黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

黒川谷の鳥海神社

2020-01-09 21:19:03 | 群馬県・旧勢多郡

ひめちゃんと獅子丸は、堀之内を北に出て、朝のお散歩です。

帰り道、蕨沢川上流の「たくみはし」にさしかかりました。

むむ、何か見える

橋のたもとにある石には、ふだんは何も見えません。

何か刻んであったはずですけど。

如意輪観音?

やっぱ、何か見えます

光の加減で、削り取られてしまった仏が姿を現したのです

たぶん明治の廃仏毀釈の時に、削り取られてしまったのでしょう

今朝は、お会いできて良かった、合掌

 

「たくみはし」付近から見た、今朝の赤城山です。

東の峰は雪ですね。

赤城小沼があるので、どうしても雲が懸かり雪が降りやすいのでしょう。

あの峰の東の麓に、小中の大蒼院や医光寺があります

 

 

 

 

さて、さっきスルーしてしまった神社に参拝です。

大蒼院で聞きましたけど、特に関係はないということです。

 

階段の脇にも、なにやら注連縄(しめなわ)があります。

どうも井戸というか、泉というか?

少し前まで確かに大切なものでした。

 

さてさて、階段を登って参拝です

きれいに掃き清められています

 

神社名とかはありません。

とにかく、今年の多幸を祈ります

 

境内から隣の大蒼院が見えます

もうロウバイが咲き始めていました

 

帰宅後地図を確認すると、鳥海神社ということです。

みどり市HPによると、ここ鳥海神社は、小中の獅子舞が奉納されるということです。

ことの起こりは定かではないが、奥州の豪族・阿部貞任は朝廷に逆らい、源頼義率いる大軍に討ちとられた〔前9年の役(1062)〕。弟宗任は捕虜となり、京に送られる際、宗任を慕った一部の家来たちは当地まで同道したが、朝廷の命により京に上ることを許されず、やむなく当地に土着したという。後、宗任を慕った家来たちは宗任を祀り、鳥海神社と名付け、村の鎮守とした。それに伴い、京より伝わった「ささらすり」獅子舞が村の安全・疫病除け・豊年を祈願して舞われたと伝えられている。室町時代の前期、京都から来た師匠が、冬季を利用し、村の各家庭を継承していく子どもたちに獅子舞を教え、毎年旧暦の615日と919日には村にある鳥海(ちょうかい)神社に獅子舞を奉納したのが始まりとされる。


そうだったのですか

宗任を祀っているんですね

 

黒川衆・阿久沢氏や松嶋氏の出自については、別の説もあるようです。

でも、阿部宗任伝説は深く根を下ろしているようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

黒川谷の大蒼院(常広寺三世・明巌鑑察大和尚の開山)

2020-01-09 21:17:10 | 群馬県・旧勢多郡

1月8日の朝は雨でした

1月に雨が降るということがあったでしょうか?

まあ、ひめちゃんたちはレインコートを着ていくほどではありませんでしたけど。

 

 

いわゆる黒川谷(くろかわだに)に、いくつか気になるパワースポットというか史跡というかがあります。

黒川とは、渡良瀬川のことだそうです。

知りませんでした

1月3日、みどり市東町小中(あずまちょうこなか)の大蒼院(だいそういん)と桐生市黒保根町(くろほねちょう)の医光寺(いこうじ)を訪問しました。

みどり市大間々町から、国道122号線を北上します。

 

まず小中の大蒼院を目指します

ナビの指示通りでは、「目的地に到着しました」といわれても何もありません

目の前の急坂を下ると、左手に寺院らしき建物があります

 

やっとたどり着きました

おや、手前に神社があります

後で参拝しまーす

 

山門というか、両側に仁王像があります。

向こうに、山寺らしい雰囲気の鐘楼堂も見えます

とりあえず境内に駐車です。

 

どうも、谷側の方が本来の山門のようです。

門柱も見えます。

門柱目指していくと、霧島ツツジの説明板があります。

樹齢600年以上とあります

きっと見事に咲きほこるのでしょう

また、ツツジの季節に来ましょう

 

となりに、大蒼院の欄間彫刻の説明板があります。

欄間彫刻は、上州花輪村彫刻師集団の石原常八主信(二代目常八)の作です。

ぜひ見学しなくては

 

門柱から降りて、境内に入り直しです。

個性的な蒼面金剛もいます

本来はこちらから参拝していたんですね。

 

 

曹洞宗です

獅子丸の元養家が開基という常広寺と同じです

それにしても、クラシックな階段です

途中に、こんな方もいました。

四面のお地蔵様です

 

 

庫裏を訪ねます。

「こんにちは。御朱印お願いできますか?」

「うちはやってません。」

「では、本堂の欄間彫刻を見せていただけますか?」

「どうぞ、本堂のほうへお回りください。」

 

 

本堂に失礼します。

正面の龍がとても生き生き見えます

ご本尊様に合掌です

 

 

天井絵もあります

柴犬もいます

自然の風物を描いたのですね。

柴犬は、日本の風景の中の存在なのですね

 

 

欄間にこの寺の由来があります。

創建は天文年間中頃、開山は明巌鑑察大和尚、本寺は新里村山上の常広寺

ええ

明巌鑑察大和尚(めいがんかんさつだいわじょう)って、常広寺の三世のあの方ですよね

明巌鑑察大和尚は、常広寺の実質的開山です

そうだったんですか

りっぱな和尚さんだったんですね

常広寺の本寺は、前橋の橋林寺(きょうりんじ)です。

行動半径の広い方だったのでしょう

 

でも、どんなつながりでこの寺を開山したのでしょう?

開基(経済的出資者)については、何もありません。

場所柄、黒川衆が考えられますけど

 

よくよく考えて見ると、本寺の常広寺より大蒼院の方が古いのです

大蒼院の開山は、明願鑑察大和尚で、天文年間(1532~1555)中頃の開山ということでした。

獅子丸の元養家の開基という、山上の常広寺は赤城山天正院常広寺です。

ですから、開山は天正以降と考えられます。

そうすると、明願鑑察大和尚は大蒼院を開山して、晩年に山上の常広寺を開山したということになります。

そして、元和4年(1618)8月13日に、たぶん常広寺で亡くなります。

今まで明願鑑察大和尚は、前橋は橋林寺のお坊さんだったと思い込んでいました。

そうではなく、黒川郷でそれなりの仕事をした後、山上の常広寺の開山の為に招かれたのです

北条方の武将として東上州を走り回っていた、獅子丸の元養家のご先祖様(開基・本橋院殿寶輪廣誉大居士)と、どこかで出会っていたのです

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする