2001年7月25日、17年前の今日、プーラン・デヴィ(Phoolan Devi)さんが暗殺された。北インド、ウッタル・プラデシュ州にある有力地方政党、サマジュワディ党(社会党)所属の国会議員として2期目を務めている最中だった。享年37歳(初立候補時の公式記録による誕生日は1963年8月10日)。
一報をつかんだ時点で、すぐ遺族に弔電を打った。事件の捜査にまつわる情報収集をしながら、彼女の顧問弁護士のなかでもいちばん信頼できそうな、最高裁付託事件を扱う女性弁護士に連絡した。
インド亜大陸には、英語でダコイト(Dacoit)と呼ばれる武装した群盗がいる。かつてはその首領だったプーラン(と、親しみをこめてこのように呼ぶ)の首には、10万ルピーの賞金がかけられていた。
主要週刊誌『SUNDAY』のカバーに使われた手配書には「WANTED DEAD OR ALIVE」(指名手配、生死を問わず)と書かれている。このコピーには、これもまたインド警察特有の「エンカウンター」(encounter)を許容する含みがある。エンカウンターは、非常に訳しにくいのだが、ここでの文脈に即していえば「発見しだい射殺」ということだ。手配書の肖像が奇妙なのは、警察を天敵にするダコイトはみな、写真を撮られないように、つまり当局に面が割れないように日ごろから警戒しているためだ。
インド警察をどう理解するかに関して、過去数十年、弁護士やジャーナリストや人権NGOなど、私に教示してくれたインド人の数はおびただしい。ただ、よく考えてみると、その輪郭を最初に与えてくれたのはプーランだったと思う。
カーストの違い(高低)もからんだダコイト間の抗争で、敵方の村落に拉致監禁されて集団レイプされつづけた3週間ののち、旧知のバラモンの助けを借りて命からがら脱出した。自分の盗賊団を組織しなおすと、くだんの村に舞いもどり、加害者である22人の高カーストを射殺したといわれている。上記手配書は、「べマイ村の虐殺」(81年)として知られるこの事件後に出されたものだ。
その後2年、当局の追っ手を逃れていたが、絞首刑に処さないなどの条件のもと司法取引で投降(83年)。重罪犯を収容する首都デリーのティハール刑務所に入れられたが、起訴も仮釈放もないまま11年も放置された。
それを知ったサマジュワディ党首によって、94年にようやく仮釈放され、96年5月の総選挙(下院選挙)に出馬、みごとに初当選した。
いうまでもなく世界中からジャーナリストが殺到していたが私もそのなかのひとり。同年6月初旬、晴れて国会議員になったプーランに、日本人ジャーナリストとしては初のインタビューを行なった。瞳の輝きに強い生命力がみなぎっている女性だと思った。彼女に勧められたこともあって、デリーから急行列車で10時間ほどの選挙区ミルザプールに取材に行く相談をしたとき、夫や秘書など周囲のスタッフがいろいろと口をはさむのを制して(当時の日本は経済大国として知られていたため、その前提で同行者などの采配をしようとしていたらしい)、経費がなるべく安価にすむよう気を使ってくれたことも覚えている。
それから3年後の99年には、京都精華大学の招きで彼女が来日し、あらためて東京都内でインタビューした。
〔参考文献〕
境分万純:階級・カースト・ジェンダー
インド群盗の首領から 国会議員へ 三重の抑圧へ「反撃する女神」
『週刊金曜日』1996年7月26日号
境分万純:『金曜日』で逢いましょう フーラン・デヴィさん(注)
「同じ女性」でくくれること くくれないこと
『週刊金曜日』1999年4月9日号(262号)
(注)彼女の出身地である農村部のヒンディ語発音は、デリーなど都市部で使われる標準的なヒンディ語発音とはかなり違う。このため、当時は名前の表記も、地元のそれになるべく近くなるようにしていた。
なお、これまでに数多くのプーランのポートレートを目にしてきたが、フリーランス・ライター/フォトグラファーの小河修子さんに撮っていただいた本稿のショットは、私が知るかぎりベストといってよい。機会があれば図書館で探していただきたい。
ところで、日本語資料の主だったものについては以下がある。
―書籍―
『女盗賊プーラン(上)(下)』(プーラン・デヴィ、武者圭子訳)草思社 1997年→2011年に同社文庫化 ※本人の口述による「自伝」。完訳ではない。
『インド盗賊の女王 プーラン・デヴィの真実』(マラ・セン、鳥居千代香訳)未来社 1998年 ※インド系英国人女性ジャーナリストによる評伝的ルポ。完訳ではない。
『女盗賊プーランは誰が殺したのか』(黒田龍彦)ベストセラーズ 2001年
『盗賊のインド史 帝国・国家・無法者』(竹中千春)有志舎 2010年 ※言及は一部
―映画―
ヒンディ語映画『女盗賊プーラン』1994年 ※日本公開は1997年→ビデオ化
彼女のように、低カーストの極貧家庭に女性として生まれた人を取材するとき、誕生日のような単純な事実ひとつを確定するのさえ容易でないのがふつうだが、ほかにも種々の理由があって、これら日本語資料を積極的には勧めない。とくに『女盗賊プーランは誰が殺したのか』は拙劣の一語だ。
あえていうなら、『インド盗賊の女王 プーラン・デヴィの真実』の原書、『India's Bandit Queen: The True Story of Phoolan Devi』が、「true story」というのはともかく、いちばん誠実に書かれていると思う。
率直なところ、本記事では彼女への追悼として、これらの日本語資料を批判的に論じようと考えていたのである。そのために自分の取材資料をあらためたりしているうち、いきなり興味深いものを見つけた。
ホセイン・マーティン・ファゼリ(Hossein Martin Fazeli)というイラン人監督が、プーランのドキュメンタリー『Phoolan』を制作中だという。8割方は撮影が終了しているということで、完成までの資金サポートを呼びかけている。予告編には、先述の指名手配書も映しだされるのでチェックを。
「M・ガンディ+チェ・ゲバラ+アル・カポネ=プーラン・デヴィ」というキャッチフレーズには戸惑うところもあるが、2012年のデリー集団レイプ事件など現代的な視座も含めて、きちんとした作品に仕上げようとしているようだ。
一報をつかんだ時点で、すぐ遺族に弔電を打った。事件の捜査にまつわる情報収集をしながら、彼女の顧問弁護士のなかでもいちばん信頼できそうな、最高裁付託事件を扱う女性弁護士に連絡した。
インド亜大陸には、英語でダコイト(Dacoit)と呼ばれる武装した群盗がいる。かつてはその首領だったプーラン(と、親しみをこめてこのように呼ぶ)の首には、10万ルピーの賞金がかけられていた。
主要週刊誌『SUNDAY』のカバーに使われた手配書には「WANTED DEAD OR ALIVE」(指名手配、生死を問わず)と書かれている。このコピーには、これもまたインド警察特有の「エンカウンター」(encounter)を許容する含みがある。エンカウンターは、非常に訳しにくいのだが、ここでの文脈に即していえば「発見しだい射殺」ということだ。手配書の肖像が奇妙なのは、警察を天敵にするダコイトはみな、写真を撮られないように、つまり当局に面が割れないように日ごろから警戒しているためだ。
インド警察をどう理解するかに関して、過去数十年、弁護士やジャーナリストや人権NGOなど、私に教示してくれたインド人の数はおびただしい。ただ、よく考えてみると、その輪郭を最初に与えてくれたのはプーランだったと思う。
カーストの違い(高低)もからんだダコイト間の抗争で、敵方の村落に拉致監禁されて集団レイプされつづけた3週間ののち、旧知のバラモンの助けを借りて命からがら脱出した。自分の盗賊団を組織しなおすと、くだんの村に舞いもどり、加害者である22人の高カーストを射殺したといわれている。上記手配書は、「べマイ村の虐殺」(81年)として知られるこの事件後に出されたものだ。
その後2年、当局の追っ手を逃れていたが、絞首刑に処さないなどの条件のもと司法取引で投降(83年)。重罪犯を収容する首都デリーのティハール刑務所に入れられたが、起訴も仮釈放もないまま11年も放置された。
それを知ったサマジュワディ党首によって、94年にようやく仮釈放され、96年5月の総選挙(下院選挙)に出馬、みごとに初当選した。
いうまでもなく世界中からジャーナリストが殺到していたが私もそのなかのひとり。同年6月初旬、晴れて国会議員になったプーランに、日本人ジャーナリストとしては初のインタビューを行なった。瞳の輝きに強い生命力がみなぎっている女性だと思った。彼女に勧められたこともあって、デリーから急行列車で10時間ほどの選挙区ミルザプールに取材に行く相談をしたとき、夫や秘書など周囲のスタッフがいろいろと口をはさむのを制して(当時の日本は経済大国として知られていたため、その前提で同行者などの采配をしようとしていたらしい)、経費がなるべく安価にすむよう気を使ってくれたことも覚えている。
それから3年後の99年には、京都精華大学の招きで彼女が来日し、あらためて東京都内でインタビューした。
〔参考文献〕
境分万純:階級・カースト・ジェンダー
インド群盗の首領から 国会議員へ 三重の抑圧へ「反撃する女神」
『週刊金曜日』1996年7月26日号
境分万純:『金曜日』で逢いましょう フーラン・デヴィさん(注)
「同じ女性」でくくれること くくれないこと
『週刊金曜日』1999年4月9日号(262号)
(注)彼女の出身地である農村部のヒンディ語発音は、デリーなど都市部で使われる標準的なヒンディ語発音とはかなり違う。このため、当時は名前の表記も、地元のそれになるべく近くなるようにしていた。
なお、これまでに数多くのプーランのポートレートを目にしてきたが、フリーランス・ライター/フォトグラファーの小河修子さんに撮っていただいた本稿のショットは、私が知るかぎりベストといってよい。機会があれば図書館で探していただきたい。
ところで、日本語資料の主だったものについては以下がある。
―書籍―
『女盗賊プーラン(上)(下)』(プーラン・デヴィ、武者圭子訳)草思社 1997年→2011年に同社文庫化 ※本人の口述による「自伝」。完訳ではない。
『インド盗賊の女王 プーラン・デヴィの真実』(マラ・セン、鳥居千代香訳)未来社 1998年 ※インド系英国人女性ジャーナリストによる評伝的ルポ。完訳ではない。
『女盗賊プーランは誰が殺したのか』(黒田龍彦)ベストセラーズ 2001年
『盗賊のインド史 帝国・国家・無法者』(竹中千春)有志舎 2010年 ※言及は一部
―映画―
ヒンディ語映画『女盗賊プーラン』1994年 ※日本公開は1997年→ビデオ化
彼女のように、低カーストの極貧家庭に女性として生まれた人を取材するとき、誕生日のような単純な事実ひとつを確定するのさえ容易でないのがふつうだが、ほかにも種々の理由があって、これら日本語資料を積極的には勧めない。とくに『女盗賊プーランは誰が殺したのか』は拙劣の一語だ。
あえていうなら、『インド盗賊の女王 プーラン・デヴィの真実』の原書、『India's Bandit Queen: The True Story of Phoolan Devi』が、「true story」というのはともかく、いちばん誠実に書かれていると思う。
率直なところ、本記事では彼女への追悼として、これらの日本語資料を批判的に論じようと考えていたのである。そのために自分の取材資料をあらためたりしているうち、いきなり興味深いものを見つけた。
ホセイン・マーティン・ファゼリ(Hossein Martin Fazeli)というイラン人監督が、プーランのドキュメンタリー『Phoolan』を制作中だという。8割方は撮影が終了しているということで、完成までの資金サポートを呼びかけている。予告編には、先述の指名手配書も映しだされるのでチェックを。
「M・ガンディ+チェ・ゲバラ+アル・カポネ=プーラン・デヴィ」というキャッチフレーズには戸惑うところもあるが、2012年のデリー集団レイプ事件など現代的な視座も含めて、きちんとした作品に仕上げようとしているようだ。