、結婚式場の衣装部で働くべきだったのかもしれない。
 
 ソシアルダンスのスクールは、どうやら家の近くにないようだ。遠くまで通うのも億劫だから、ドレスだけを買えばよいのではないかと考えた。ネットで検索すると、2万円前後で本格的な衣装が買えるらしい。
 でも、どこに着ていけばよいのだろう?
 常識的な私の疑問に、非常識なもう一人の私が答える。
 家で着ればいいじゃない。
 家で?
 眠ったままのフォーマルドレスや訪問着、一回しか着ていない留袖に、入学式と卒業式に着ただけのスーツも、ぜーんぶ普段着にしちゃえばいいのよ。
 なるほど、その手があったか。でも、近所の人や宅配便が来たときに恥ずかしいなぁ。
 今はね。加齢とともに羞恥心もなくなるから、それからでいいよ。
 はてさて、それは10年後くらいだろうか。
 ゴミ出しはもちろん、スーパーやコンビニにフォーマルドレスで現れる女がいたら……それも、私かもしれない。



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変身願望

2008年07月14日 22時04分40秒 | エッセイ
 8歳下の同僚、佐藤ゆき子が結婚する日を、私は心待ちにしていた。
「ねえ、ゆきちゃん、誰かいい人いないの?」
「はい、ご縁がなくて……」
「どういう人が好みなの?」
「佐藤浩市ですっっ!」
 残念ながら職場には、いや、どの学校を探しても教員に佐藤浩市っぽい男性がいるとは思えない。
 しかし、私はどうしてもゆきちゃんに結婚してもらいたい。そして、披露宴に呼んでほしいのだ。
 理由は7年前にさかのぼる。横浜中華街で、私は偶然ステキなチャイナドレスを見つけた。光沢のある絹の黒地に、金糸で梅の花の刺繍が施され、華やかなのに派手ではない。くるぶしまでの裾丈に、太ももがチラリと見える、両脇に入った定番のスリットがセクシーだ。これを着れば、凹凸の少ない体型の私でも、色っぽく映るような気がして、とても気に入った。
 つい衝動買いをしたけれども、よく考えてみたら着ていく場所がない。
 結婚式に呼ばれたら着ようと思っていたが、この7年間、招待されたためしがない。友達は大抵既婚者か、開き直った独身主義者だ。となると、頼みの綱は職場の同僚となるが、若手が減っている上、お呼ばれするほど親しくなれないのが現実である。
 そこでゆきちゃんに目をつけたわけだが……なかなかこのドレスをお披露目する機会に恵まれそうになくて、私は次第に焦れてきた。 
 このままでは、ドレスが入らないくらい太ってしまうかもしれないし、家が火事になって燃えてしまうかもしれない。はたまた、虫に食われて穴が開いてしまうかもしれない。のほほんと構えてないで、今年こそは是が非でも袖を通さなくてはと決心した。
 日頃、地味な生活を送っている私にとって、服は重要な変身アイテムだ。サラリーマンがウルトラマンの衣装を着たがるように、華やかなドレスを身につけることで、高揚した気分に浸ることができる。似合う、似合わないはさておき、チャイナドレスがかもし出す色香を身にまとい、女性ならではの美を演出する自分に酔いしれたい。たとえそれが錯覚だとしても……。
 ドレスを着たい一心から、結婚式のおよばれにこだわるのをやめた。
 しかし、パーティに出かける身分でもなく、オペラを鑑賞する趣味もない。となると、日常生活の延長で着るしかなさそうだ。
「ねえ笹木さん、来月、赤坂でランチなんていかが?」
 エッセイ仲間のお誘いに、わが意を得たりと同意した。これでドレスをデビューさせることができる。フレンチレストランに行くだけだから、大げさという気もするが、この機会を逃したら必ず後悔するに違いない。たとえ浮いてしまったとしても、着たい服を着られればそれでよいではないか。
 8月4日、赤坂で黒のチャイナドレスを着た女がいたら、それは私かもしれない。



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バルセロナ五輪の年に(2)

2008年07月12日 21時59分48秒 | エッセイ
 マイコプラズマ肺炎にかかり、38度台の発熱と激しい咳に苦しむ私を、さらに悩ませたのは食事だった。
「お昼だよ。食べられる?」
 寝込んでいる間、夫も仕事を休んで看病してくれたのだが、彼は料理が得意ではない。
 何ができたのだろうと疑問に思いながらも、食欲はあったので、熱い体を布団から引き剥がして食卓に向かった。しかし、テーブルに並べられた料理を見て、かすかな期待は粉々になった。
 皿の上には、オーストラリア産とおぼしき牛サーロインステーキが載せられていた。その辺のスーパーで売っている、2切れで1000円くらいのパックを買ってきたのだろう。焼き加減はミディアム。ステーキソースはかかっておらず、塩・胡椒でシンプルな味付けをほどこしたらしい。一応、付け合わせにボイルしたジャガイモが添えられていた。
「……何よ、これ」
 健康なときなら喜んで食べるが、私は病人だ。彼の、あまりの非常識さに呆れ、その場に座り込みそうになった。
「ゴメン、オレ、これしか作れないから……」
 不機嫌になった私を見て、夫はオドオドと言い訳をした。
「食べられるわけないじゃない。もういい」
 私は空腹のまま布団に戻った。夫が頼りにならないならば、母にすがるしかない。
 当時、私の実家はほんの数キロ離れた場所にあった。すぐさま母に電話をし、何か作って持ってきてほしいと懇願した。
 実のところ、これは私にとって非常に勇気のいる行為だった。母も料理が上手ではない。古い食材を平気で使うからお腹をこわすこともあるし、手順を無視して自己流を貫く面もある。たとえば、味噌汁だったら、仕上げにではなく最初から味噌をぶち込んでしまう。具はそのあと煮込むから、まったく風味のない味噌汁ができあがる。また、ハンバーグの玉ねぎは炒めたためしがないし、スパゲティを茹でたら素麺のように水洗いするものだと思い込んでいる。
 それなのに、母には料理に対する揺るぎない自信があり、得意分野だと言い張って聞かない。
「いいよ。すぐに美味しいものを作ってあげるから、待ってなさい」
 案の定、母は二つ返事で引き受けてくれたが、本当に美味しいかどうかが心配だ。
 1時間後、母はスクーターでやってきた。まだホカホカしている肉じゃがを、鍋ごと持ってきてくれたのだ。相変わらず、皮のむき方が雑だった。ところどころ剥き残しがあるし、芽の取り方もいい加減だ。でも、いい色に仕上がった味のしみ込み具合いと、煮物の甘い香りが私の食欲を刺激した。
 一口、二口食べて、母の手料理では最高の出来だとわかった。口の中で抵抗せずに形を崩すジャガイモの柔らかさと、味付けされた玉ねぎや白滝に、程よく脂ののった牛肉が絶妙のハーモニーを奏でていた。予想外の味わいに空っぽの胃が狂喜乱舞して、掃除機で吸い取るように肉じゃがを求めた。
 山ほどあった肉じゃががなくなるころ、私の体調も回復した。平熱に戻り、咳も治まってきたのだ。
「晩ごはんができたよ」
 夫に呼ばれて食卓についた。テーブルの上には、またもやサーロインステーキが並べられていた。
 ため息を殺して、私はそれを食べた。



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バルセロナ五輪の年に(1)

2008年07月09日 21時00分24秒 | エッセイ
 夫と結婚したのは、1992年、バルセロナ五輪が開催された年である。この五輪では、水泳の岩崎恭子や柔道の吉田秀彦、古賀稔彦が金メダルを取った。
 しかし、私にとって、この五輪は身の上に起きた試練を思い出させるので、あまりよろしくない。
 6月下旬だった。職場で、模擬試験の平均点を出そうと電卓を使っていたら、どうも頭がボーッとする。出てきた平均点を確認しようと、同じ計算をしたのに答えが違う。もう1回、もう1回と繰り返し同じ計算をするたびに、まったく別の答えが弾き出される。当時はExcelなどなかったから、合計の計算を間違えていたようだ。
 変だな。こんなにミスをするなんて。疲れているのかもしれない。
 少し熱があったので、その日は早めに切り上げ、早々に床に就いた。
 翌朝、38度台まで熱が上がっていた。日曜日だったから仕事はなかったけれども、友人と会う約束がありキャンセルした。寝ていればすぐによくなるだろうと高をくくっていたが、激しい咳が治まらないばかりか、その翌日も高熱が続いていた。近所の医院で風邪薬をもらったものの、一向に効き目がなかったため、夫のかかりつけ医に診てもらうことにした。
「マイコプラズマ肺炎です。たまたま、4年おきでオリンピックの年に流行する周期になっている病気ですよ。」
 道理で、熱が下がらないわけだ。頭がもうろうとするばかりでなく、咳き込むたびに胸が痛んで、本当に苦しかった。体はだるいのに、どんな姿勢で寝ても咳が止まることはなく、毎日が苦痛との戦いだった。
 夫を子供のときから診ているベテランの女医さんは、新婚3カ月の私たちに意味ありげな笑いを浮かべて言った。
「キスすると、うつりますからね。あまり仲良くしないように」
 夫は赤面して言葉を失い、私はさらに熱が上がったような気がした。たしかに、2人して寝込むわけにはいかないのだが、もう少し遠回しに言ってくれればよいのに……。
 女医さんは、大きな病院に紹介状を書き、そちらで治療するよう手配してくれた。2週間後には大体よくなり、職場に復帰することが出来た。幸い、夫にはうつらなかった。
 今では、マイコプラズマ肺炎の流行周期が崩れているらしい。今年は北京五輪が開催されるが、特に警戒することもないのだろう。
 恐ろしいことに、この肺炎に対する免疫力は一生続くものではないようだ。再度感染する可能性もあると思うと、ぞっとする。高熱と激しい咳に悩まされる日々は、ノーサンキューである。
 もっとも新婚当時と違って、夫婦仲の冷え切った今ならば、夫にうつす心配はまったくないのだが。



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誘われない理由

2008年07月07日 22時05分46秒 | エッセイ
 砂浜で海を見ながら、オレンジジュースとタマゴサンドの朝食をとる、なんていうのも悪くない。
 3年前の夏、妹一家に誘われて、千葉・富津まで海水浴にきたときのことだ。朝5時に迎えに来てもらったので、海に着いたのは7時ころだった。まだ人も少なく、海面には朝日が反射してキラキラと光り、吹き抜ける風が心地よい。
 当時9歳だった娘のミキは、朝から大好きな2歳と4歳の従兄妹に会えて喜んでいる。海岸での朝食は、子供たちの歓声と大人の笑い声に味付けされ、とりわけ美味しく感じられた。
「ねぇ、あれ何?」
 異変に気づいたのは妹だった。怪訝な顔で、海上の空を指差している。見ると、青い空の彼方にどす黒い、墨汁を撒き散らしたような雲が浮かんでいた。
「やあね、こっちに来ないでしょうね」
 彼女の予感は的中した。まもなく風が出てきて、墨汁雲はジワジワと面積を広げて近づいてきた。たちまち太陽が飲み込まれ、先ほどまでの穏やかな朝が、一転して日没のような暗さに変わった。
「こりゃあ、降るな。早く片付けて車に乗らないと」
 義弟もいやな顔をして、朝食を切り上げ撤収しはじめた。
「まだ食べ終わってないよ~」
 子供たちは抵抗したが、パラソルが飛ぶほどの強風になり雷が鳴り始めると、一目散に車を目指して逃げ出した。
 間もなく、スイカの種のような雨粒がポツリポツリと落ちてきたかと思ったら、瞬く間にシャワー全開の大雨に変わった。遠くでフラッシュを連続してたくかの如く稲妻の光と、ゴロゴロと鳴っては休み、休んでは鳴り響く雷の応酬に気が気ではなかった。
「ちょっと、ネエさん!」
 ワゴン車の後部座席に身を寄せ合っているときに、妹が怖い顔で喧嘩を売ってきた。何を言いたいかはわかっている。
「どうしてくれるのよ、この天気」
 そう、私は雨女なのだ。多分ミキも。私が妹の家に遊びに行く日は雨ばかりだし、私と旅行に出かければ雨雲も一緒についてくる。そんな経緯もあり、科学的根拠は皆無とはいえ、この突然の雷雨が私のせいだと思っているようだった。
「まいったわねぇ」
 私は苦笑しながら答えた。せっかく早起きして千葉まで来たというのに、海水浴はできるのだろうか??
 海を見ると、濁った波が大きく背伸びをして押し寄せている。さっきまでおとなしかったのに、まるで台風の中継のようだ。それなのに、若い男性が何人か荒れ狂った海に入っている。やけくそといった風情で、大波をかぶっては何かを叫んでふざけあっていた。
「よくやるよ~」
 思わずみんなで笑い、車内は急に和やかになった。
 雨はなかなかやまなかったが、1時間ほど経つと薄日が差してきた。
「ああ、よかった! これなら入れるねっ」
 妹と笑顔を交わし、子供たちもはしゃぎ始めた。ちょっと肌寒かったが、おそるおそる水量の増えた海に入った。流されてきた海草が足に絡みつく上、けっこう冷たい。でも入れないよりマシだ。
 ホッとした直後の出来事だった。
「イタイッ」
 妹が眉間にシワを寄せてそう言うと、海から上がって足を見た。ミミズ腫れになっている。これはひょっとして……。
「クラゲだぁ!!」
 目を凝らすと、半透明の禍々しい姿が、あちらにもこちらにもフラフラと漂っている。私は泣きそうになった。まだ七月ではないか。きっと、さっきの大波に乗って運ばれて来たに違いない。
 またもや、妹が振り返り、私をにらみつけてた。
「ちょっとぉ~! 困るじゃないっ!!」
 いやはや、ツイていないこと、この上ない。ミキは怖がりパラソルの下に隠れてしまったし、私だって海に入る気がしなかった。こんなはずではなかったのだが。

 それ以来、妹から「海に行こう」と誘われることはない。
 ちぇっ。



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髪は命

2008年07月05日 20時06分33秒 | エッセイ
 梅雨の時期は髪型が決まらなくて困る。私だけでなく、ほとんどの女性がそう思っているはずだ。
 今朝の読売新聞『コボちゃん』でも、ママのサナエさんが同じことを嘆いていた。まったく同感である。
 しかし、自分では「ひどい髪」と思っていても、周りの者にとっては取るに足らないことだったりする。自意識過剰のなせる業だから、その自意識が許してくれないだけだ。
 教員になって2年目のとき、体調を崩して入院した体育の先生がいた。すぐに代わりの先生がやってきた。剣道が専門で、要潤が筋肉質になり日焼けしたような感じのナイスガイだった。女性だったら、誰もが「ステキ~!」と叫びたくなるに違いない。
 私ももちろんその口だったけれども、時期が悪かった。梅雨だったのだ。ちょうどパーマをかけたばかりの私の髪は、毎日ブローする方向と逆を向いていた。ふくらませたい場所はぺちゃんこになり、内巻きにしたい襟足は外巻きになっていた。しかも、左右対称ではなく、左は内巻き、右は外巻きという状態である。これではとても話しかける気にはなれない。
 鏡をのぞいては「今日はやめておこう」と思う日が続いた。グズグズしているうちに病欠の先生が退院し、あれよあれよという間に要潤はいなくなってしまった……。髪型なぞ気にせずに、積極的に話しかければよかったと、私は後悔した。
 娘のミキはもっと悲惨である。義母からの隔世遺伝で天然パーマのミキは、つる植物のようにうねうねとした髪をしている。1本1本が太めで、てんでバラバラの方向に伸びようとするので、ドライヤーは何の役にも立たない。ゆわくしかないのだ。
 保育園のときは髪の量も少なく、ショートカットにしていた。クリクリしたウェーブと白い肌が人目をひき、「外人の子供みたい」とよく言われたものだ。
 梅雨になると、ミキの髪はさらに大きくふくらんだ。自分と違う髪だと気づいた園児が、ミキに聞いてきた。
「どうして、モジャモジャなの?」
 ミキは予期せぬ質問にギョッとし、答えに窮したようだった。
「……知らないよ」
 このときから、自分の髪にコンプレックスを持ってしまったようだ。哀れな。
 強いクセ毛に悩む女子高生は、ヘアアイロンを使ってストレートに近づけている。涙ぐましい努力をすればするほど、髪がボロボロになっていくというのに。
 私が勤務している高校では、学校の電気を携帯の充電やアイロンなどに使ってはいけない決まりになっている。しかし、雨で髪が乱れたり、プールの授業のあとには、クセ毛の生徒ほどこっそりアイロンを使っているようだ。
 リサもその日は、教員の目を盗んでアイロンをかけていた。彼女もまた、直毛ではなかった。しかし、残念なことにすぐ見つかってしまった。アイロンを没収されたばかりか、服装違反として彼氏からもらったばかりの指輪も一緒に取り上げられた。
 彼女は泣きそうな顔をして、担任の私に助けを求めた。私は指輪を返してほしいのだと思ったのだが、そうではなかった。
「指輪は別にいいの。アイロンがないと生きていけないよ~! お願いだから返してぇ!!」
 なけなしの金をはたいて買った、彼氏には聞かせられない一言だった。
 ああ、ミキの将来は大丈夫だろうか?



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ズボラー

2008年07月02日 18時05分17秒 | エッセイ
 母の親友には私と同い年の娘がいた。
「舞ちゃんっていう子なんだけど、今は大阪に住んでいるから文通してみたらどう?」
 昭和50年代のことだ。当時、私は小学五年生だったろうか。ちまたでは、文通が流行していたので、軽い気持ちで始めてみた。まさか、大人になっても続く仲になるとは思わなかった。
 わずか11歳の子供が、一度も会ったことのない人に手紙を書くのは難しい。母はなるべくきれいな字で書くよううるさく言うが、何を書けばよいかわからない。『同じクラスの人は、みんな大阪弁で話すのですか』などと綴り、かろうじて便箋一枚を埋めた。
 しばらくして舞ちゃんからの返事がきた。
 思ったよりも字が汚い。しかも、ところどころ書き損じたらしく、グチャグチャとボールペンで塗りつぶした箇所がある。
 が、私は全然不快ではなかった。
 なーんだ、これなら無理してきれいな字で書く必要ないじゃん。
 日頃から丁寧さが足りないと叱られることの多かった私は、彼女から同類の匂いを嗅ぎ取った。等身大の自分を受け入れてくれる相手であれば、背伸びしないですむ。
 手紙が往復するにつれて、舞ちゃんからの返事が遅くなってきた。投函してから返事を受け取るまでに、一カ月ほどかかるのだ。
 これにも私は好意を持った。のんびりしている相手であれば、私も本来のマイペースさを発揮できる。気が向いたときに手紙をしたためればよいのだから、まさに私と彼女はピッタリの相手だったというわけだ。
 文通を始めて半年後、舞ちゃんと弟が写っている写真が送られてきた。性格に共通点があっても、私と彼女は全然似ていない。私は丸顔でおとなしそうに見られるけれども、彼女はほっそりしていて活発な感じだ。
 舞ちゃんも弟も鼻が同じ!
 やや上向きで二等辺三角形のような形をした鼻が、妙に印象に残った。
 その後、舞ちゃんは都内に引っ越してきたので、何回かご対面したことがある。活発な印象どおり、はっきりとものを言う子だった。つられて私も言いたい放題になった。今にして思えば、二人の会話は掛け合い漫才のようだったろう。
 文通は高校を卒業するまで続いたが、彼女が就職したことでゆとりがなくなったのか、いつしか年賀状だけのやりとりになってしまった。
 あれから二十年。お互いに結婚して家庭を持ち、子育てに追われる毎日を過ごしている。
 数年前にもらった舞ちゃんからの年賀状にはインパクトがあった。
『この頃、また文通したいと思っています』
 家族四人が揃った写真の余白に、こんな嬉しい一言が添えられていた。小学生の男の子二人は舞ちゃんとそっくりな鼻をしていて、思わずクスクス笑いがもれた。
 その後、彼女から手紙がくるわけでもなく、私から送るわけでもなく、文通は復活していない。口ばかり、というところも共通しているようだ。



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