ベツレヘムの家畜小屋発

グレグレ耶蘇・桜泉のブログです。

13歳の生命倫理

2012年02月15日 | こどもについてのがくもん
先日のヘヴィ話が今回の第二人生への動機の70%だとして、それもさることながら、残り30%…桜泉は昔から、どうしてか、障害のある人に目が行ってしまう、お節介を焼きたくなってしまう、見て見ぬふりできない、先天性お節介空回り正義感症のケがあった。(空回りがポイント。)

それは本当に、どこからどう培われたのか分からないので、先天性としておくけれど、たぶんやはり先天性ではないはずだ。

しかし、桜泉の障害者との出会いは、本当に不幸なもので、幼稚園の同級生で知的障害のある男の子が、桜泉だけをターゲットにして傷害行為(叩く、つねる、髪を引っ張る、飛びかかるなど)をしてくるのだ。どうやら彼にラブの心を抱かれてしまったからなのだそうだが。桜泉に最初にアプローチしてくれた男性(しかも結構イケメン)ということで、彼を恨む気持ちは全くない。当座は嫌だったけどね。
それに、もう一つ不幸な出会い。近所に、今でこそ当たり前な、30代半ばで結婚して駆け込み出産というご夫妻がいた。そうしたら2番目のお子さんが生まれた時、染色体異常による知的障害があることが分かった。
彼も今はいい青年だが、障害の程度はやや重度なようで、何か思うようにならないとき、作業所に行きたくないときなどに、パニクって大声を挙げてしまう。子どものときは、いつも彼の鳴き声や叫び声が近所に響き渡っていた。聞いていて、あまり気持ちのいいものではないし、受験生かつナーバスな年頃の桜泉には受け入れがたいものがあった。
ただ。この彼が生まれた時、このことを知った桜泉の親戚が何気なく一言「どうしてお腹にいるときに検査しなかったんだろうね(高齢出産なんだから)」とのたもうたのを、耳が聞き逃さなかった。そして、2秒置いて、その親戚の神経を疑い、義憤を感じる13歳、中学1年の少女であった。的確に、その言説の意味を把握した。お腹にいるとき検査したら、そして染色体異常が分かったら、どうしろというのか。親戚が言ったことのその先の意味を、13歳は、何故か、すぐ理解し、怒った。

なぜだろう。だれが私に教えたのだろう。13歳の私に、その生命倫理を備えた周囲の大人と環境は、なんだろう。
思い出そうとしてもわからない。
ただ、不思議な見えない導きで、桜泉の周りには、上記の親戚のような、ある意味常識的日本人もいたけど、そうではない、生命倫理や人権意識を醸成するだけの人々、状況があったのだと思うしかない。
そのことを、本当に感謝してこれからにあたりたいものだ。
13歳の生命倫理、そこまでみんなが苗を育ててくれて、それから苗は眠っていたけれど、遅咲きでまた成長を始めよう。

※付記:出生前診断と妊娠中絶/継続については、これが正解というものは無いと考えています。一律に、検査をするな、産め、という意見ではありません。しかし、妊産婦とそのパートナー以外の人間が、その決断に口出ししたりすることにはNOを表明します。どちらを選んでも苦渋の決断をした人に、寄り添う気持ち、祈りの気持ちを持つのが隣人の態度ではないかと考えています。

今日はヘヴィな話: 兄への詫び状

2012年02月14日 | こどもについてのがくもん
桜泉が、いろいろの困難があるにもかかわらず、発達心理学をベースに、行く手はどうなるか分からねど(わが行く道いつ如何になるべきかはつゆ知らねど…)、障害児の養育、発達、教育について学ぼうとしているけど、この決断に至るには、本当にヘヴィな体験がありました。
それを知らない人は、私がいい年して、のーたりんのくせに、勝手な夢を見ていると思っているようで、とっても皮肉な激励を下さることもあります。
知らないのだから仕方ないし、そういう人にいちいち事情を説明する気はないので、耳から入って、ケツから屁にして出してやれと思います。
今日は、その事情を書きたいと思います。
ヘヴィな話は見たくない人や、発達障害の当事者、家族で、悪い予後を辿ったケースを読みたくない人はここで引き返して他の記事をお楽しみください。







桜泉には、6歳年上の兄がいました。
両親が結婚して翌年に授かった待望の第1子で、しかし、お産はちょっと難産となり、母は産後の肥立ちがよくありませんでした。
乳児の時の兄は、夜中にすぐ突然お乳(というかミルク)をひどく吐く子で、母は安眠もできず、以来、長いこと常夜灯をつけてないと眠れないという習慣が身に付いたほどでした。
全般育てにくさがありつつ、それでも、一応その他の体や脳の発達は平均通りだったようです。
しかし、幼稚園に入るとことは一変しました。集団生活になじめなかったのです。そして、お友達ともトラブルになり、他の保護者から、教諭たちから、白い目で見られるようになりました。
小学校に入れば、激しいいじめの標的となりました。そしてそれに歯向かうためにたまに彼が暴力的な行為に訴えると、そのことばかりが取り上げられ、母は教師に叱られ、相手の親に詫びて回る羽目になる、それは地獄のような日々だったそうです。また、夜尿症がひどく、県立こどもセンターに通うも、小学校高学年から中学ごろまで症状は続き、キャンプや修学旅行は、綱渡りの心境だったそうです。
ボーイスカウトに入れれば社会性が身に付き体も丈夫になるかと思って、母は入団させましたが、やはりここでも対人トラブルが絶えなかったようです。彼なりに頑張っているように、妹からは見えましたがね。
中学に入っても同じこと。級友たちが寄ってたかって彼をベランダだか用具室だかに閉じ込めたので、彼がドアのガラスを突き破ったところ、学校側には、兄がガラスを損傷したことを責められ、弁償させられました。私が母親なら、まず、その閉じ込めた輩の非を責めて、少なくともそのまま弁償はせず、間に弁護士入れますね。でも…時代も今と違いますし、母は、母なりの事情から、大変学校や世間に対して、当時は卑屈になっていて、言うがままでした。
兄は、語学には才能を見せ、また、鉄道ファンであることから地理などには才能を見せました。なので高校進学では、文系のいい成績を生かして、ある程度のランクの高校に行かれるはずでしたが、…おそらくそのあたりに、彼をいじめたやつらがたくさんいたのでしょうね、わざと、今風にいえばDQN高校よりちょっとまし?ぐらいな高校に進学しました。そういうところの子たちの方がのんびりしていて、それほど彼をいじめなかったようです。
3年間ゆったり過ごせたかいもあり、そこそこ難関の私立大学に入ることもできました。その高校から現役でそんな大学に進学したのは初めてだとほめられたのは、彼にとって…珍しくほめられる体験だったことでしょう。
大学ではフランス文学を専攻し、一方で歌のサークルに入ったりしていましたが、やはり対人関係がうまくいかず、しばしば大学の相談ルームを利用していたそうです。
その頃になって、桜泉も年頃になってきますから、兄がちょっと普通じゃないことははっきり感じていましたし、正直言ってあまり好きじゃなくなっていました。
彼は大学を終えるとき、大学院進学を希望しましたが、時はバブル、しかもバリバリのサラリーマン文化を生きる私の父に猛反対され、某食品会社に就職しました。
たどたどしくながらそつなく勤めているように見えました。
ただ、一方で、もうその歳になったらそろそろ独立することを考えたら?というところですが、料理も洗濯も何もかも、母に一任、そういうのが妹から見て歯がゆかったですが、母に言わせれば、不器用な彼には無理なのだとのことでした。本当に、異常なまでに不器用だったのです。
あと、父とは大変不仲で(桜泉もなんだけど)、それもあってか、美味しんぼの海原雄山をすごく嫌っていました。たかがマンガのお話、つまり架空のことなのだから、いやなら読まなければいいし、本気で怒らなくていいのに、いつも海原雄山のことを怒って嫌っていました。
そうして彼が27歳になったゴールデンウィーク明け、桜泉は教育実習に行こうとしていたその時、彼は突然仕事を無断欠勤するようになったのです。
家に帰っても、様子が変で、部屋にこもってしまったり、食事中にうとうとしたりするようになっていました。
この時、桜泉が、今の知識を持ってタイムマシンに乗ってそこに行けたらどれだけよかったか、言っても言ってもせんのないことを思わずにいられません。
様子のおかしい、仕事を休む兄に、母は、自分から事情を聞こうとせず、かといって病院に連れていくなどもせず、まず、よりによって、彼の嫌う父親に、話し合いをさせてしまいました。これも、母の抱える特殊な事情から、困ったことは全部父親が対処すればいいという半ば信仰のようなものに基づいた、誤った行動だったのですが。
桜泉は、それはいくら何でも一番ヤバいと、直感及び心理学徒として気づいていたのに、口出ししませんでした。不作為の罪とはこのことです。いや、もっと何か、「あの人ともう関わりたくない、兄妹でも」と言ってしまったと記憶します。
その翌日だったか土曜日の朝(食品会社なので土日でも休みではなく、週の半ばに2日休みがあることがありました)、桜泉が寝坊して起きたら、彼の部屋は空で、ああ、出かけられたんだ、と思い、ほっとして朝食の席に着いた直後、電話が鳴り、彼が、自死を選び、命を終えたことを、警察から知らされました。
遺書はこうでした「生きることに疲れ果てました」。

それから数年間は、この現実を桜泉自身が全く受け入れることができず(何といっても自分も社会に出ようという不安定な時期でしたし)、桜泉自身がひどく病んだモードになってしまいました。家族に傷を残すような形で死んでいった兄を心底憎みました。
しかし少しずつ時間がたち、よくよく母と話し合っていくうちに、今なら、21世紀なら、彼には多分、いや絶対に、高機能広汎性発達障害の診断がついたであろうことに結論がいたりました。
なので、兄の気持ちがわかりました。彼にとって、まさに生きることは、苦痛の連続、彼に見える世界は、彼に刃を突き付け、意味不明のことを要求して、挙句にいじめてくる、とんでもない世界なのです。27年生きれば、もうそれは普通の人の50年分か60年分だったと思います。疲れきって当然です。

こういうことがあったので、Jくんにちょっと変わった様子があると、そのたびに区の発達相談機関に駆け込んでは相談しました。ゆーくんは…ちびまるこちゃんよろしく、第2子モードで、なんかあってもややスルーでしたが。結果、Jくんはどうやら、少なくともそういう障害の診断がつくようなものではなく、彼の個性の範囲でとどまっているようです。

そしてそして。私もこうして子どもたちの母になって、子どもの心配をしたりしているうちに、兄の生きた苦労がやっと胸の中にすとんとわかり、また、私の母の苦悩も、理解できるようになったのです。
そんなあるとき夢を見ました。この東京の家に、夜遅く、コートを着た兄が無言で訪ねて来たのです。夢の中の桜泉は、あわてて明かりをつけてドアを開け、寒いから早く入って、さあ、と招き入れ、起きてきた子どもたちに、お前たちの伯父さんだよ、伯父さんが訪ねてきてくださったよ!と興奮気味にまくしたてていました。その夢を境に、兄の自死を、受け入れることができたのだと思います。無条件で、生きていてほしかった。子どもたちの伯父さんとして、そこにいてほしかったと。

そして思うのです。兄が死んでもう18年がたとうとします。この18年の間にも、これから未来永劫も、できるなら、発達障害の帰結として、誰ひとり自死してほしくないと。
一方でしかし、私はそう楽天家でもおめでたくもないので、おそらくこの18年の間にも未来にも、残念ながら、そういう結果になってしまう人が一人以上出るであろうことも予想がつきます。
でも、ならば、私は、一人でも、それを減らしたいです。本当はもうだれも死んでほしくない、でもそれが無理ならせめてそれを減らしたい、発達障害を抱えて特に自閉症系の障害があると、本当にこの世が全部刃となって迫ってくるような体験がたくさんあるだろうけど、それでもそういう人と一緒に、生きる道を見つけたい、そう、願って、新しい道へ歩み出そうと思います。

学びはあくまで自分の思い立ちで自分のためにするものですが、いつか私が地上の生を終えた時、兄に詫び状を携えて天に行けるようにしたいとは、思っています。

命は一回しか捨てられません

2012年02月03日 | こどもについてのがくもん
パパガスが、大学などでは道徳教育論の授業を受け持っていることもあり、そういう問題にも関心を向けることがあります。
桜泉が子どもの頃の教育現場は、先生方の自由裁量が利く余地が大変広かったので、小学校中学年の時の担任は、道徳となると、晴れの日はひたすら校庭でスポーツや昔ながらの鬼ごっこをさせました。雨の日となると、教室で、カードゲームや将棋などをさせました。子ども同士がぶつかり合う遊びの中で、自然と対人関係や危機管理を学ぶことを目標としたのだと思います。小学校高学年の時の担任は、持ち前の国語指導を活かして、さまざまな読み物を持ってきてはディスカッションをさせました。一人一人のいろんな感じ方を取り上げてくれました。

それに対して、今はそうではないそうです。指導教本があり、その結論は決められており、そうなるように指導しないといけないのだそうです。

あほか。

この世のことを一つの結論に決められるならだれも困らないんだよ。無人島で一人で暮らすわけじゃあるまいし。

さて、先日、ある新聞記事で気になったのがありました。
先の大震災で、津波の避難放送を最後まで続けていたためにご本人はその津波の犠牲になった公務員の女性がいらっしゃいましたよね。彼女はなぜ最後までそこで放送を続けたのか…もう覚悟を決めておられたのか、それとも、町役場は安全だといわれていたのか…。
その人のことを詩にした作品が、今度道徳教材となるのだというのが新聞記事。

それって道徳教材になるんだろうか、桜泉は深く疑問。

確かに彼女の声によって危機を感じ、避難行動に移って助かった町民の数はたくさんあるでしょう。
しかし、どうして、こういう非常事態のお話が、しかも人の命の存亡に関わるお話が、いきなり道徳教材になるのか分かりません。
命を賭した自己犠牲は美しいとでも……?

ふざけるな。

今、子どもたちに教えるべきは、「生きろ」と言うその三文字じゃないでしょうか?
何があっても生き抜け。
そして、隣にいる誰かも、君が憎いと思うその誰かも、見ず知らずの遠い国の誰かも、皆同じように「生きろ」というミッションを背負ったかけがえのない命なのだということをこそ、単にお話ではなく、日常の随所随所で子どもたちが感じて、胸に染みこんでいくようにしていかなければならないのが、今の社会ではないのでしょうか?

確かに、人のために、何かのために、命を賭さねばならないときは、来ることがあります。また、先の震災のように、突然理不尽にも命を終えねばならないこともあります。
しかし、それは、その人にとって、たった一回しかできないことなのです。最後の最後の最後のことなのです。

聖書を引き合いに出せば、かのイエスその人こそ、敵対者と論争している内にヤバイと思ったら逃げています。上手く身をかわして隠れたりもしています。そして、いよいよ十字架は避けられないなーとなったその晩も、有名なゲッセマネの祈りにあるように、直前まで、この杯を去らせて下さい(=十字架死はイヤです)と切なる祈りを捧げているのです。
使徒行伝に出てくる聖パウロだって、何度も危ないところを逃がしてもらったりして、最後の最後、必要あってここぞの時にこそローマに行って死んでいるわけですし、聖ペトロも「クオ・ヴァディス」のお話にあるように、ギリギリまで逃げの姿勢を取って、でもここ一番だと思ったその時にこそ、逆さ磔の死に従容としてつくのです。

やたら自己犠牲を説くことも、やたら自己犠牲を美化することも、そしてやたら、自分はそうするぞーなどと普段から言ったり心がけたりすることも、余り意味がないか、下手をすれば、何が本当に必要なことなのか、そして、この一度限りのかけがえのない命の意味が何なのか、判らなくして、――最悪、(権力者などに)いいように利用されてしまうのがオチではないでしょうか。

こういう「究極」なお話は、そうやたら限られた授業の時間で、しかも結論を用意した形で学ぶのには相応しくないでしょう。

年間自殺者が、未曾有の大震災の死者数より多いこの国で、未来ある子どもたちに教えるべきは、あなたも生きろ、だから他の人も殺すな、ではないでしょうか。