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さきち・のひとり旅

旅行記、旅のフォト、つれづれなるままのらくがきなどを掲載します。 古今東西どこへでも、さきち・の気ままなぶらり旅。

絵島の眠る蓮華寺へ

2020年09月29日 | 関東甲信越


歴史博物館を見たあとは、高遠城址公園を歩いて絵島の眠る蓮華寺へ向かいました。


小学生の団体がバスで遠足か校外学習? ワンサカ賑やかでした^^


おお、火の見やぐらなあ。


さてさて暑い中を歩いて、蓮華寺へやってきました。絵島の像があるとか。


汗をかきながらヒーフー階段を登る。


像なんてのは、だいたい一番奥のほうにあるもんだろう。


裏手の階段をまたどんどん上がり、お墓を通り抜けてゆく。


ありましたー。

蓮華寺の説明より以下抜粋。

月光院が 家継を生んだ年、家宣が六代将軍になると、絵島は四百石を賜って二十九歳で年寄となった。正徳二年(1712年)家宣死去、七代家継将軍となると絵島は六百石を加増されて大年寄となり、大奥で大きな力を持つようになった。時に三十二歳であった。大年寄という役は千人からいる女中を取り締まる年寄頭で大奥に数人いる。
呉服商後藤縫殿介、薪炭商都賀屋善六等々の利権亡者たちが争って絵島の歓心を得ようと、船遊び、芝居見物に三回ほど誘ってもてなした。女中数十人を引き連れての遊興であった。
大奥の女中の不評をかって失脚した老中もいたくらい、当時の大奥の力は強かった。
この大奥大改革の矢面に立たされ、その犠牲となったのが絵島であった。
これが世にいう、「絵島生島事件」である。

江戸城には女中が1000人もいたのかー。


 正徳四年(1714年)三月二十六日、大奥の優雅な衣裳を剥ぎ取られ、木綿着物に着替えさせられた絵島は、江戸に地を再び踏むことがない、永遠の旅路高遠へと出発する。絵島はこの日を境に栄達を求める人間から真の幸福を一心に得ようとする人間へと変わる。
 正徳の大疑獄(絵島事件)は、死罪二人・遠島追放・罪を受けた者千五百人を数える。この事件は、幕府内の権力争いと大奥改革が目的であった。その矢面に立たされ、犠牲者となったのが大年寄絵島である。
 しかし、絵島は非道と不条理に耐え高遠での生活は自己に厳しく、深く日蓮宗に帰依し、三十三歳から六十一歳まで二十七年間、朝夕一汁一菜魚類を絶ち、読経・写経を行う常精進の生活を送る。そのなかで、人生の悲しみを胸中深く抱き「真の幸福は己れの心に有る。」との確信のもと、次第に目覚めて行く。
 寛保元年(1741年)四月十日、散り行く桜と共にはかなくも力強く生き抜いた生涯を静かに閉じ、遺言により当山蓮華寺に埋葬された。その心は信仰に包まれその姿は仏様の様であったという。


 政略の犠牲となり、優雅な衣装を剥ぎ取られて流刑になったというのがドラマの題材に
なったのですな。おそらくは女性受けするテーマだったのでしょう。


29歳で年寄、32歳で大年寄かっ。女中数十人を連れての芝居見物、ウウムw
哀れな犠牲者という見方をされているわけですが、政治力でのし上がったきっつい人
だったと想像してしまいます。そういう顔だよね? (;´・ω・)

そもそも「大奥」って、殿様のハーレムでしょ?女同士の序列、権力争い、いじめ
なんかが渦巻くところ。それだったら別々な所にいるのを訪問する光源氏型のほうが
いいような気もするが、あちらだって「来ない」と恨まれるからなあ~。


さあて本日の見物は終了。あとは帰って酒か~。


次のバスまで1時間ほどあったので、喫茶店で新聞を読む。開いててよかった^^
ここはいつものように、ヲヴァ~サンのワンオペ。そしてこれまたいつものように、
ヲヴァ~サンのお友達が来ていてずっとおしゃべりをしていました。こちらは気楽に
のんびりできるというものです。


たっぷり歩いた一日。伊那に帰ってまいりました。
こんな景色が見えるところに住みたいな。