MK姉のご葬儀に参列しました。
職場を抜け出しての参列で、時間がぎりぎり、裏方のお手伝いが出来なかったのが申し訳なかったです。
でも、良いお葬式でした。
信徒とご親族で礼拝し、お送りしました。
MK姉のエピソードを交えながらの説教には、泣きながら笑う皆さんの姿がありました。
桜泉は、2年前の10月末、宗教改革記念礼拝の受付で、「桜泉さぁん!」と身を乗り出さんばかりに迎えてくれた彼女の姿、お声が何度も何度もまなうらに見えては消えてゆきました。
かの教会の、実は正式な会員でない私を、いつも行くたびに、あれほど熱烈歓迎して迎え入れてくれた人は、他にいないでしょう。
棺にお花を手向けるために、礼拝堂の赤絨毯の通路に並んでいると、宗教改革記念日の典礼色=赤を思い起こして、ますますその日のその光景が浮かんできました。
(ちなみに2年前のイースターでは、桜泉の両親に、すっごいケバイ色の
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/face_ase2.gif)
卵をお土産に持たせてくれたそうです。「持ってきなさい!」と無理やり(?!)手に持たせて。)
火葬場までは行く時間もないので、教会の戸口で、お棺をお見送りしました。
またひとり、信仰の先輩を、天国の入り口までお送りして、戻ってきました。そう思っています。
今日のお葬式では、献花がありませんでした。
(上記のように出棺前に棺にお花を入れるだけ。)
それもあってシンプルなお葬式でした。
ご遺族のご挨拶も超シンプルでした。さすが江戸っ子(というか麻布っ子)、遺族の鑑、あらまほしき理想の挨拶でした。世の中のエライ人とやらはぜひ見習って欲しいでした。(まじ)
何で献花無しにしたのか分かりませんが、先日偶然、キリスト教のお葬式に本当は献花は必要ないということ、もしくはむしろするべきではないということを、ものの本で読んで知ったばかりでした。
あれは日本で主流な仏教葬儀の焼香にあたるものがないと落ち着かない?から出来たものだそうで、厳格に考えるクリスチャンは、死者を礼拝することになりかねないからしない方がいい、と考えるそうです。
その是非はともかく、そう、お葬式といえども礼拝なんですね。
あくまでかみさまを讃え、かみさまと向き合う式なんですね。
その中で、亡くなった方の信仰の人生を思い起こし、偲びます。もちろん、亡くなった方に、この地上でのお別れを告げます。
信徒じゃない方はそういうこと知らないので仕方ないですが、だから本当は、教会でのお葬式では、お棺の前で手を合わせたりしない方がいいです。
誰より、亡くなった方も、それを望んでいないでしょう。
もちろん・・・今日、霊柩車が出発する時、万感の思いをこめて、また会う日までの別れのために、桜泉は深く頭を下げるしかなかったし、そうしたのですが。手を合わせはしません。
教会のほかのオバチャン(おばあちゃん)たちが、霊柩車が出るとき「また会いましょうね!」と口々に声をかけていたのが、とてもとても、印象的でした。桜泉も、そう思います。
帰り道々、ふと詩ができたので、別記事で。