故郷の幕末史

ふるさとの讃岐に誇りを。
気づいたことや、発見したことを幕末史に限らず書いていこうとおもいます

幕末の富海・飛船問屋大和屋政助

2014年03月26日 05時45分01秒 | 幕末史

防府の旅、続き。

富海は古くから漁業の町で、漁船で近くの島や港に荷物を運んだり、土地の人を相手に商売をしたり、さらに宮島参りの人を運んだりしていた。(PA富海より防府市富海を見る)

 

そのうち大阪に連れて行ってくれるよう頼まれるようになった。最初は断っていたが海面が穏やかな時には鞆の浦や琴平へと足を延ばしても無事に帰ることができたので、大阪まで船を走らせるようになった。船は2反帆・8石積み・2人乗り。1780年頃、河内屋平左衛門が萩飛脚を大阪まで受けあうことに始まり。主に米20俵が積めるくらいの小型船だった。富海の飛船は多いときは60隻~80隻くらい活躍していた。帆に風を受けて走り、風のない時は前と後ろに船頭がいて、ろを漕ぐ。飛ぶように速く航行したことから『飛船(とびふね)』と呼ばれるようになった。 順調に進んだときは、4~5日で大阪に着いたという。また、萩藩の役人達も利用し各地へ往来し、幕末には志士の活動にも飛船が利用されるようになった。富海は旧山陽道そのままの道なのか道路は狭く、漁協の駐車場に車を止め、船倉通りへと歩いた。飛船問屋が軒を連ねた高い石垣が残る通り。 当時の繁栄を思わせる。

 

飛船問屋大和屋政助の船蔵。

大和屋は屋号、本名は清水与兵衛という。文政3年(1820)~明治19年(1886)享年66。幕末時代、飛船等の町方世話役で勤王の志士たちの活動を支援した。嘉永6年(1853)12月徳山藩へ軍用金100両を献納したほか、文久3年(1863)には明治天皇の叔父にあたる中山忠光は幕府から追われる身となり10月に大阪から飛船で富海に落ち延び、この土蔵の2階でしばらく潜伏していた。また元治元年(1864)藩内の保守派に追われ萩を脱してきた高杉晋作を暴風雨の中「飛船」で馬関まで送ったという。   このような活躍をした飛船であるが、現在までに絵馬、図面、写真は見いだされておらず、船の形等を特定することはできていない。

近くの墓地には。その飛船問屋大和屋政助の墓に「尊攘義民大和屋政助墓」と刻んである。

同じ墓地内には「従六位 入江石泉翁之墓」もあった。

 

車の止めてある漁協の前には「伊藤・井上両公上陸跡地」がある。元治元年(1864)英国留学中の伊藤博文23歳・井上馨29歳は、英米仏蘭4ヶ国連合艦隊が馬関を攻撃するという情報を聞き、英国留学を中断して急きょ帰国した。6月24日早朝、姫島から小船で立ち、ここ「飛船問屋・入本屋磯七宅」に上陸した。パンフレット等では当時の庭と建物の一部と残っていると書いてあったのだが、私が訪ねた時は、建物は残っておらず、更地となった一角に案内板と碑だけが建っていた。最近になって壊されたのか廻り草一本生えていない土地だった。残念・・・・。

 

って事で今日はこの辺で。じゃ~またネ


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