故郷の幕末史

ふるさとの讃岐に誇りを。
気づいたことや、発見したことを幕末史に限らず書いていこうとおもいます

新羅神社の河田迪齊の碑

2013年03月21日 17時58分45秒 | 幕末史

今朝は目が覚めたのは4時半。こんなに早く起きられないと、布団の中でじっと我慢していたのだけれど、どうしても眠れない。5時には起き出してパソコン遊びを。5時40分に金倉寺を目指し歩き出した。※お寺の名前は金倉寺、住所は金蔵寺。読みは両方とも「こんぞうじ」と。

 

金倉寺の前の道路、私の子供の頃は道筋に遍路宿や和菓子屋などが数件あったように思うのだが、今は全く見えないし仏壇店もこの1軒だけが看板を上げている。

 

金倉寺の中というか横にある新羅神社にお参り。

 

境内に河田迪齊の碑がある。

 

迪斉は、文化3年(1806)1月15日那珂郡金倉郷(現金蔵寺町)に生まれた儒学者である。近藤篤山に師事。江戸で昌平黌に学び,のち林家の塾頭。 嘉永7年(1854)ペリー再来航の際,林復斎にしたがって条約文を起草した。また、安政元年(1854)に結ばれた日米和親条約の交渉時に、交渉内容の翻訳や経過の記録、訳文書記などを担当している。交渉を進める中、鎖国が時代の流れに合わないと感じ、林復斎らに開国論を進言したといわれる。安政6年(1859)1月17日死去。また、孫の河田烈(イサオ)は昭和15年に第2次近衛内閣で大蔵大臣として入閣している。

生家跡を訪ねてみたが、今は田畑となりその形跡は全く見られなかった。

って事で、3月23日(土)から25日(月)は金倉寺において『智証大師 御生誕1200年慶讃大法会』がありイベントもあるみたいです。  今日はこの辺で、じゃ~またネ


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