以前から感じていたのだが、短い記事ならともかく単行本のボリュームとなると、どうも私には電子書籍は合わない。重要な記述があっても、紙で1回読めば「あの本の真ん中あたりにあった」とすぐ思い出せるのに、電子書籍ではそうならない。アンダーラインを引いたり、付箋をつけたり、書き込みをすることを、デジタルではなくアナログで行なうことが、記憶に刻む助けになっているような気もする。
そういえば5~6年前、米国のスタンフォード大学だったか、電子よりも紙の本(情報)のほうが記憶に残りやすいという実験結果が出たと伝える記事を、どこかで読んで納得した覚えがある。
ということで、キンドルで読んでいたのをやめて、紙版のほうを買うことにした。
ティースタ・セタルワル(Teesta Setalvad)のメモワール、『Foot Soldier of the Constitution: A Memoir』(インド憲法の歩兵、LeftWord Books, New Delhi, 2017)である。
インドの版元に注文したかったが、急ぎで確認したい事柄や文脈があり、書籍購入ではほとんど使わない日本版 Amazon に注文した。
ペーパーバックとして手にしてみると、思ったより薄手に感じたが、なかみはものすごく濃い。少し紹介しよう。
ティースタは、1962年、ボンベイ(現ムンバイ)のグジャラート人ヒンドゥ教徒家庭に生まれた。
ティースタとはめずらしい名前だが、「a river in Bangladesh which flows fearlessly across borders」(国境をものともせず流れるバングラデシュの大河、P.205)にちなんだものだという。
父方は法曹エキスパート揃いで、父はボンベイ高等裁判所の判事を務めた。
祖父がインドの初代法務総裁であることは以前に書いたが、インド法曹評議会(Bar Council of India)の初代会長でもあった。
その父、つまりティースタの曽祖父は、英国植民地下のボンベイ高裁で活躍した著名なバリスター(barrister; 法廷弁護士)。1919年に起きた Jallianwala Bagh massacre(アムリトサルの虐殺)後に設立された調査委員会(ハンター委員会)では、自分に落ち度がないと主張するダイヤー司令官を厳しく追及している(P.51-52)。
リベラルな家風で育ったティースタは、父や祖父、彼らのまわりに集うロイヤーたちを通じて、民主主義における司法制度への信頼をおのずと培い、自分もそれを支えるひとりになるだろうと漠然と考えていた。
だが、もうすぐ12歳になる1974年、衝撃的な経験をする。
父が買ってきてくれた1冊のペーパーバックを読んだことである。『All the President’s Men』、つまり『大統領の陰謀』だった。
自分の進む道はジャーナリズムだと確信した少女は、伝統あるエルフィンストーン大学に進んで哲学を専攻。
卒業が近づくと、ボンベイにある主要日刊英字紙のオフィスを訪ねては履歴書を預けた。その努力が実って、調査報道重視のタブロイド紙『The Daily』に採用され、月給500ルピーで新米記者としてスタートした。1983年のことだ。
それから10年、『Indian Express』、『Business India』と所属媒体を変えながら、ヒンドゥ右翼の台頭を目撃する。
他方、理工系トップエリートを育成する IIT(インド工科大学)のボンベイ校を卒業し、『The Daily』の先輩記者であったジャヴェド・アナンド(Javed Anand)と結婚。
1992年から1993年にかけて、ヒンドゥ右翼によるバブリマスジッド(バーブルモスク)破壊とムスリム攻撃、その “報復” として、ムスリムマフィアの D-Company が主導したとされるボンベイ連続爆破テロ事件が起こる。
コミュナル紛争(主として異教徒間の紛争をさす)の悪化と、それらを刹那的・表面的にしか扱わない既存メディアの限界を感じたティースタとジャヴェドは、それまでの職場を辞して、タブロイド月刊紙『Communalism Combat』(カウンター・コミュナリズム)を創刊した。
以後は、この媒体をベースにコミュナル紛争の調査報道を続けるとともに、被害者への支援活動や、人権教育にも力を入れていく。
ジャーナリズムと人権運動、この両輪の当事者としての経験のディテールは、現代インドを理解するうえで必読必携だ。こういう本こそ、日本語に翻訳刊行すべきだと思う。
ただ、彼女が闘ってきた相手をヒンドゥ右翼と言ってしまうと、矮小に過ぎる。
末尾のほうで強調されているのは、人権運動の仲間と共有してきた認識である。
たとえば1984年のシク教徒虐殺事件で、実行犯だけでなく首謀者がきちんと裁かれていれば、1992年から93年の事件も起きなかったかもしれない。
1992年から93年にかけての事件の首謀者をそれぞれきちんと裁いていれば、2002年のグジャラート大虐殺は起きなかったかもしれない。
末端の実行犯は裁かれても、最も責任を問われるべき主犯は常に「逃げ得」をしてきた。とりわけ権力犯罪者は。
そして、いっときは騒いでも、やがては曖昧な態度をとり、究極的には「逃げ得」を許してしまう社会全体のあり方。
これらが途方もない負の連鎖を導いているということ。
だからティースタはこのように書くのだ(P.205)。
My challenge is to fight the culture of impunity. That is what I have been motivated to do.
(不処罰を許容するカルチャーと闘うこと。それこそが私を奮い立たせる理由)
そういえば5~6年前、米国のスタンフォード大学だったか、電子よりも紙の本(情報)のほうが記憶に残りやすいという実験結果が出たと伝える記事を、どこかで読んで納得した覚えがある。
ということで、キンドルで読んでいたのをやめて、紙版のほうを買うことにした。
ティースタ・セタルワル(Teesta Setalvad)のメモワール、『Foot Soldier of the Constitution: A Memoir』(インド憲法の歩兵、LeftWord Books, New Delhi, 2017)である。
インドの版元に注文したかったが、急ぎで確認したい事柄や文脈があり、書籍購入ではほとんど使わない日本版 Amazon に注文した。
ペーパーバックとして手にしてみると、思ったより薄手に感じたが、なかみはものすごく濃い。少し紹介しよう。
ティースタは、1962年、ボンベイ(現ムンバイ)のグジャラート人ヒンドゥ教徒家庭に生まれた。
ティースタとはめずらしい名前だが、「a river in Bangladesh which flows fearlessly across borders」(国境をものともせず流れるバングラデシュの大河、P.205)にちなんだものだという。
父方は法曹エキスパート揃いで、父はボンベイ高等裁判所の判事を務めた。
祖父がインドの初代法務総裁であることは以前に書いたが、インド法曹評議会(Bar Council of India)の初代会長でもあった。
その父、つまりティースタの曽祖父は、英国植民地下のボンベイ高裁で活躍した著名なバリスター(barrister; 法廷弁護士)。1919年に起きた Jallianwala Bagh massacre(アムリトサルの虐殺)後に設立された調査委員会(ハンター委員会)では、自分に落ち度がないと主張するダイヤー司令官を厳しく追及している(P.51-52)。
リベラルな家風で育ったティースタは、父や祖父、彼らのまわりに集うロイヤーたちを通じて、民主主義における司法制度への信頼をおのずと培い、自分もそれを支えるひとりになるだろうと漠然と考えていた。
だが、もうすぐ12歳になる1974年、衝撃的な経験をする。
父が買ってきてくれた1冊のペーパーバックを読んだことである。『All the President’s Men』、つまり『大統領の陰謀』だった。
自分の進む道はジャーナリズムだと確信した少女は、伝統あるエルフィンストーン大学に進んで哲学を専攻。
卒業が近づくと、ボンベイにある主要日刊英字紙のオフィスを訪ねては履歴書を預けた。その努力が実って、調査報道重視のタブロイド紙『The Daily』に採用され、月給500ルピーで新米記者としてスタートした。1983年のことだ。
それから10年、『Indian Express』、『Business India』と所属媒体を変えながら、ヒンドゥ右翼の台頭を目撃する。
他方、理工系トップエリートを育成する IIT(インド工科大学)のボンベイ校を卒業し、『The Daily』の先輩記者であったジャヴェド・アナンド(Javed Anand)と結婚。
1992年から1993年にかけて、ヒンドゥ右翼によるバブリマスジッド(バーブルモスク)破壊とムスリム攻撃、その “報復” として、ムスリムマフィアの D-Company が主導したとされるボンベイ連続爆破テロ事件が起こる。
コミュナル紛争(主として異教徒間の紛争をさす)の悪化と、それらを刹那的・表面的にしか扱わない既存メディアの限界を感じたティースタとジャヴェドは、それまでの職場を辞して、タブロイド月刊紙『Communalism Combat』(カウンター・コミュナリズム)を創刊した。
以後は、この媒体をベースにコミュナル紛争の調査報道を続けるとともに、被害者への支援活動や、人権教育にも力を入れていく。
ジャーナリズムと人権運動、この両輪の当事者としての経験のディテールは、現代インドを理解するうえで必読必携だ。こういう本こそ、日本語に翻訳刊行すべきだと思う。
ただ、彼女が闘ってきた相手をヒンドゥ右翼と言ってしまうと、矮小に過ぎる。
末尾のほうで強調されているのは、人権運動の仲間と共有してきた認識である。
たとえば1984年のシク教徒虐殺事件で、実行犯だけでなく首謀者がきちんと裁かれていれば、1992年から93年の事件も起きなかったかもしれない。
1992年から93年にかけての事件の首謀者をそれぞれきちんと裁いていれば、2002年のグジャラート大虐殺は起きなかったかもしれない。
末端の実行犯は裁かれても、最も責任を問われるべき主犯は常に「逃げ得」をしてきた。とりわけ権力犯罪者は。
そして、いっときは騒いでも、やがては曖昧な態度をとり、究極的には「逃げ得」を許してしまう社会全体のあり方。
これらが途方もない負の連鎖を導いているということ。
だからティースタはこのように書くのだ(P.205)。
My challenge is to fight the culture of impunity. That is what I have been motivated to do.
(不処罰を許容するカルチャーと闘うこと。それこそが私を奮い立たせる理由)