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モディ首相が足を向けて寝られない「大恩人」:インド人編の続き②:バブリマスジッドが破壊された夜と、ラタン・タタ会長の怒り~武藤友治・元ボンベイ総領事の証言

2022年10月31日 | インドの政治と司法
 前回の続きである。

 武藤友治氏は、大阪外国語大学インド語学科(当時)でヒンディ語を学び、卒業した1953年、外務省に入る。以後40年、ロンドン(英国)、ロサンゼルスおよびボストン(米国)を除いて、ほとんどをインドで費やした。ニューデリー、カルカッタ(現コルカタ)、ボンベイ(現ムンバイ)各公館での勤務を通算すると18年。
 ボンベイ総領事(Japanese Consul-General in Bombay)を務めたのち、1993年に定年退職している。

 その後は、インドに関する多くの著作や訳書を遺した。
 うち後年のものは、武藤氏のインド観を正しく把握したうえで行間を読むべき筆致が増えるものの、かなり率直に思うところを述べている。

 1992年12月6日、北インド・ウッタルプラデシュ州アヨディヤでバブリマスジッドが破壊された夜、武藤氏はインド人家庭の夕食会に招かれていた。
 外国人客はほかに米国総領事、インド人客は実業家や学者、ジャーナリストなど。話題はもっぱらアヨディヤ事件で、その推移を知るために BBC(英国放送協会)テレビにチャンネルを合わせた。

(略)完全に瓦礫と化したバブリ・マスジッドの痛ましい姿とその跡にヒンズー教徒の狂信者が蟻のように群がってヒンズー寺院を建てようとしている場面がテレビの画面に映しだされた瞬間、出席者のなかからなんとも表現し難い悲鳴のような声が起こった。
(『今日のインド 類をみない多様性の国』P.216-217)

 ついではその場を深い沈黙が占め、その後に激しい議論が始まった。それは延々と続いて、真夜中を過ぎても帰ろうとする者はひとりもいなかった。

 私は一国を代表する外交官であるため、任国の機微にわたる問題については発言に慎重でなければならないことは十分承知しているが、その夜だけは、私にはアヨーディアの問題をよその国の問題として傍観することはできなかった。
「政治目的を達成するために宗教問題を煽って世俗主義の精神を踏みにじったインド人民党(引用者注:現与党)の責任は許し難い。また、アヨーディアの問題が最悪の段階に立ち至るまで、ヒンズー教狂信者の動きに対し打つべき手を打たなかったコングレス党(引用者注:国民会議派)政権の責任も同様に大きい。
 今回の事件は開けてはならないパンドラの箱を開けたに等しく、この事件を機にヒンズー、イスラム両教徒の緊張が高まりインドが混乱のるつぼと化すことを恐れる。今こそインド人は傾きかけた世俗主義の柱を建て直すためにすべての努力を払うべきである。今インドが真剣に取り組まねばならないのは経済再建の問題であり、宗教問題などにうつつを抜かす時期ではない」
と厳しい意見を述べ、席を同じくしていたタイムス・オブ・インディア紙のデ・モンテ編集長と女流評論家(ママ)のショーバ・デーの二人に、私の意見が彼らが書く論説に反映されるよう強く求めた。

(同上 P.218-219)

 翌日からボンベイ市内や周辺で、ムスリムの暴動が起こり、対抗するヒンドゥ教徒の暴徒と激突して多数の死傷者が出る。市内のあちこちでは焼き討ちの煙が立ち上った。
 
 数日後、武藤氏は、ラタン・タタ会長を訪ねる。場所は、タタ本社ボンベイ・ハウス4階の会長室。
 武藤氏はボンベイ在勤中、月に1~2回は会長に会って、インドの政治や経済情勢についての意見を聴くことにしていた。気さくな人柄ながら、財閥トップに君臨する見識には、さすがに卓越するものがあり、学ぶところが多かったからだという。

 その日は、タタ会長はいつもと様子が違ってのっけから激しい口調で話しだし、ボンベイにおける暴動の一番の責任者であるインド人民党を非難した後、さらに、
「自分たち拝火教徒の祖先がイスラム教徒による侵略を逃れて祖国ペルシャからインドに移住して以来、今日まで何百年もの間、拝火教徒がインドに住みつづけてきた理由は、インドがつねに異教徒に寛大な世俗的な国であったためである。もしインドが世俗主義を放棄してヒンズー教徒の国になるようなことになれば、拝火教徒にとってインドに住まねばならない理由はもはやなく、拝火教徒がアメリカへでもどこへでも新天地を求めて移住する事態が生じても仕方がないと考える。(略)
と深刻な表情で語った。

(同上 P.220-221)

 ちなみに拝火教徒は、いちばん最近の推定でも世界人口が最多で12万人、その圧倒的多数がインド、とりわけムンバイに集中している。

 インドの巨大財閥のなかでも筆頭のタタ財閥、その総帥ともなれば一挙手一投足が、内外のメディアが常時注目する的になる。武藤氏が直接聴いたタタ会長の憤激は、インドでも広く知られていた。
 ティースタ・セタルワルも(略)Ratan Tata of the Tata Group, who had wept on the streets of Mumbai(ママ)in empathy with Mumbai’s victims of communal violence in 1992-1993,(略)(バブリマスジッド破壊によって、1992年から1993年にかけてボンベイ各地で発生したコミュナル暴動の犠牲者を悼み、路上で涙したタタ・グループのラタン・タタ会長だったが)と書いているように(『Foot Soldier of the Constitution: A Memoir』P.132-133)。

 だからこそ、モディ州首相のナノ工場誘致にタタ会長が応じたことが、インドでさまざまな社会改革運動に携わる人びとを、少なからず落胆させたのである。

 他方、モディ州首相にしてみれば「さらなる都合の良いこと」が、ナノ工場誘致の翌月、建設が始まった当月である2008年11月に起きた。
「11・26」、ムンバイ同時多発テロ事件である。

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