さきち・のひとり旅

旅行記、旅のフォト、つれづれなるままのらくがきなどを掲載します。 古今東西どこへでも、さきち・の気ままなぶらり旅。

海芝浦からの帰路 3

2015年06月30日 | 関東甲信越



駅から出ることは出来ないし、てきとーに写真を撮ったら同じ電車で帰ります。



路線図を見て、不思議なはじっこまでやってきましたが、こういうところか^^;



行きは海方面を見ていたので、帰りは内陸方面を見ることにしました。
ここの工場で働いていて、通勤として乗ってらっしゃる方々、こういうカメラを
構えて珍しそうに外を見ている「観光客」やら「鉄っちゃん」には慣れてらっしゃる
と思います(^益^;



上の画像の、工場のなかをちょっとのぞき見…。



さて面白い引き込み線。手前のほうは草ボウボウで、ずっと使っていないのかな?
向こうは車道の真ん中を見事に横切っています。



この道路を渡って電車(貨物車?)が入っていくところ、見たいなー。



工場ひとつひとつに配達してゆくように線路が入ってゆきます。



使っていない?一日に一本くらいならこうなるか?
ところで先に見える線路の交差に注目!(=゜益゜):;*.’:;



ほら、線路の十字路。めずらしいよね。
四国・松山の路面電車でこういうのを見ましたが。。。



倉庫のなかにはどんなものが詰まっているのでしょうか。。。


鶴見線の終点 海芝浦は 2

2015年06月28日 | 関東甲信越



こちらは新芝浦駅。運河に面していて、電車の駅というよりは波止場のようです。



反対側は、当然工場。



工場には、引き込み線がいくつも入り込んでいます。乗客を乗せる電車ではなく、
どんな貨物列車が入ってくるのだろう? 見たひーw



さてさて、終点の海芝浦駅に到着しました。向こうに見えるは「鶴見つばさ橋」。

ちなみにここは東芝工場の私有地になるそうで、関係者以外は駅を出ることが
できません。つまりただ電車に乗ってきた観光客、鉄っちゃんらは、来た電車で
折り返して帰るのです。ホームに降りて写真をとったり、意味もなくブラブラ^^;



駅前には東芝。世界的な電機メーカーです。創業者は江戸時代の人で、天文学を
学んで「からくり時計」を作ったりしたそうです。西洋の技術を学び、蒸気機関
なども作ったすごい人だそうですね。んで軍事産業にもかかわり、近代兵器も
作ったと。だからいまだに東芝は軍事機器なども作っているんだな…。

「芝浦製作所」と「東京電気株式会社」が合併して「東芝」になったそうで。



明治以降、日本が植民地にされずに済んだのも、ひとつには近代兵器を整備した
軍国化政策が有効だったのかもしれません。

軍事産業や武器商人は人々を救うこともあるし、戦争抑止力もあるでしょう。
しかしまた別の一面においては、政府が国家間の緊張を高めて戦争準備をして
くれれば、また実際に消耗品をドンパチやってくれれば、それだけ儲かってしまう
といういや~~な商売なのです。



遠くに見えるは横浜ベイブリッジ。むかしドライブしたな。。。
あれを渡ると「港の見える丘公園」。むかしデートしたな…w(゜゜)w



社員だけが手続きをして駅の外に出ることができるのです。なんか変な感じだよね^^


気になる鶴見線探検 1

2015年06月26日 | 関東甲信越

      

子供の頃、電車の路線図を見て、「ここは何だろう?」と思ったものです。鶴見線。

大人になったら想像がつきます。京浜工業地帯の貨物線では?

いまは便利で、すぐに調べることができますね。開業当時は私鉄で、「鶴見臨港鉄道」
という名だったそうです。この路線は埋立地に作られたので、最初は地名がなかった。
なので実業家や土地の所有者の名前が駅名になったんだって。

「鶴見小野」は小野さん、「武蔵白石」は白石さん、「浅野」や「大川」は浅野さん
大川さんそのまま、「安善」は「安田善次郎」さんの土地だったんだってさ~w
山口百恵だったら「山百」、ジャイアント馬場だったら「ジャイ馬」になったのか?

というわけで、鶴見線の探検が始まります(^益^)b

  
           かつてはこんな電車が走っていたそうです。



鶴見駅で京浜東北線から鶴見線に乗り換えます。



このようにここはターミナル。東京近郊では珍しいよね。

日中は20分に1本。車両は3両だ。



お隣の「鶴見小野」。なんかいきなり田舎になった雰囲気。木製の柱だよ。



2駅も進むと、住宅がなくなって、ご覧の通り緑が豊かになります。その向こうは
もう工場が並んでいるのです。



線路が枝分かれしていきます。あちらの路線には駅があるわけではなく、工場への
引き込み線なんです。たまにしか走らないようで、線路に草がはえていますね。



ローカル線の駅みたいー。これが品川と横浜にはさまれた土地だとは思えぬ。



おおお、工場が目の前だ。首都圏の多くの工場は他のアジアの国々に場所を移し、
かつての湾岸工業地帯は「ベイエリア」などと呼ばれてタワーマンションが
乱立しておりますが、ここらにはまだたくさん残っていたのですねー。


連続性への郷愁 ~バタイユのエロティシズム 4

2015年06月23日 | らくがき

 キーツはギリシャの壺の絵に、至福の瞬間の永遠化を見つけました。でもそれは所詮「冷たい牧歌」で、キーツは生身の人間です。そして彼はファニー・ブローンというお嬢さんに熱烈に恋して、激しいラブレターを山ほど書きました。「君のことを思うと死にたい」なんてことを言っています。

 体の弱い若い詩人は、どうやら「永遠性」に強い憧れを持っていたようですね。たしかに若い人の聞く曲には、「永遠に」「変わらない」「いつまでも」「ずっとこのままで」なんて歌詞がやたらに出てきますよね。「星降る夜に」「翼を広げ」ながら(^益^;

                     

  フランスの思想家・小説家であるジョルジュ・バタイユは、「根本的にわれわれ人間は、理解できない運命の中で死にゆく非連続の存在であり、常に失われた連続性への郷愁を持っている」と述べています。「非連続」とは、われわれは移りゆく時の流れのなかで生きているということ、すなわち幸福を求め、至福の瞬間をとらえようとしても、すべてはむなしく過ぎ去ってゆく宿命にあるということです。われわれは孤独で、恋は必ず冷めるものであるし、盛者必衰のことわりを逃れるすべはなく、いずれそれぞれひとりで土へ帰る運命です。だからこそ、「失われた連続性への郷愁」を持ち続ける。奇跡の永遠化を夢見るのです。
 人はいろいろな方法で時の流れに対抗しようとします。何かの記録に名を残す。銅像を立てる、墓を立てる、ピラミッドを作っちゃう。子供にDNAを受け継いでもらう…。またこういった方法とは別に、われわれは「連続性」をとらえようとします。それをバタイユは「エロティシズム」で説明します。

 恋人にとっては、愛する相手だけがこの世において、私たち人間に禁じられていることや、二つの存在の完全な混同や、二つの非連続な存在の連続性などを実現することができるものと思われる。かくて情熱は私たちを苦悩のなかへ誘いこむ。それというのも、じつは情熱というものが不可能の追求だからであり、表面的には、常に危うく保たれた調和の追及だからである。

 
愛しあう相手となら、完全な一体感、永遠の至福を垣間見ることはできないか?バタイユは言います。「幸福の本質は、二人の人間のあいだに頑固に立ちはだかっている非連続性を、一つの奇跡的な連続性に代えようとすることである」と。この人とならば、あらゆる制約を超越することができるかもしれない。たしかにそんな気にさせられることがありますが、それは「常に危うく保たれた調和の追及」です。だからつきつめると死んじゃうやつが出てくる。ひと昔前に話題になった渡辺淳一の『失楽園』では、主人公のカップルは、不倫で燃え上がった恋を永遠化するために、裸で抱き合って*゜益゜*な瞬間に毒をあおって心中します。「もう死んでもいい!」が行き過ぎて「この瞬間に死のう!」ときたもんです。厳しい世間にだけではなくて、二人の至福の瞬間が時の宿命によって指の間からすべり落ちてゆくことに抵抗しようとしたのです。究極の愛、一体感を永遠化しようとしたのですね。われわれを非連続の存在にしている絶対的な「死」が、逆説的に永遠への飛翔の手段になることがあるのですね。


キーツとファニー・ブローン 3

2015年06月21日 | らくがき

 英国のロマン派詩人ジョン・キーツは肺結核を患い、25歳の若さで他界しました。彼の珠玉の詩のみならず、親しい人々に寄せた書簡もいまだに読み継がれています。なかでも婚約にまで至った近隣に住む娘ファニー・ブローンへの恋文には、近づく死を意識しながら、彼の激しい恋心が綴られています。
 私はロンドン郊外にあるキーツ記念館を訪れたとき、彼の直筆の手紙がガラスケースに納められているのを見ました。そしてその一枚を読んで驚きました。以下に引用するファニーへの恋文の、もっとも熱烈なものが展示されていたのです。死後200年近く経ているとはいえ、あのような公共の場所に開示されるとは、まさか御本人は想像もできなかったでしょう。そしてまたこういう形で日本語に訳され、果てしないネットの空間にただよい始めるのですね。

僕は、僕たちが蝶で、夏の三日間しか生きられないのであれば、とさえ願っています―そのようなあなたとの三日間があれば、僕はそれを平凡な五十年が含むよりも、もっと大きな喜びで満たすことができるでしょう。(1819年7月、キーツ24歳)

 
前年には弟を肺結核で失い、この頃すでにキーツ自身にもこの病の兆候が現れており、医者の診断を受けてファニーとの婚約は解消されていました。しかしこのような運命を呪い、嘆き悲しむどころか、キーツは自分の胸に抱くファニーへの思いに恍惚となり、幸福に満たされているようです。
 やがて季節は秋になり、キーツの募る恋心は、さらにはっきりと「死」を意識するようになってゆきます。

あなた無くして僕は存在できない―あなたに会うこと以外、僕はすべて忘れているのです―僕の生活はそこで止まっているんだ―それ以上なにも見えないのです。あなたは僕をすっかり虜にした。今まるで溶けてしまいそうな感じなのです。あなたにすぐに会えるという望みがなければ、まったく哀れなことになってしまうでしょう。あなたから遠く離れることが恐いのです。愛しいファニー、あなたの心は変わることがないだろうか?愛するひと、本当にそう?僕の愛には限りがなくなっています。…これまで人が宗教のために殉ずることができるということに驚きを感じていました―ゾッとしたものです―もう驚きません―僕の宗教のために、殉ずることができます―愛が僕の宗教なのです―そのためには死ぬことができるのです―あなたのために、死ぬことができるのです。僕の信条は愛であり、あなたはその唯一の教義なのです―あなたはとても抵抗できないような力で僕を虜にした。あなたに会うまでは抵抗できたのです。あなたに会ってからでさえも、僕は何度も「自らの愛の道理に対して理性を働かそう」と努力してきました。でもこれ以上はできないのです。(1819年10月)

 
恋人たちの常であるが、キーツも相手の恋心が変化してゆくことを恐れており、その永遠化(連続性)への願望は、死による完成(殉死)とつながってゆく。死を望むなどということは、あまりに非理性的なこと、とキーツは葛藤しています。しかしどちらが正しい、という問題ではないでしょう。「不可能の追求」、その葛藤が生み出すエネルギー、エクスタシーそのものをキーツは擁護しているのです。
 翌年になると、いよいよキーツの肺結核は悪化し、ファニーに送った手紙のなかでも、現実的な死を意識するようになっています。

僕は心の底から君を愛してきた。僕はあなたの様々な表情、ふるまい、衣装などに、いつでもどんなに思いをこめているか、わかってくれたらと思う…僕はあなたに絶対の別れを決してすることのないような、不死を信じたいと願っています。もしこの世であなたと幸せになれる運命ならば―最も長い人生でさえも、なんと短いことでしょう―僕は不死を信じたいのです―あなたと永遠に生きてゆきたいのです…確かにあなたは僕の心であり、魂であるのですね。そうであれば、そうでなく生きるより、幸せに死ねるというものです。(1820年7月?)

 
キーツは死を前にして、それを恐れたり悲しんだりしてはいません。彼の求めるものは「永遠の愛」なのです。それは「不死」であり、同時に死を厭わないもの、愛の永遠化につながる手段としてなら、死を求めるものでもあるのです。ファニーのために書いたと思われる’Bright star! would I were steadfast as thou art’という詩があります。

 
輝く星よ!僕もあなたのように不変の存在であれば―
          …………………
 いつもしっかりと、ずっと変らずに
  僕の美しい恋人の豊かな胸に頭をのせて
 その柔らかい膨らみと谷間を永遠に感じ
  甘い気遣いを保ちながらいつまでも注意を怠らない
 ずっと、ずっと彼女の柔らかな吐息を耳にする
 そのように永遠に生きるか―もしくはうっとりと死にたい―

 
キーツは恋人の胸に頭をうずめ、それが永遠不変であることを望みます。しかしそれが不可能であるならば、いっそ死を願います。それは法悦の瞬間をとらえるため、彼の生の完成、すなわち愛の永遠化のためだったのです。

   
スコットランドの最高峰、ベン・ネビス山。キーツは自分の出版した詩が酷評されて落ち込んだとき、この山に登って立ち直ったそうです。でもこのときに結核の兆候があらわれたとか。