先に Einthusan.tv で『RRR』を見始めて20分で挫折した、展開に予想がついたからだと書いた。具体的には、オリジナルのストーリーでも何でもない、古代叙事詩『ラーマーヤナ』の、インドに腐るほどある翻案にすぎないと感じたからである。
こちらにまとめてある『ラーマーヤナ』サビの部分を参照してもらいたい。
警察官ラーマはラーマ王子、ゴンド族のビームが王子の従者である半神ハヌマン、魔王に誘拐された王子の妃シーターがゴンド族の少女マッリだ。
S・S・ラージャマウリ監督の、高カースト礼賛(カースト主義礼賛)と先住民族差別に対する深い怒りをたたえた、ゴンド族ジャーナリストのアカーシュ・ポイアムの批評「Identity Theft」にも、このことが指摘されている。
『ラーマーヤナ』の翻案、もっとはっきり言うとプロパガンダであれば、「独立運動映画」の観点から内容を検討するほうが愚かだということになる。
ところが『RRR』は、ラストのアイテムナンバー「Sholay」に、実在のフリーダムファイターをもってくるからまたタチが悪い。そしてここにも当然、RSS らヒンドゥ右翼の刷り込みがある。
「Sholay」では8人の肖像が示されるが、本稿の主旨からうち4人に触れる。
まず呆れるのは、17世紀の人物までフリーダムファイター扱いをしていることだ。インド中南部にマラータ王国を興したシヴァージー(Chhatrapati Shivaji Maharaj; 1627-1680)である。
だが、わざわざこういう非常識な人選をしていること自体、RSS などヒンドゥ右翼の意向の反映といってよい。というのもシヴァージーは、ムガル帝国軍と戦闘を交え、その侵略を撃退したということで、ヒンドゥ右翼がムスリム攻撃のシンボルとして盛んにまつり上げるヒーローだからである。
次に、このアイテムナンバーにくり返し出てくるフレーズがある。
Einthusan.tv ヒンディ語吹替版の英語字幕では、次のように出る。
There is an iron man
In every lane and home
「この国のあらゆる小路、どこの家庭にも、(圧制や弾圧に抗する)鋼の魂をもつ者がいる」といった意味合いだが、インドでふつう「iron man」(鉄の男)と言う場合、具体的に指すのはひとりしかいない。
2番目に登場する ヴァッラブバーイー・パテール(Vallabhbhai Patel;1875-1950)である。グジャラート州首相時代のモディの肝入りで着工され、2018年に完成した、世界最大の「統一の像」その人だ。
独立運動の時代、国民会議派に所属していたパテールの、ネルーとのライバル関係は広く知られている。独立後は、副首相と内相を兼務し、初代首相のネルーを支えた。
ちなみにパテールの、バリスター(barrister; 法廷弁護士)時代からの半生を描いたヒンディ語映画に『Sardar』〈サルダール、1994〉がある。本国版 DVD は特典資料が充実しており、私は20年ぐらい前に買って見ている。
パテール視点からの叙述なので、ジンナーの描き方には少なからず疑問がある。
ただ、いちばん印象的なのは、(分離独立というかたちでだが)国づくり、しかも途方もない多様性を束ねるインドの建国というものが、いかに気が遠くなるような困難を伴う大事業だったかということだ。
パテールは、国民会議派内のいわば右派で、国際的な視野には欠けるものの、清濁併せ呑む老獪さと計算高さで激動の時代をさばいた。
『Sardar』はまた、1回見て終わりにできるものではなく、さまざまな史料をつき合わせながら検証的に見直すことが求められる作品である。
折々にそれを行なう年月が、モディ首相とインド人民党(BJP)が興隆した時代に重なった。この間、かれらがパテールに言及するつど、パテールの言動や業績から都合のいい部分を拾っているとしばしば思った(たとえばカシミール問題への対応)。
少なくともはっきり言えるのは、BJP や RSS などヒンドゥ右派勢力には、パテールほどの器量も度量もないということだ。巨大な像を建ててパテールの後継者を気取るなど、僭越の極みである。
そもそもパテールは、あくまでМ・ガンディの信奉者であり、有能な右腕だった。
VHP(世界ヒンドゥ協会)の手駒、バジュラング・ダルのようなゴロツキを使って、ムスリムや指定カースト(かつての不可触民)や先住民族を日常的に殺傷する現代インドを、パテールが許したはずがない。
ここでアイテムナンバーへの疑問が出てくるだろう。
フリーダムファイターを讃えるなら、なぜガンディが挙げられないのかと。
理由は、先の記事で説明したとおりだ。ヒンドゥ右翼にしてみれば、独立運動にアヒンサー(ahimsa;非暴力)というけしからん手段を講じたガンディは、フリーダムファイターどころか悪魔そのもの、憎悪の対象だからである。
そして「それゆえにこそ」、日本とも関わりの深いスバース・チャンドラ・ボースと、バーガット・シン(Bhagat Singh; 1907-1931)が登場するのだ。
すなわち、アヒンサーに納得がいかず、武力にうったえる手段を求めて、ガンディや国民会議派と袂を分かったのがボースである。
また、バーガット・シンは同志とともに、英国人警察官僚の暗殺や、国会での爆弾投擲事件を起こした。ただし、当時の英国政府が非難したような、見境のないテロリストでは決してない。
「Sholay」の暗喩は単純だ。暴力の称揚と武装の勧めである。
だれに抗するために武装せよというのか?
ヒンドゥ国家(Hindu Rashtra)を構築するうえで邪魔な存在すべてに対して。
よくよく注意しなければならないのは、パテールのところで述べたように、シヴァージーにせよ、ボースやバーガット・シンにせよ、その思想や業績、当時のコンテクストといった全体像を理解してのことではなく、ただ「暴力」「武力」を行使したという点のみで、もち上げているにすぎないことである。
こちらにまとめてある『ラーマーヤナ』サビの部分を参照してもらいたい。
警察官ラーマはラーマ王子、ゴンド族のビームが王子の従者である半神ハヌマン、魔王に誘拐された王子の妃シーターがゴンド族の少女マッリだ。
S・S・ラージャマウリ監督の、高カースト礼賛(カースト主義礼賛)と先住民族差別に対する深い怒りをたたえた、ゴンド族ジャーナリストのアカーシュ・ポイアムの批評「Identity Theft」にも、このことが指摘されている。
『ラーマーヤナ』の翻案、もっとはっきり言うとプロパガンダであれば、「独立運動映画」の観点から内容を検討するほうが愚かだということになる。
ところが『RRR』は、ラストのアイテムナンバー「Sholay」に、実在のフリーダムファイターをもってくるからまたタチが悪い。そしてここにも当然、RSS らヒンドゥ右翼の刷り込みがある。
「Sholay」では8人の肖像が示されるが、本稿の主旨からうち4人に触れる。
まず呆れるのは、17世紀の人物までフリーダムファイター扱いをしていることだ。インド中南部にマラータ王国を興したシヴァージー(Chhatrapati Shivaji Maharaj; 1627-1680)である。
だが、わざわざこういう非常識な人選をしていること自体、RSS などヒンドゥ右翼の意向の反映といってよい。というのもシヴァージーは、ムガル帝国軍と戦闘を交え、その侵略を撃退したということで、ヒンドゥ右翼がムスリム攻撃のシンボルとして盛んにまつり上げるヒーローだからである。
次に、このアイテムナンバーにくり返し出てくるフレーズがある。
Einthusan.tv ヒンディ語吹替版の英語字幕では、次のように出る。
There is an iron man
In every lane and home
「この国のあらゆる小路、どこの家庭にも、(圧制や弾圧に抗する)鋼の魂をもつ者がいる」といった意味合いだが、インドでふつう「iron man」(鉄の男)と言う場合、具体的に指すのはひとりしかいない。
2番目に登場する ヴァッラブバーイー・パテール(Vallabhbhai Patel;1875-1950)である。グジャラート州首相時代のモディの肝入りで着工され、2018年に完成した、世界最大の「統一の像」その人だ。
独立運動の時代、国民会議派に所属していたパテールの、ネルーとのライバル関係は広く知られている。独立後は、副首相と内相を兼務し、初代首相のネルーを支えた。
ちなみにパテールの、バリスター(barrister; 法廷弁護士)時代からの半生を描いたヒンディ語映画に『Sardar』〈サルダール、1994〉がある。本国版 DVD は特典資料が充実しており、私は20年ぐらい前に買って見ている。
パテール視点からの叙述なので、ジンナーの描き方には少なからず疑問がある。
ただ、いちばん印象的なのは、(分離独立というかたちでだが)国づくり、しかも途方もない多様性を束ねるインドの建国というものが、いかに気が遠くなるような困難を伴う大事業だったかということだ。
パテールは、国民会議派内のいわば右派で、国際的な視野には欠けるものの、清濁併せ呑む老獪さと計算高さで激動の時代をさばいた。
『Sardar』はまた、1回見て終わりにできるものではなく、さまざまな史料をつき合わせながら検証的に見直すことが求められる作品である。
折々にそれを行なう年月が、モディ首相とインド人民党(BJP)が興隆した時代に重なった。この間、かれらがパテールに言及するつど、パテールの言動や業績から都合のいい部分を拾っているとしばしば思った(たとえばカシミール問題への対応)。
少なくともはっきり言えるのは、BJP や RSS などヒンドゥ右派勢力には、パテールほどの器量も度量もないということだ。巨大な像を建ててパテールの後継者を気取るなど、僭越の極みである。
そもそもパテールは、あくまでМ・ガンディの信奉者であり、有能な右腕だった。
VHP(世界ヒンドゥ協会)の手駒、バジュラング・ダルのようなゴロツキを使って、ムスリムや指定カースト(かつての不可触民)や先住民族を日常的に殺傷する現代インドを、パテールが許したはずがない。
ここでアイテムナンバーへの疑問が出てくるだろう。
フリーダムファイターを讃えるなら、なぜガンディが挙げられないのかと。
理由は、先の記事で説明したとおりだ。ヒンドゥ右翼にしてみれば、独立運動にアヒンサー(ahimsa;非暴力)というけしからん手段を講じたガンディは、フリーダムファイターどころか悪魔そのもの、憎悪の対象だからである。
そして「それゆえにこそ」、日本とも関わりの深いスバース・チャンドラ・ボースと、バーガット・シン(Bhagat Singh; 1907-1931)が登場するのだ。
すなわち、アヒンサーに納得がいかず、武力にうったえる手段を求めて、ガンディや国民会議派と袂を分かったのがボースである。
また、バーガット・シンは同志とともに、英国人警察官僚の暗殺や、国会での爆弾投擲事件を起こした。ただし、当時の英国政府が非難したような、見境のないテロリストでは決してない。
「Sholay」の暗喩は単純だ。暴力の称揚と武装の勧めである。
だれに抗するために武装せよというのか?
ヒンドゥ国家(Hindu Rashtra)を構築するうえで邪魔な存在すべてに対して。
よくよく注意しなければならないのは、パテールのところで述べたように、シヴァージーにせよ、ボースやバーガット・シンにせよ、その思想や業績、当時のコンテクストといった全体像を理解してのことではなく、ただ「暴力」「武力」を行使したという点のみで、もち上げているにすぎないことである。