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日々の暮らしから

「街中の案山子」「庭にいます。」から更にタイトル変更します。

お手玉の話から

2005-05-20 11:26:37 | 母のことなど
その頃母は自分に出来る何かないかと考えたのだろう。
4,5歳の子供たちが床に座ってお手玉をしている写真が送られてきた。
手紙には少しの添え書きしかなかったので、電話で話を聞いた。
近所の保育園にお手玉を100個作って持っていったとのこと。
保母さんや子供たちが喜んで受け取ってくれたものの、遊び方が判らない。
いまどきは保母さんもお手玉世代ではないらしい。(そういえば愛知万博で昭和の時代のさつきとメイの家が人気らしいが、見学の子供も、連れて行く親もお手玉遊びを知らないのだろうな)。
そこで日を改めてお手玉の遊び方を教えに行き、その時の写真を送ってくれたとのこと。
保育園の子供は母のことを、○○子おばあちゃんといって懐いてくれ(母は周りの人から「おばあちゃん」といわれることに抵抗のない人です)、「○○子おばあちゃん、こんなに沢山小豆を買ったの。高かったでしょう。お金持ちなの?」なんて、現実的な心配をしてくれる子供もいたそうだ。
「そう、お金持ちだから心配しないでお手玉使ってね」と応じたと笑っていた。
世の中には「お手玉に入れる小豆を買うことの出来るお金持ち」こんなのもありなんですね(笑)。

あれから2年ほど経った。
今88歳。
里山で兄が採って来た山菜などを今でもよく送ってくれる。
「もう、私のところ送ろうと気を遣ってくれなくていいから」と言ったら、その後の同居の兄の電話で、「もう要らないといわれたと、しょんぼりしていた。お前のところに荷物を送るのが楽しみなのだから、もらってやってくれ」と。
いつまでも子供を思うのが親の仕事なのだろう。その最後まで残っている仕事を奪わないわうにと、電話口で伝えてくれる兄。
子供といわれなくなってから、随分と月日がたっているのに、私を子供と思っている人がいることが、なんと幸せなことか、そう思う。
都会の私からの母の日のプレゼントは、いつも紋切型なのに…。






被害者・遺族へのインタビュー報道

2005-05-20 07:34:14 | 社会問題
放送局の公共性…
「某社が支配株主になるとマスコミとして担うべき高い公共性と両立しない」との、某ラジオ局・某テレビ局の言い分。
○○○は皆様の公共放送局です。
「公共性」ってなんだろう。
大きな事件、事故があると、テレビ局各社は放送枠を拡げて特集を組む。「視聴者に知らせなくてはならないから」の使命感なのか。刺激を求める傾向がある視聴者の視聴率上昇を思うからだろうか。
事件現場の報道が一段落したところで、被害者の周辺報道となる。
そんな時被害者が悲しみの挙句に、事故を起こした会社代表者を罵倒する映像や、殺された遺族が、犯人が死刑になってほっとした。良かった、良かったと仏前に報告する映像をそのまま流すのは、どうだろう。
突然襲った悲劇で動転し、高揚している一場面をなんども繰り返し日本中に流されてしまう。
数日の動転の後、更に心境が深まったかもしれないけれど、一旦カメラが取り込んだ映像をテレビはなんども繰り返し放送する。取材は事実なのだから、後は問答無用とでも言うのだろうか。
こんな放送をする放送局が「公共性云々」出来るものだろうか。
放送された人には、5年後、10年後も暮らしがある。日本中に流れた、ののしった映像、重罪を望んだ映像が流れたことは消えないのです。
それでも、その事件・事故を伝えるためにその映像が必要で、それが公共性のあるという放送局の仕事でしょうか。
今日の朝日新聞のコラムの中で地方放送局でカラオケ審査員をしてきた作曲家市川昭介さんの話がのっている。
「ボクは、素人の方の歌を絶対にけなさない。どこかいいところを見つける。テレビの中で傷ついたら、自宅に帰れないじゃないですか」
市川昭介さんの言葉のキーを叩いたいて思った。
これは、組織と個人の違いだと。
市川さんは、市川昭介さん個人の生き方で仕事をしておられる。
放送局の記者は、放送局という組織で報道しているから、マイクの先の「人」が、「次の日も暮らしのある人」であることを考えず、「生の声を取材する」という仕事、極論すれば「仕入れ」にあたるのだろうか。
勢いがあるかもしれないが、だんだんエスカレートするようで気になります。