昼のガスパール・オカブ日記

閑人オカブの日常、つらつら思ったことなど。語るもせんなき繰り言を俳句を交えて独吟。

日曜日かーたんと『きゃんどる』で・・・・

2017-05-21 16:39:10 | 社会

日曜日。
当然、教会に行く。
礼拝を済ませ、会計処理を済ませ、かーたんと、いつもの三茶・すずらん通りの『きゃんどる』にランチに行く。
エルさんは、昨日の土曜日は土曜授業で深夜残業。今日は後で聞くと昼近くまで寝ていたということだが、その後、学校の書類作成、テストの丸付けなど。
この子は、見ていると丸々一日休みの日は、夏期休暇、冬期休暇の間の年にほんの数日だ。
本当によく働く。
ところで、『アゴラ』に中沢良一という元小学校教諭の人がちきりんさんも見誤る学校教育がダメなほんとうの理由。と題して小論考を載せているので読んでみた。
結論は、まさに学校とは「効率」の悪いところであり、逆に学校とは「効率」の悪いことに耐えるためにあるということにある、というふうにオカブは読んだ。
ここでは、「効率の阻害」は学校運営上での課題か?学力教育・学力向上の上での課題か?そもそも「効率の重要性」を児童に教育することを阻害しているという意味での課題か?言い換えれば、書類作業などの教育以外の公務分掌が効率を阻害している・あるいは教員の事務能力の低さが効率を阻害している?今の授業方法では学力の向上のために効率的ではない。児童に、いかに効率が重要であるかということを教えることを避けているという点に関して混同がみられるが、取り敢えずは、三者が同じく、学校現場での効率を阻害しているととらえることができる。
「効率」を「生産性」という言葉に置き換えると一般の方にも分かり易い。
オカブも数年前、エルさんが初任の頃、今と同じく、早朝から深夜まで、休日もなく働いているのを見て、なんでこんなことまでしなくてはならないのか?と学校の無理・無駄を目の当たりにしてきた。
だから、中沢氏の学校は「生産性」を損ねている、という論考には肯けるところがある。
しかし、一方で、一般営利企業における旧来の「生産性」の概念への疑問も古くから投げかけられている。
言うまでもなく「生産性」とは、インプットを極小に、かつアウトプットを極大にすることが、生産を営む組織目標を最適にするプロセスであるとする概念である。しかし、近来のテクノロジーの高度化と、右肩上がりの成長の鈍化、日本的経営においてルーティンなブルーワーカーとクリエイティブな知的労働者との垣根が低くなりつつあること、さらにはあらゆる新規参入と参入手段の多様化などによる競争の激化により、「インプットを極小化」して競争に勝てるか、疑問が呈され、それが一般化している。それが、社会全般において健全かどうかはさておき、「インプットを極小化しては、アウトプットを極大化できない」というのが、今日の一般的経営上の通念である。
さらには、公教育という現場に「生産性」という運用原理を持ち込んでいいかも疑問だ。小学生の子供は、いうまでもなく多様な将来がある。その中には、生産性に馴染まない職業に就く子もいるだろう。では、そういう子は「ムダ」な子なのか?言うまでもなく、そうではない。
また、エルさんを見ているとわかるが、現在の初等教育現場は、一律に画一的な授業をこなしていれば事足りるものではなく、一人一人の教師が一コマ一コマの授業を、創意工夫し知恵を絞って、学習指導要領に付加価値をつけていくことを要求される。こうした努力は、教員の労働条件を悪化させ、長時間労働や休日出勤を余儀なくさせている一面もあるが、意欲ある教員は、そこに自らの「働き甲斐」を見出して積極的に取り組み、それによって学校現場が支えられている一面もある。
もちろん、学校現場にはびこっている官僚的・繁文縟礼的な因習に起因する無理・無駄は徹底的に排除しなければならないが、もはや経営理論としても陳腐な「生産性」の概念を公教育現場に持ち込もうということが誤りなのであり、中沢氏の論考は皮相的との誹りを免れ得ないであろう。
今の学校の現状を肯定することはできないが、中沢氏は、かつて自らが勤務していた職場の労働環境の悪さに目が行くあまり、公教育の問題の本質を見誤っているように思える。
それと、教員の労働条件の改善、適正な教育予算の確保は、また別の問題である。
こんなことを考え、かーたんと語りながら、『きゃんどる』のご馳走を食べた。


化粧落ち薄暑の妻の愚痴あまた   素閑





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