『ケルト歴史地図』
ジョン・ヘイウッド(著)/井村君江(監訳)/
倉嶋雅人(訳)/東京書籍2003年
原書名 The historical atlas of the Celtic world
表紙の裏に書かれてあります。下「」引用。
「本書『ケルト歴史地図』に収められた、3000年にわたるヨーロッパ全土のオールカラーの地図には、青銅器時代の起源から今日の「大離散」までのケルト人のドラマティックな歴史が具体的に表わされている。ケルト人の歴史的アイデンティティをめぐる論争を考慮しつつ、最新の研究成果を盛り込んだ本書では、「大陸のケルト」と「大西洋のケルト」(英国とアイルランド)、および「現代のケルト」のアイデンティティを検証している。」
第1部 「大陸のケルト」
第2部 「大西洋のケルト」
第3部 「現代のケルト」
ケルト人。下「」引用。
「今日では、ケルト人は主としてヨーロッパの大西洋周辺の一住人であるが、実際のところ、過去にケルトの影響を全く受けていないというヨーロッパの国はほとんどない。最初にケルト人が登場した紀元前6世紀の時点で、彼らはすでに、中欧および西欧における有力な人々であった。」
今日では……。下「」引用。
「今日では、ケルト人は健全でエコロジカルな価値観の体言者と解釈されている。われわれには彼らの自然に対する愛情はやや例外的なものに思われるし、その生活様式は、今日流行の専門用語でいえば「持続可能な」ものであった。しかしこれはケルト人を「緑色の眼鏡」〈エコロジストの視点〉を通してとらえる見方といえる。異教徒であるケルト人は四季それぞれの季節に大きな敬意を払い、森や泉や川など自然に結びつけられた神々を信仰した。しかしローマ人やギリシア人、初期ゲルマン人もまたそれほど変わりはなかった。初期の農耕民は自然と共に暮らしていた-略-」
自然と超自然の区別をつけていなかった。
--これもギリシア人もローマ人なども同様であったという。
「ケルト語の起源」 下「」引用。
「ケルト語の起源は、最初に歴史記録の中にケルト人が登場したときより少なくとも2000年前までさかのぼることは確かである。しかし有史以前の言語の復元には多くの困難をともなっている。」
「ケルト人のガリアの終焉 200~500年」 下「」引用。
「212年のカラカラ帝の布告(アントニヌス勅令)によって、帝国内すべての自由民にローマ市民権が付与されていると、ガリアはローマ帝国へにの統合の最終段階を迎えたが、それはガリア人のアイデンティティの終わりを意味すりものでなかった。少なくとも3世紀のガリアには自身の誇りを取り戻すきざしが見られたからである。」
「ブルターニュの王国 700~939年」 下「」引用。
「8世紀半ばにいたるまで、ブルターニュの政治的な発展の様子はほとんど何もわかっていない。ブレトン人は政治的に統一されたことはなく、統一があるとしてもそれは外部から押しつけられたものだった。-略-」
ブリテンとアイルランド。下「」引用。
「ブリテンとアイルランドのケルト人は異なっている。
われわれの知るかぎり、これらの島に住むケルト語を話す人々は、現代以前にはかつて誰一人としてとして自らをケルト人と認識したことはなかった。ローマの著述家たちはブリテンのケルト人とガリア人の言語と文化には類似性があることに気づいてはいたものの、彼らはそれぞれを別の人間だと見なしていたし、実際、ブリトン人はそのように意識していた。」
「ローマのブリテン征服 前55~後85年」 下「」引用。
「前1世紀まではローマ人にとってブリテンで興味を引くものは唯一、錫が採れるということだけだった。ガリアを援助したブリトン人に報復するために、カエサルがこの地に侵入する前55~前54年までは、この島については詳しいことは何もわかっておらず、未知の神話的な土地だった。」
「ケルト人とローマ化されたブリテン 後43~410年」 下「」引用。
「ローマの征服はブリテンに顕著な政治的・経済的・文化的な変化をもたらしたが、いっぽうブリテンは帝国属州のなかでも最もローマ化の度合いが低い地域のひとつに留まっていた。うわべはラテン語で化粧してはいても、ケルトの文化や信仰のさまざまな局面が生きつづけていた。」
「ピクト人の起源 後200~600年」 下「」引用。
「有史時代のイギリス諸島で活躍したケルト人のなかで孤立していたピクト人は、完全に消滅し、彼らの言語・文化、アイデンティティは中世初期にスコットランド人に破壊されてしまった。-略-」
「ブリテンとブリトン人 300~550年」下「」引用。
「ローマ支配以後の一般的なブリトン人のイメージは、アングロ=サクソン人、ピクト人、スコット人によって荒し回られた、救いがなく生きる意欲を失った犠牲者というもであろう。しかしこの生気阻喪した姿は、後代のキリスト教聖職者の伝記作家が教訓的に衰退を描いたものであったが、ブリトン人は実際には、明確な決意をもって自らを守り、かなりな繁栄も享受していたのである。」
「ハイランド掃討 1763~1886年」
もくじ
もくじ
目次
ジョン・ヘイウッド(著)/井村君江(監訳)/
倉嶋雅人(訳)/東京書籍2003年
原書名 The historical atlas of the Celtic world
表紙の裏に書かれてあります。下「」引用。
「本書『ケルト歴史地図』に収められた、3000年にわたるヨーロッパ全土のオールカラーの地図には、青銅器時代の起源から今日の「大離散」までのケルト人のドラマティックな歴史が具体的に表わされている。ケルト人の歴史的アイデンティティをめぐる論争を考慮しつつ、最新の研究成果を盛り込んだ本書では、「大陸のケルト」と「大西洋のケルト」(英国とアイルランド)、および「現代のケルト」のアイデンティティを検証している。」
第1部 「大陸のケルト」
第2部 「大西洋のケルト」
第3部 「現代のケルト」
ケルト人。下「」引用。
「今日では、ケルト人は主としてヨーロッパの大西洋周辺の一住人であるが、実際のところ、過去にケルトの影響を全く受けていないというヨーロッパの国はほとんどない。最初にケルト人が登場した紀元前6世紀の時点で、彼らはすでに、中欧および西欧における有力な人々であった。」
今日では……。下「」引用。
「今日では、ケルト人は健全でエコロジカルな価値観の体言者と解釈されている。われわれには彼らの自然に対する愛情はやや例外的なものに思われるし、その生活様式は、今日流行の専門用語でいえば「持続可能な」ものであった。しかしこれはケルト人を「緑色の眼鏡」〈エコロジストの視点〉を通してとらえる見方といえる。異教徒であるケルト人は四季それぞれの季節に大きな敬意を払い、森や泉や川など自然に結びつけられた神々を信仰した。しかしローマ人やギリシア人、初期ゲルマン人もまたそれほど変わりはなかった。初期の農耕民は自然と共に暮らしていた-略-」
自然と超自然の区別をつけていなかった。
--これもギリシア人もローマ人なども同様であったという。
「ケルト語の起源」 下「」引用。
「ケルト語の起源は、最初に歴史記録の中にケルト人が登場したときより少なくとも2000年前までさかのぼることは確かである。しかし有史以前の言語の復元には多くの困難をともなっている。」
「ケルト人のガリアの終焉 200~500年」 下「」引用。
「212年のカラカラ帝の布告(アントニヌス勅令)によって、帝国内すべての自由民にローマ市民権が付与されていると、ガリアはローマ帝国へにの統合の最終段階を迎えたが、それはガリア人のアイデンティティの終わりを意味すりものでなかった。少なくとも3世紀のガリアには自身の誇りを取り戻すきざしが見られたからである。」
「ブルターニュの王国 700~939年」 下「」引用。
「8世紀半ばにいたるまで、ブルターニュの政治的な発展の様子はほとんど何もわかっていない。ブレトン人は政治的に統一されたことはなく、統一があるとしてもそれは外部から押しつけられたものだった。-略-」
ブリテンとアイルランド。下「」引用。
「ブリテンとアイルランドのケルト人は異なっている。
われわれの知るかぎり、これらの島に住むケルト語を話す人々は、現代以前にはかつて誰一人としてとして自らをケルト人と認識したことはなかった。ローマの著述家たちはブリテンのケルト人とガリア人の言語と文化には類似性があることに気づいてはいたものの、彼らはそれぞれを別の人間だと見なしていたし、実際、ブリトン人はそのように意識していた。」
「ローマのブリテン征服 前55~後85年」 下「」引用。
「前1世紀まではローマ人にとってブリテンで興味を引くものは唯一、錫が採れるということだけだった。ガリアを援助したブリトン人に報復するために、カエサルがこの地に侵入する前55~前54年までは、この島については詳しいことは何もわかっておらず、未知の神話的な土地だった。」
「ケルト人とローマ化されたブリテン 後43~410年」 下「」引用。
「ローマの征服はブリテンに顕著な政治的・経済的・文化的な変化をもたらしたが、いっぽうブリテンは帝国属州のなかでも最もローマ化の度合いが低い地域のひとつに留まっていた。うわべはラテン語で化粧してはいても、ケルトの文化や信仰のさまざまな局面が生きつづけていた。」
「ピクト人の起源 後200~600年」 下「」引用。
「有史時代のイギリス諸島で活躍したケルト人のなかで孤立していたピクト人は、完全に消滅し、彼らの言語・文化、アイデンティティは中世初期にスコットランド人に破壊されてしまった。-略-」
「ブリテンとブリトン人 300~550年」下「」引用。
「ローマ支配以後の一般的なブリトン人のイメージは、アングロ=サクソン人、ピクト人、スコット人によって荒し回られた、救いがなく生きる意欲を失った犠牲者というもであろう。しかしこの生気阻喪した姿は、後代のキリスト教聖職者の伝記作家が教訓的に衰退を描いたものであったが、ブリトン人は実際には、明確な決意をもって自らを守り、かなりな繁栄も享受していたのである。」
「ハイランド掃討 1763~1886年」
もくじ
もくじ
目次