さきち・のひとり旅

旅行記、旅のフォト、つれづれなるままのらくがきなどを掲載します。 古今東西どこへでも、さきち・の気ままなぶらり旅。

吉田松陰歴史館

2022年12月31日 | 山陰・北陸日本海


松陰神社の入り口付近に「吉田松陰歴史館」がありました。見てみますかー。


松陰の生涯を、このような蝋人形で解説するものでした。

松陰の家は貧乏侍で子だくさん。お城で非番のときには一家で田畑を耕したり山に
薪を取りに行ったりという生活。しかし両親は教育熱心で、子供たちに学問を授けた
のでした。


松陰は5歳の時に叔父の吉田家の養子となりましたが、その翌年に叔父が病で亡くなり、
なんと6歳で家督を継ぐことになりました。そして兄と共に近所にいたまた別の
叔父の家に通って教育を受けることになりました。


松陰は9歳で明倫館の兵学師範に就任、11歳の時に御前講義の見事な出来栄えに
藩主にその才能が認められました。どんだけ早熟の神童だったの!


16歳のとき、西欧諸国がアジアを侵略し植民地にしていることを知り驚く。さらに
大国の清(中国)が英国にアヘン戦争に敗れたことに衝撃を受け、西洋のことを
学べる長崎に行く。そこでは借りた本を必死に写す(自分で書き写すのは大変な
作業ですが、身になるのですよ。スマホで黒板写しても頭に入らないでしょ^^)

さらに東北地方へ遊学に出て、弘道館のある水戸、日新館のある会津に行き、北では
鉱山を見学したり、津軽海峡では通過する外国船を見たりした。しかし、出発時に
藩から出る通行許可証が出るのを待ちきれずに出発したため、脱藩の罪を負って
士籍剥奪・世禄没収の処分となる。そのフライング出立の理由が、仇討に協力する
約束があったからだとか?立派なのとアホなのと紙一重!


松陰は平戸藩士、葉山左内の蔵書を借り受け、読破すると共に要点をひとつひとつ
書き取った。これはとても大事です。要点を繰り返し頭に入れ、記憶を確かなものに
するわけですね。また文章を書く鍛錬にもなる。一時期集中的にやるのも大事です。
だから職なし、収入なしという自由人になったことも利用できたわけだ。


23歳頃に、当代随一の学者であった佐久間象山の弟子入りをする。彼は儒学を捨てて
西洋学を学んでおり、松陰に「海外に行って学べ」と伝えました。

ふたりはペリー来航を知って、その黒船を見に行きます。


ペリーがやってきた翌年、ロシアの施設プチャーチンが軍艦4隻で長崎に来航。
この船に乗り込んで密航してやろうと画策するが、間に合いませんでした。。。
やることが大胆過ぎませんかーw


その翌年、米国船が下田に来たのでまたもや密航を企てて小舟で乗り込む。しかし
追い出されてしまいます。その後自首。象山先生と共に死罪になりかかったところ
助命されて、国に帰って幽閉となる。


それが松下村塾の始まりとなるわけです。名門の明倫館は敷居が高く、身分の低い
者は入れませんでしたが、松下村塾は自由で開かれた場所でした。建物も古い小屋を
自分たちで増改築したのです。次第に優秀な子弟が集まるようになりました。
まさに学問の理想郷だよw


松下村塾は師弟共に学び、礼儀作法を簡略にして規則もゆるやか。形式的なものより
純朴な人間関係を重んじました。ロヨラやザビエルのイエズス会と対照的ですねェ。


妹が結婚するときに、「自らすすんで励み努力せよ。婦人の勤める道は難しいわけは
ないのだから、なまけるな。主婦のなすべき家事を十分にいたし、心から夫に貞節を
尽くすことは嫁の第一番に心がけることだ」なんて言ったそうだ。
これを今の視点から批判してもしかたないですよねェ。いまもし松陰先生とお会い
出来て、たっぷりお話できたとしたら、きっと柔軟な理解と自分の考えを修正できる
懐の深さを示してくれるんじゃないでしょうか。


松陰は一向宗の月性と黙霖というふたりの僧侶と交際しました。月性は日本の海防に
関して強く警告するインテリ。黙霖のほうは松陰と激しく意見が対立する間柄でした。
時として考え方の違うライバルと火花を散らすのも人を成長させるものでしょう。


このままじゃ日本はイカン!こうなれば倒幕しかない。なのでテロしかないのだ。
老中をぶっ殺すために武器をくれと藩にかけあったが拒否される。弟子たちも止めるが
松陰は納得しない。過激派ですな


ついに召し取られ、「老中暗殺計画を立てていましたよ」と堂々と言ったから死刑!


日本の危機を救うためだと最後まで主張。死刑制度がなくて終身刑だったら
明治維新後も活躍できただろうにねえ。でもその生き様が弟子たちの成長を促した
とも言えましょう。


いまでいう「テロ等準備罪」ですからね。さすがにそれだけじゃ死刑にはならんが。


30歳で首になりました。永遠のレジェンドになったとも言えましょう。


山口県には明倫館や松下村塾ゆかりの高名な方々がたくさんいます。首相になった
人も多い。


こないだ亡くなられた、ちと残念な人もいましたけれど、その人は蝋人形には
ならんでしょうなw


松下村塾を見る

2022年12月30日 | 山陰・北陸日本海


街巡りバスに乗って松陰神社にやってきました。世田谷にもあるけれど、こっちが
本物です。


おお、吉田松陰の松下村塾がありました。当時のまま残っているそうです。
ちょっと感激。ここで高杉晋作や伊藤博文などが松陰先生に学んだのかぁ。


もちろん粗末で小さい。しかしこんなところで幕末の偉人たちをズラズラと輩出する
んだから、松陰先生はすんごく立派な人だったんだろうなあ。


その向こうには杉家旧宅。松陰が幽閉されたところです。


こっちは広くて立派だ。




松陰が幽閉されていたのはこちら3畳の狭い部屋。ここに弟子たちが通い始めて
松陰先生の松下村塾が始まったというわけです。カリスマ性のある人徳者だったの
でしょうね。英雄視を通り越して神格化されているところがあります。なにせ神社
ですからw

ペリーの船に乗り込んで、そのあと死刑になる危険もあるのに潔く自首するとか、
世界的視野を持って日本が軍備増強、近代化を進めるべきだと主張したり、大変
勉強熱心であると同時に若者たちへの教育熱心でもあるという立派な人で、まわりの
人たちはさぞや心酔したことでしょう。幽閉されても「国のためなら構わんよ」
という姿勢で、最後に死刑になるときもソクラテスを思わせるような堂々たる態度
でした。

しかしだな~、会津から見ればまた逆であるように、いま歴史を振り返ってみると、
日米修好通商条約を破棄すべきだと倒幕のクーデターをもくろみ、老中暗殺を計画
するなんて、テロ行為でしょう。堂々と「それが国のためなんだから、自分は死刑に
なっても構わない」という姿勢は立派なのか?


もし松陰先生にお会い出来たら、俺とは平行線になりそう。。。
俺のほうが正しいなんて主張する気はありません。「そのような判断には賛成でき
ない」というところまででしょう。


とつらつら思いつつ、松陰神社をあとにしました。


造船所跡と反射炉を見る

2022年12月29日 | 山陰・北陸日本海


萩見物の2日目、まず東萩駅にやってきて、観光案内所で見所やアクセスをチェック。
萩の街にはいくつかの街巡りバスのルートがある。1回どれだけ乗っても100円♪
むかしの商業地区だったという「浜崎伝健地区」に行こうと思ったが、そちらへの
バスは30分待ち。待つかどうか考えていると、北の街はずれにある反射炉に行く
バスが1分後!案内所の人に「どこからバスが出るんですか?」と聞いているうちに
駅のロータリーに入ってきた。急いで乗り込む^^;


歩くと30分以上はかかると言われましたが、バスに乗ってしまえば数分だ。
ここはむかし造船所のあった港。


誰もいないところをとぼとぼと歩く。。。 賑やかな観光地は苦手なので、こういう
旅がいい♪


ここは世界遺産に登録もされている恵美須ヶ鼻造船所跡。見事に「跡地」だなー。


おっ、金を取るのか?と思いきや、見物は無料ですが管理人さんがいるのでした。
いちおう行ってみると、パンフレットをくれてお話が始まる。おばさまは会津や
長州にありがちのお国自慢を熱く語り始める。何度も「長州ファイブ!」と言って
とどまることがない。会津と友好都市宣言でもやって、交流会をやったら楽しい
だろな~(^益^)b

しかし帰りのバスは45分に一本。いつまでも熱い語りを聞いていたら、長い道のりを
歩くことになるか?( ゚Д゚)・・・
次の観光客がやってきて、話し相手はそちらに移りました^^;


景色はきれいだが、造船所の跡はなごりを感じるだけです。


ここでは幕末にロシア式の「丙辰丸」とオランダ式の「庚申丸」という2隻の洋式
軍艦(といっても当時は木造の帆船)が建造されました。当時の最先端です。
下関で英国船に喧嘩をふっかけて撃沈されましたが。。。


10分ほど歩くと反射炉。近代になると軍事力です。大砲です。鉄です。とにかく
フルスピードで近代化が進められたんですね。刀や手裏剣じゃ勝てねーよw
でも長い間それでやってられたんだから、島国ってのはありがたいことでした^^


おぉ、横には山陰本線の線路が。


造船所跡のおばちゃんの話を聞いていたら時間がなくなったが、ここは写真を撮る
だけでいい。もうすぐ戻るバスが来るw


ちと贅沢に萩心海

2022年12月28日 | 山陰・北陸日本海


さあて一日萩を歩き回り、宿に帰ります。旧田中別邸から見えていたこの川は
日本海に注ぐ橋本川。係員さんが、「むかしはとてもきれいだった」と溜息まじりに
言うので、「どうしてそんなに汚れちゃったんでしょう?」と聞くと、「ダムですよ」
という。萩は河口に出来た三角州。川の氾濫と闘う長い歴史があるのです。それを
解決したのが近代のダム建設。水流を穏やかにコントロールできるようにしたのです。
災害はほぼなくなりました。それは結構なことです。しかしときおり川の氾濫が
あると、そのときに川はドバーっと大変な流れとなり、ザァ~っときれいになるの
です。それがなくなったから、まあ淀んで汚くなってしまったわけ。なんだかねえ。。


さて行きましょう。


夏みかん畑があちこちに。来年の初夏まで長い間実ってるわけだなあー。


俺は柿のほうが好き♪


わー、きれいな花が咲いてます。


むかしバタークリームのケーキにはこういうやつが乗っていました。なんかきれい
だから「かーちゃん、そこ頂戴!」とか言うわけですが、胸焼けして旨くないので
クリスマスの翌朝まで残ってたりするのですなあ^^;


さて宿の真ん前にあるこの灯台、何かと思ったら「萩心海」という立派な料理屋
だったのです。玄関には「本日イカありません」と書いてあり、入るときも旦那が
「イカないですけどいいですか?」と聞く。活き造りがここの名物なのですが、
最近捕れないからなあ。。。


カウンターの目の前が巨大な水槽!鹿児島の「さかなちゃん」という店を思い出すw


刺身定食の前に、酒のつまみにホタテのバター焼を注文。焼けてくるのをじっと待ち、
こんがりした順番にあつあつを食べていくのでグッド・チョイスだったぞ!


ここに来たらフグのヒレ酒でしょう~~♪


刺身の注文が入ると、こんなふうに網であげてさばくわけだ。「さかなちゃん」では
平目を注文したら、こんなふうにやってくれましたが、まるまる一匹の注文になる
ので、ちとひとり旅ではなあ。。。


というわけで、刺身定食ですよ。ちと量が少なかったが、白身魚が美味いのなんのって!
何人かで行くといいだろうなあーw


萩のお屋敷めぐり:ドイツの令嬢を連れ帰った話

2022年12月27日 | 山陰・北陸日本海


萩のお屋敷巡りは続きます。


ここは高杉晋作が生まれたお家。生まれた場所ってだけだったら通過するか―。


すぐ近くの公園のようになっているところに銅像が立っていました。


こちらは木戸孝允(きどたかよし)の旧宅。


明倫館で吉田松陰に学び、その後坂本龍馬の仲介で薩摩の西郷隆盛らと倒幕の一大
勢力となる薩長同盟を結びました。西郷隆盛・大久保利通とともに「維新の三傑」
と呼ばれました。


こちらはすぐお隣の青木周弼(あおきしゅうすけ)の旧宅。幕末の蘭学者です。
周弼は江戸でオランダ医学を学び、長崎でもさらに学んで医学館を創設しました。
その弟、研蔵も長崎でシーボルトに学び、最新の医学を萩に伝えました。種痘の
技術を持ち帰り、天然痘の予防に尽力もしています。当時の日本で最先端でしたねェ。


さて明倫館で優秀だった少年、周蔵は研蔵の養子に迎えられました。長崎で医学を
学んだあと、明治になってドイツに留学し、政治・経済を学びます。のちに外務
大臣にもなっています。んでドイツ人の奥さん、すごい美人のエリザベートを
日本に連れ帰ったのであーる。左下の那須の別荘は奥さんのために建てたのかあー。
なにせプロイセン貴族の令嬢なんですぞ!

スコットランド美人のリタを連れて帰ってきた竹鶴政孝よりすごいのか?と思って
調べてみると、こいつはホントにすごいぞwww

ドイツ留学中、藩から派遣されたというのに勝手に専攻を医学から政治経済に変更、
もめたらしいが押し通したそうだ。在学中に北ドイツ留学生総代となり、当時の
留学生の専攻は軍事か医学と決められていたが、それを自由に専攻できるように
変更しろと運動して、その結果自分も政治経済に専門を変えたらしい。

周蔵は養子にしてもらった研蔵の実の娘テルを嫁にもらっていました(それはもう
断れないでしょう)。外務省に勤務していたときに駐独公使となってドイツに赴任、
そこでプロイセン貴族の令嬢エリザベートと出来ちまって、テルさんと離婚しよう
とするが、青木家は許さない。(当たり前だろうし、養子にした父親は激怒した
だろうし、エリザベートさんも貴族の令嬢なのに妻帯ものとできちまうか?)

というわけで周蔵は妻のテルさんに新しい夫を見つけて、その結納金を払うから、
という条件を出す。なかなかうまくいかず、3回トライして3回結納金を払った
とか。まー最後にゃ自分の妻を他人に押し付けたってわけかーw

このお屋敷では、平成2年に土蔵の床下から約1200枚の1分銀が発見されました。
屋敷はすでに萩市のものになっていたので役所は色めき立ちましたが、その銀貨の
包みには青木研蔵の名前をとった「青研」の署名が入っていたので、お宝は青木家
の子孫に遺贈されたのでした。いろいろ説明してくれた係員の人が、「だから
お宝には自分の名前を入れておくことが大事ですよ」と俺には必要なさそうな
助言をしてくれました。

いろいろ熱く語ってくれた係員さん、青木家の偉大な歴史を説明してくれましたが、
周蔵のしょーもないロマンスについての部分は触れてくれませんでしたね。。。


さて少し南下して、旧田中別邸に向かいます。


このすんごいお屋敷は、小幡高政という幕末の藩士が建てたものです。幕末は
武士が大量に失職した時代です。そこで生活に苦しむ士族救済のため、萩の土地を
夏みかんの集団栽培地にしようと奨励します。

最初は笑われたり無視されたりしましたが、だんだんと成功し、夏みかんは萩の
主要産業となるのです。というわけで、いまだにこの城内跡地にはお城の石垣に
区分された夏みかんの木がたくさんあります。


その後、大正の時代になってこのお屋敷は総理大臣を務めた田中義一の所有となります。

このお屋敷に入ったとき、入り口の片隅に初老の係員さんが足を延ばして座って
いたのでギョッとしました^^; 見学客が来るのをずっとひとりで待っていて
寒くなったので、日の当たるところにいたのだとか。そりゃそうしてて結構ですよー。
お互い時間はたっぷりあったので、丁寧な説明を頂きました^^


広い庭には夏みかん畑が広がっていましたが、いまはもうこのお屋敷だけが残って
いるのです。


田中義一さんがここに座って川を眺めている写真がありました。


さすがにすごい造りですのお。


舟が出られるようにもなっておりました。


五右衛門風呂ですが、ふたつ湯舟があったのはとても珍しいとか。新婚当時は
ひとつだけで十分で、そのうちふたつをそれぞれ使うようになったとか?(^益^;

係員さんにはこのお屋敷にまつわることだけでなく、萩見物のことや夜の酒場の
ことまでいろいろ教えてもらいました。すると滞在しているホテルの真ん前にある
灯台を模した建物が地魚を提供する立派な店だと推してくれて、今宵はそこに
しようと決めたのでしたw