10月頃だったか、すごく不穏当なる発言をこのブログでしていました。
「牧師よ、信徒を舐めんなよ」などと。
そして、パパガスと桜泉で、ある小さなプロジェクトを進行中、私たちには私たちの宗教改革がある、と。
かいつまんで言うと、こういうことでした。
キリスト教界の中には、いや、いろんな宗教にあるのですが、その宗教の正典・経典を、字句どおり文字通りに受け取るという立場の人がいます。
また、そこに書いてないことを言ったり想像するのは怪しからんこと、と忌諱する向きがあります。
信徒にもそういう人がいれば、牧師にもそういう人がいます。
で、教団内のニューズレターに、牧師と思われる人が、イエス・キリストにまつわるとある(一般人でもわりとよく知っているような)説や戯曲・小説などを、そういう立場から頭ごなしに批判して切り捨てるような文章を載せていたのです。(しかも論理や文章が…悪いけど、結構稚拙。これは本当に牧師の文章かい?と思いましたが、それはここでは横に置いておきましょう。)
二つの点から桜泉とパパガスは「なんじゃこりゃ」と思いました。
一つは、そういう、何だか幅もゆとりも無いような聖書理解、そして教義をただ護ろうとする内向きな姿勢が、良くないと思ったのです。
もう一つは、それを教団とか牧師の立場とかいう権威権力をかさに、頭から教え込もうとする、蒙を啓いてやるという臭いが、行間からふんぷんと感じられたからです。
それで、その記事への批判文なんか、二人で執筆して教団に送っちゃいましたが、その後どうなったか、分かりません。多分ボツでしょう。
珍説奇説、聖書から想像・空想されるいろんなことを、これが絶対に正しい事実だ!と言うのは、桜泉だっていかがかと思います。
でも、空想や想像を封じ込めるなんてナンセンス。それだけ聖書の世界が豊かで、また私たち人間も、いろんなことを思う頭を、心を、与えられている証拠じゃないかと思うのですが。
それと、これだけいろんな学問などが発展し、社会が複雑化した中で、神話的世界や宗教的真実と、歴史的事実、科学的客観的事実ということを、どう分けて考え、でもどこかで統合させていくのかということは、今の時代の課題で、またしかし難しい問題なのだと思うのです。
どれが「嘘」でどれが「ほんと」だなんて、簡単に決められない世だし、そういう時代に来ているし、そういう時代の中で、語られることは、2000年前の古代や、5~600年前の中世などとも、違ってこざるを得ない、それが変わらないでいい、変わらないのだ、なんて言う方が変でしょう。
前置きが長くなってしまったけれど、嘘、といえば。(それが引き出したかっただけ…。)
クリスマスを描いた宗教画はいっぱいあります。降誕の絵。そして、絵だけではなく、教会ではクリッペというものを飾ります。家畜小屋と聖家族の模型です。
飼い葉桶の中の幼いイエスを囲むマリアとヨセフ、動物、羊飼い、東方の博士…。かわいらしい赤ちゃんを囲んだ、それは幸せそうな光景、桜泉など、思わず2年前の12月24日を思わずにいられません。(Jくんと一緒に産院を退院したのは何と12月24日。実家ではかわいいゆりかごを用意してあって、Jくんを早速そこに寝かせ、桜泉夫婦、爺婆で取り囲んで、それはそれはとんだ降誕劇状態でした。)
また、大抵というか当然、マリアもヨセフも動物はともかく他の人間たちも、幼子イエスを礼拝しています。幼子ながらイエスは聖なる威厳に満ちたポーズを取った人形もあります。だから、見ていると荘厳な気持ちにもなります。
でも、敢えて言うなら、これこそ「嘘」「嘘っぱち」ではないかと、思うのです。
このクリスマスに何度かルカ福音書の、降誕の箇所を読みました。読みかえしました。
自分が知っている、頭に浮かぶ、いろんな絵、像を振り払い、捨てながら。
難しいことでした。とても。もう、あの甘くロマンチックで幸せで温かくて荘厳な家畜小屋が聖家族が染み付いているのです。
でも、一生懸命それらを取り払って、ただ聖書を追ってみました。そして自分で想像してみました。
予定日が近づいているのに旅をしなければならなかった若夫婦。旅先は宿がいっぱいで、野宿同然の状態。(だって、家畜小屋です。今、誰が馬小屋牛小屋に寝泊りしたいですか?)そこで女は産気づき、よりによってその家畜小屋で子を産む羽目になった。しかも初産婦が!お産の経験のない人が!
暖房もない、衛生面でもあまりどうかという環境、お産なら力を貸してくれる近所の女たち、肉親親類、そして今でいう助産師、つまり産婆さんもいなかったであろう…。
生まれてきた子は当然新生児です。クリッペや聖画にあるような、どう見ても1~2歳児に見えるあんなものじゃない、ふにゃふにゃの、猿みたいで、小さくて弱い、新生児。新生児なんて、本当に小さいです。Jくんは違ったけど(←3551g…)、昨今2500~2800gで生まれる子も多いし、ともあれ平均で3kg、身長も45~50cmぐらいしかない。皮膚もふにゃふにゃで、人らしい顔になってくるのはやはり1ヶ月健診を過ぎる頃です。
無い無い尽くし、というかもう惨め尽くしの環境に、新生児が生まれて、それでも必死にこの命を護ろうとする若い夫婦。
そこに、羊飼いだのなんだののおっさんが訪ねてきてお祝いしてくれたのは、地獄に仏?、嬉しかったでしょうね。(でもちょっとわずらわしかったかな…どっち…?)
桜泉がJくんを生む時、やはり夜だったのですが、介助してくれるのはベテランの助産師さんひとり。
パパガスは東京から藤沢に急行中ですが、当然陣痛の介助には間に合いません。
婆は連絡役として、家と産院を往復する役目。
でも、桜泉としては、専門家が介助して、お産をリードしてくれることほど心強いことはないので、ありがたかったです。
破水して、いよいよ分娩室に移ってからも、助産師さんはずっとリードしてくれるのですが、経過が順調だと、飲み水を取りに行ったり、次の段階に必要なものを整えたりしに、時折、数分ほど場を離れるようになりました。一人でこの調子でいきんでて下さいとのこと。
不安でした。超不安で、そういうときの痛み苦しみは、彼女がそばにいるときの倍に感じられました。
そういう中で、諸般の事情で一人で産む羽目になった人はどれだけ大変だったろう、辛かったろう、とそういうことが頭をよぎりました。
筆頭格として、マリアその人のことも思いました。もちろん彼女は今でいう夫立会い分娩だったけど、男なんて男なんて…こんなときなまじいると却って邪魔なこともある!!!!
暖房も灯りもあり、衛生もきちんとして、器具も揃って、何より専門家のいる産院にいても、お産は大変なもの。綺麗事ではないことだけはたしかでした。
生まれてきた子も本当に猿か宇宙人で、ふにゃふにゃで…やっぱり小さく弱いものでした。(Jくんはそれにしてはでかかったけどね。)
だから、あのベツレヘムで起きた、あのお産、子どもの誕生は、今そこで起きた事象として見れば、惨めで辛くて貧しい事柄に他ならないんじゃないかと思いました。
そして、さらにはふと、ひとつの詩を思い出したのです。
栗原貞子という人が書いた「
生ましめんかな」という詩です。2005年の紅白歌合戦の中で、吉永小百合が朗読していました。(あるブログに文が載っていたので参照させていただきます。勝手にリンクしてごめんなさい。)
このお産の状況と、ベツレヘムの家畜小屋でのお産、何が違うと言うのだろう、とても似ているじゃないか。そう思ったのです。
聖画よりクリッペより、こっちの方がそっくりじゃないか。
原爆投下後の惨状の中、それはさぞかし命などと、幸せなどと縁の無い、地獄だったことでしょう。
その真っ暗闇の中で、瀕死の助産師が、これまたおそらくは当然怪我をしているであろう産婦の介助をして、一つの新しい命を生まれさせ、そして助産師は息絶えたということ…。
(ちなみに、あるサイトを参照したら、モデルになったその産婆さんは、実際には命を取りとめられたそうですし、生まれた赤ちゃんはどうなったやらと暗い思いでいたら、何と無事育たれ、今はもういい歳のお方だそうです。ほっとしました。)
野暮を承知で、でも言わずにはおれません。
クリスマスなんか、ロマンチックでも温かくて幸せでも神聖なものでもなんでもない!そんなものこそ、敢えて言うなら嘘なんだ!と。
甘ったるい、人口に膾炙したクリスマスキャロル、そう、讃美歌すら、うそぱっちかもしれません。
神様は、それを見ろ、その場所を、その事象を見ろ、そんな真っ暗闇を見ろ、地獄に近いような真っ暗闇を、と言っている気がしてなりません。
そこに命が生まれるということを見ろ、と言っている気がしてなりません。
じゃあそれはどういうことなんだろう、私にとって、一人一人にとって、どういうことなんだろう。
それは、一人一人が、「思い巡らせろ!」と神様からの一大宿題を、もう2000年以上も前に出されているのではないかと、そう思うのです。
桜泉はしばしば、かなり頻繁に、この宿題ができなくて解けなくて完成しなくて、ヤケを起こしているけれど――。
このヤケクソの中にも、神様は来て下さるでしょうか。来て下さると思いたいです。
真っ暗闇の中のその産声は、そうとう耳を澄ませなければ、聞こえないのかもしれません。いや、そうなのでしょう。耳を澄まし、目を凝らさないとね。
クリスマスは、耳を澄ませ、目を凝らすことを、プレゼントされる時間なのかもと、思います。