さきち・のひとり旅

旅行記、旅のフォト、つれづれなるままのらくがきなどを掲載します。 古今東西どこへでも、さきち・の気ままなぶらり旅。

さらばリスボン 31

2010年02月01日 | ポルトガル

さていよいよリスボン最後の夜です。3夜連続で、あのなじみとなったシーフード・レストランへ。

「カタプラーナ」という鍋で蒸し煮にした料理を食べたいと思いましたが、このシリーズはすべて「2人前から」とメニューに書いてある…。お気に入りとなったドゥロの"Evel"(赤ワイン)を注文しつつ、「1人前で出してくれないかなぁ」と頼んでみると、意外にあっさりとOK!(^益^)b やっぱり連夜いってみるもんだなぁ~^^

これを見れば~(^^)何が入っていたか~(^益^)わかるでしょ^^; しかしひとりで鍋いっぱいは流石に多い…。

腹はパンパンになりましたが、こちらのデザートで定番という「プディン・フラン」すなわち日本の「プリン」を注文する。舌触りはねっとり。味は濃く、ほんのりと焦げたカラメルが香ばしく素晴らしい一品。

最後は再びポルト・ワインでしめようかと悩んだあげく、コーヒーにしておいた。そして支払いを済ませて帰るとき、サーヴをしてくれた感じのいい店員のおじさんに「これでわたしのリスボン滞在は終わりなんです。素晴らしい食事を3日間ありがとう」と礼を言い、固い握手を交わしてホテルに帰りました…(T益T)

このシリーズをご覧になったみなさんはおわかりでせう。今回の旅は、かなりの食べすぎ、飲みすぎであります。

だいたいポルトガル各地のワインを短期間で飲み比べてみようというのが無謀な企て。経験値としてはかなりの成果があがりましたが、毎夜飲んで食って満腹で寝たもんですから、夜中に苦しひ。私はこの旅で6kg太りました。私の生涯の最重量記録を大幅に更新であります。なにせ10%アップなもんだから、ズボンはきつくなり、顔は、特にアゴの部分が膨らみました…。帰国後すぐに受けた健康診断では、肝機能に異常値が発生、なんと最悪の「要治療」という診断…w(゜゜)w しかーし、原因はわかっていたし、ほうっておけば治るだろうと思っていました。そして普通の食生活に戻り、10日あまりで体重も無事元に戻りました。やっぱり食生活なんですねェ~(^益^;

翌朝、空港に向います。地下鉄の通風孔にホームレスの若者が寝ていました。ここは暖かい風が吹き、少し寒くないかもしれませんが、乾燥してのどがガラガラにならないか?(゜゜)

空港についたら、あのベレンで食べたパステル・デ・ナタを発見。カフェ・ラッテと共に頂きました^^

まだリスボンにいるわけですが、空港はもうすでに当地ではなく、無所属の通過施設です。なのでこの焼き菓子を食べながら、もうリスボンの地がなつかしく思えてしまうのでした…(´;д;`)ノサヨウナラ

 

http://www.youtube.com/user/sakichi21#p/u/4/b5BZRYdQCds

↑リスボンの旅を編集したビデオクリップです。一度見たかたも、是非どうぞ~(^益^)b

 

ここはもう、あの暗くて陰気でメシがまずい英国、ロンドンの郊外、ルートン空港に到着し、シャトルバスに乗っています。

 警告 手でこれを割ろうとするなよ 取るにはこれをブチ割れ

~と書いてあります。バスの中で火災が起こったときなど、窓ガラスをブチ破るためのハンマーです。しかし、窓を割るための道具を取るのに、手を使うなって…。そもそも何か道具があれば、これを取る必要もなくなってくるわけで…(゜゜)?

そしてここはロンドン、セント・パンクラス駅に戻ってまいりました。まるで賑やかなお祭りが終わった後、平凡な日常が戻ってきたような寂しい気分。これから数日間ロンドンで過ごし、このヨーロッパ旅行は終わりになりますぅ~(゜゜)w

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栄光は誰のものに ~マゼランと世界一周(最終回) 30

2010年01月28日 | ポルトガル

クルーズはテージョ川を戻り、リスボン中心部へと戻ってきました。

先日歩いたところが見えています。クルーズも終わりに近づき、私のリスボン旅行の日程も終わろうとしています。。。

きれいデショ(^益^)b

栄光は誰のものに ~マゼランと世界一周(最終回)

スペインにたどりついた18人は衰弱しきって、さながら「よろめく骸骨」のようだったという。人々は感動した。旅立った5隻はとっくにどこかの海の藻屑と化したと思っていたところ、3年を経てまさか本当に世界一周をなしとげて戻ってくるとは!

この偉業は全ヨーロッパにとどろき渡り、人々を熱狂させた。地球の大きさは確定し、人類は限られた空間でこれから生きてゆくことになったのだった。帰還したビクトリア号がもたらした26トンの香辛料は、5隻の船隊準備の費用をはるかに越える純益を生んだ。

マゼラン海峡で逃げ出して帰っていた連中は心臓が止まる思いをしたことだろう。しかしマゼランは死に、反逆者の一員だったデル・カーノがビクトリア号の指揮をとっていたことが彼らにとって幸いした。マゼランの手記は永遠に葬り去られ、いつでも死んだ人間に罪は着せられるのだ。

忠実な記録者ピガフェッタの日記も、政治的圧力によって抜粋しか残されていない。マゼランの遺族には、全部の利益の5分の1が与えられるはずであった。しかし3年間の航海の間に、残してきた妻も、二人の息子たちも死んでしまっていた。つまり誰も受けとる人間はいなかった。

さて栄光は誰のもとにあるのだろう。国で言えばマゼランの出身地ポルトガルか、彼を送り出してやったスペインか?ポルトガルはマゼランを冷たく扱い、追い出し、最後には邪魔をした。ならばスペインが人類初の世界一周をなした国であると誇っていいのだろうか?ひとりの外国人を司令官として雇ったわけなのだが…。

次に人物である。

最初に世界一周をしたのは、奴隷として連れ去られたマライ原住民のエンリケである。拉致されて故郷からヨーロッパに連れてゆかれ、スペインから南米を渡って地球をぐるりと一周し、再び生まれた地にたどりついた男。ただし彼はなされるがままになっていただけである。

歴史の教科書に出てくるのはマゼランである。しかし彼は途中で死に、世界一周を成し遂げていない。ただし企画を立て、船隊を途中まで指揮し、夢のマゼラン海峡を渡ることに成功した男である。

今ではほとんどその名を知られていないだろうが、スペインから出発し、再びスペインに戻るという、ヨーロッパ人にとって初めて世界一周を成し遂げた男はデル・カーノである。ただし彼は南米でマゼランに反逆し、その後次々に船長が死んだものだから、タナボタで最後に指揮者となっただけである。当時は彼がもてはやされた。

みなさん、誰に一票? (^益^)w

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ついに世界一周を成し遂げる ~マゼランと世界一周(14) 29

2010年01月25日 | ポルトガル

テージョ川のクルーズは、河口付近の「ベレンの塔」にやってきました。これは見物した「ジェロニモス修道院」や「発見のモニュメント」からは少し遠く、歩くのが大変そうなので見ていませんでした。だからここに船が30分程停泊するのでラッキーでした~。

司馬遼太郎は、この塔を女性的なものと感じ、日陰になった姿は「老いた貴婦人」と言い、陽がさした様子は「はじめて社交界に出るういういしい少女のよう」と表現しました。ちょっとどおかなぁ…(^益^;

この塔は、もちろん外敵から街を守る要塞として造られましたが、司馬が言うとおり、長い航海を終えて疲れきって帰ってきた船乗りたちを、暖かく迎えて安らぎと癒しを与える「母性」のようなものを持っているかもしれませんね。

ご覧の通り、この塔には登ることもできましたが、船が出るまでの時間は短かったのでやめておきました。

*↓このクルーズの様子を、ビデオクリップで是非ご覧下さい~(^^)w

http://www.youtube.com/user/sakichi21#p/a/u/0/dLoHiTHo-Zc

 

ついに世界一周を成し遂げる ~マゼランと世界一周(14

マゼランが率いた船団のうち最後の一隻、ビクトリア号は、デル・カーノの指揮のもと、香料諸島からポルトガルの目を避けながら、インド洋を通ってアフリカを回り、ボロボロになった船でスペインへ行かなければならなかった。

数ヶ月に及ぶこの旅に襲ってきたのは再び飢餓であった。船には7万ポンドの香料を満載しており、この価値は数百万人の人々が腹いっぱいに食べられるほどのものであったという。しかし灼熱の太陽の下、見渡す限り水平線の船の上では何の価値にもならない!

飢えと病気で、次々に死者が出た。しまいには船体に亀裂が走り、餓死と隣り合わせの乗組員たちは、必死に昼夜を通して不眠不休でポンプを動かし続けなければならなかった。最後に生き残ったのは47人のうち、なんと18人。出発時は265人だったのに。

そしてついについに、3年間の時を経て、人類は世界一周を成し遂げた。ピガフェッタはこの旅のあいだ一日も欠かさず記録をとり続けていたが、一日がなくなっていることに気がついた。船上では水曜日だと思っていたのに、陸では木曜日だったのだ。西へ西へと向ってゆけば、太陽に基づいた日付のカウントは遅れてしまう。一周で一日分だ。地球は宇宙に浮かんで自転していることがここに証明されたのである。

太陽が真上にあるときに、地球が回っているのと同じスピードで西へ向って飛行機で飛んでゆけば、いつまで経ってもお昼なのー。

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スペイン船、帰途につく ~マゼランと世界一周(13) 28

2010年01月22日 | ポルトガル

船はテージョ川を進み、「発見のモニュメント」が見えてきました。

この上に登ったのは、このポルトガル編の19でお伝えしました。川の上から見れば、エンリケ航海王子が勇ましく見えますね

スペイン船、帰途につく ~マゼランと世界一周(13 

司令官を失い、さまよい出した二隻の船は、手当たり次第に略奪を行いながらジグザグに進んでいった。そして1521年、ついに彼らはマゼランが夢見た香料諸島にたどりついた。この豊かで平和な島に永住することを選択したセッラン、マゼランを招いた友人は数週間前に死んでいた。もし生きていたら、到着直前のマゼランの死をひどく嘆いたことだろう。 

ここの楽園の王は、二隻いっぱいのチンピラ共を暖かく歓待し、喜んでスペイン王の主権を承認し、香辛料、食料、砂金などを差し出した。スペイン船が交換に出したものはシャツや小銃、マントなどで、彼らは一瞬にして大金持ちになったのだ。しかしお宝を満載すると、二隻のうち一隻しか出帆できないことがわかった。長い道のりを経た後で、すでに船はボロボロになっていたのである。 

しかたなく約100人のうち半分は残ることになった。スペインへの帰途につく47人を引き連れる船長は、なんと南米でマゼランに反逆を起こした張本人、セバスチアン・デル・カーノである。彼が栄光の世界一周の栄誉を手にすることになろうとは! 

ここからインド、アフリカを回って帰る道のりは、もうすでによく知られた航路である。しかし、水先案内人を乗せ、食料を補充し、船を修理する各地の拠点はポルトガルの支配下にある。ポルトガル王マノエルは、マゼランの世界一周を阻止するために、見つけたら直ちに捕らえよという指令を出していることがわかった(あとから出発したトリニダッド号は捕まえられた)。 

こうなればこの老朽船で、どこにも停まらずに残りの世界を半周するしかないのだ。これもまた絶望的に困難な企てであった。

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マゼランの死後 ~マゼランと世界一周(12) 27

2010年01月19日 | ポルトガル

さて午後の予定は何もなかったので、渡し舟に乗って港の反対側にでも行ってブラブラと散歩しようかと考えた。船着場に行くと、観光クルーズの案内が出ていた。係員のおねいさんに聞いて見ると、港をぐるりと回って、いくつかの名所を見て戻ってくるという。こりゃあいいな、と思ったら、出発は数分後!

「乗れるの?」と聞いたら、「これから案内人がやってくるから大丈夫。ついて行ってね」と言われた。そしてその通り^^ 無事乗り込みました(^益^)b

ここちよい潮風を受けながら、船は快適に進みます(^^)w

街から何度も見た大きな橋をくぐって行きました^^

向こうに見えるのは両手を広げたキリスト像。高さ110mもあるそうです。エレベーターで足元のところまで登ることができるらしひです。。。

マゼランの死後 ~マゼランと世界一周(12) 

マゼランのトン死によって、どこからともなくやってきた白人は、不死で無敵で神の力を備えているという幻想が破られた。残った乗組員たちは、この危険な状態からさっさと抜け出して帰国しようと考えた。 

マゼランの死後に代理の司令官となったバルボサという男は、マゼランに忠実だった奴隷のエンリケに高飛車な態度をとった。原住民との通訳をさせて、ムチで脅かし、スペインまで同行させると言ったのだ。エンリケは沢山の褒美をもらって故郷に帰してもらえるという、マゼランの約束を反故にされたことを知った。 

そして彼は当然のことながら裏切った。この地の大酋長に、スペインの船団のうらをかいて襲撃してやるように勧めたのだった。大酋長はこの考えに乗り、スペイン王に献上するための贈り物をするから、船長たちに取りに来てくれと招待したのである。ここでエンリケ君は逃亡。その後はどのような人生を送ったのでしょうか。。。 

29人の指揮官や水先案内人などが、宴会に参加するつもりでいそいそと出かけてゆき、大人数の原住民たちに一斉に襲われた。船に残っていた者たちは仲間の悲鳴に驚き、大砲をありったけぶっ放して逃げ出すしかなかった。 

ここで残ったのはスペインを出たときの265人のうち115名。しかも船長や熟練した水先案内人はもういない。残った3隻のうち、1隻を放棄するしかなかった。そしてどちらに進んでよいのかもわからず、二隻の船はあちこちと東南アジアの海をさまよい始めたのだった。

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