故郷の幕末史

ふるさとの讃岐に誇りを。
気づいたことや、発見したことを幕末史に限らず書いていこうとおもいます

ペリー再来航の日

2014年01月16日 18時31分05秒 | 幕末史

今朝は5時40分から歩いた。今日も風は無風状態、でも昨日と同じ霜がおりて冷たい、これで風が強ければ歩いてないかも?金倉寺から金蔵寺駅あたりまで、約2時間の歩きだった。

 

今日はペリー再来航の日だ。

 

ペリーの黒船来航は嘉永6年6月3日(1853)に浦賀沖に現れ日本人を驚かせた。それまでに見たロシア海軍やイギリス海軍の帆船とは全く違う黒塗りの船体の外輪船。帆以外に外輪と蒸気機関でも航行できる帆船を1艦ずつ曳航しながら煙突から煙を上げていた。再来航を宣言し、日本を去ったペリー提督は、 宣言よりも早い安政元年の今日再来航してきた。安政元年(1854)1月16日伊豆沖に現れたのである。

軍艦7隻を率い 今度の艦隊は、前年よりも規模が大きく七隻の艦船が組まれて、三隻は蒸気船、四隻は帆船であった。江戸湾に入ったペリー艦隊はそのまま羽田沖まで進行して日本側を威圧した。幕府は寂れた横浜という漁村を交渉の場にした。幕府側は、林大学頭、町奉行・井戸覚弘、浦賀奉行・伊沢政義、目付・鵜殿長鋭の四名である。交渉は2月10日から10日間に渡り、4回の会議に及んだ。そして3月3日に日米和親条約が締結された。

  十二箇条の主な条約内容は、

  ○下田・箱館の開港と薪水・食糧の供給

  ○両港における遊歩区域の設定

  ○外交官の下田駐在許可

  ○最恵国約款の承認などで一方的な米国の要求を呑む形で決まり、いわゆる不平等条約であった。

また、明治12年1月16日福澤諭吉が東京府会副議長に選ばれたらしい。でも福沢はこれを辞退している。

って事で今日はこの辺で。じゃ~またネ


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