故郷の幕末史

ふるさとの讃岐に誇りを。
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防府天満宮の幕末

2014年03月29日 10時55分01秒 | 幕末史

山口県防府市の幕末を訪ねての続き。防府天満宮に行ってきました。 

 

「防府天満宮」は、菅原道真公が亡くなった翌年の、延喜2(904)年にできた日本で、〝最初の〟「天満宮」で、京都の「北野天満宮」、福岡の「太宰府天満宮」と並び、「日本三天神」といわれている。 が、野村望東尼が参詣した頃は「松崎天満宮」・「宮市天満宮」と称していたようである。明治6(1873)年に「県社」に列格「松崎神社」と称す。その後、昭和28年に、「防府天満宮」と改称した。ちょうど防府を訪ねた3月8日は晴天に恵まれ、天神様の梅の花も満開。

 

野村望東尼の像は報告済ですが、その望東尼像の近くに毛利重就公(英雲公)の像がある。

長州藩7代藩主で、財政の確立に務め、産業の開発、教育の振興を計り、藩中興の英主とあ仰がれる。特に宝暦13年(1763)撫育局(別会計)を創設し検地によって得た余裕を別途に貯蓄し、他への流用を禁じた。年を経て、その米銀は巨額となり、後年、長州藩の幕末維新期に於ける活動の財源となった。さらに重就は防府に愛着し、防長の殖産興業の中心となるべき所と着目、良田、塩田を開拓し、隠居後は三田尻御茶屋に住み、積極的に防府の発展に尽くした。8年の防府生活、寛政元年(1789) 三田尻御茶屋で没す。

 

少し下がったところに春風楼が。

建設を断念した五重の塔の一層部分軒下をそのまま床下に組み入れた建物。市内・瀬戸内海を見渡せる。 高杉晋作の諱と同じ『春風』とは・・・。

 

防府天満宮宝物館(歴史館)も見学。 展示物は少なく物足りない感じが。

 

この大専坊は毛利元就が防長両国を平定するまで参謀本部であった。また、幕末にはこの地方を警護する諸隊の屯所となった。

 

暁天楼(ぎょうてんろう)宮一にあった旅館の離れで1階が漬物置場、2階が隠れ座敷になっていた建物(復元)。高杉晋作らの志士たちが滞在したといわれ、彼らが墨で文字を書いた戸袋板が残っている。

 

2階には上がれなかったが写真があったので1枚。

 

って事で今日はこの辺で。じゃ~次回も防府の旅を、またネ

 

 

 

 


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